大正14年8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められ、中橋も昭和2年にできた。

瀬戸市藤四郎町
瀬戸川の右岸、公園橋の北詰に公園の入口がある。古い昔では庚申山あるいは禅長庵山と呼び、慶応2年(1866)に加藤四郎左衛門景正の顕彰のため六角陶祖碑が建立されてからは藤四郎山と呼ぶようになった。公園として開園するに至ったのは明治43年(1910)4月陶祖春慶の七百年祭を執行した時からで、「瀬戸公園」と名付けられた。平成26年に陶祖800年祭記念事業として、園名を「陶祖公園」として再整備された。
陶祖碑の正面下段に一対の灯籠が明治5年(1872)に寄進されている。灯籠は石造りが普通であるが、陶器で製作したところが瀬戸らしい。公園のシンボル、陶祖碑を大切に保存するため昭和44年(1969)地元篤志家の寄付で、鉄筋2階建のお堂を建設して中に陶祖碑を納めている。
園内の山腹には、明治19年(1886)に有栖川宮殿下をお迎えしたときに名付けられた竹露庵がある。
昭和26年(1951)に周辺部分を含み、陶祖公園として都市計画決定された。

新築されたのは、昭和初期で、当時この場所に橋がなく、不便だったので、丸山陶器が自費で、橋を架けたと云われている。昭和4年(1929)に瀬戸に市制がひかれたので、それ以後丸山橋は瀬戸市に移管された。昭和36年(1961)に架け替えられ、名称も「丸山橋」から「新大橋」にかわった。
国道155線と菱野線を結ぶ道路整備の一環として約50年ぶりに架けかえ工事が行われ、平成22年(2010)3月25日竣工し、名称も「新共栄橋」と変更された。
欄干にはツバキなどが描かれた瀬戸染付の磁器板が合計26枚はめ込まれ、親柱には加藤錦三氏が揮毫した橋の名前入りの磁器板がはめ込まれている。


旧尾張瀬戸駅近くに、昭和37年(1962)3月に新築された。昭和60年(1985)3月には、地場産業のPRとイメージアップを目的に、「やきものを使った街づくり事業」の一環として改装工事を行った。
新しく生まれ変わった南橋は、瀬戸の伝統的なやきものを代表する「織部」がモチーフになっており、欄干を織部調のタイルで模様替えするもので、とくにポイントとなるのは、欄干の欄間部分の陶板である。この陶板は、四代加藤作助氏の寄贈によるもので、上流川と下流川の欄干欄間の両面に、併せて40枚取付してある。
中心市街地の活性化を目的とした「瀬戸川文化プロムナード」計画のなかで、瀬戸川(瀬戸大橋~記念橋)・瀬戸川プロムナード線の整備とともに橋梁が検討され、蔵所橋と南橋は道路橋としての役割を終えることになり、現在工事が進められている瀬戸大橋が完成すると取り壊されることになる。
瀬戸市須原町、紺屋田町、藤四郎町、東印所町 特殊公園 5.80ha
瀬戸川上流の右岸小高い山の上に陶祖公園は位置し、明治43年(1910)に陶祖700年祭が行われ、初めて公園の設備がなされた。公園内には鎌倉時代から近代までの窯跡もあり、古くは庚申山、藤四郎山といわれて、瀬戸の人々から親しまれてきた。幕末の瀬戸の名工加藤岸太郎が中心になって成形・焼成、慶応3年(1867)に完成した日本最大級の陶製碑である。この陶碑を製作するにあたっては、北新谷の丸窯の中で造り、焼成後窯の入り口を壊して取り出し、コロを用いて庚申山まで運んだと伝えられている。高さ4.1m日本で最も大きいこの焼物は、昭和49年(1974)に瀬戸市の文化財に指定されている。
陶祖碑の建設より5年遅れて、明治5年(1872)陶祖碑の正面下段に一対の焼き物の灯籠が寄進された。陶祖碑の製作者加藤岸太郎がおよそ1年がかりで製作した。陶製志野焼燈籠は、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基礎の6部分から成り、陶製燈籠としてはわが国最大級の規模と最高の作行を誇るものである。平成5年(1993)に瀬戸市の文化財に指定されている。
陶祖800年祭記念事業として、六角陶碑堂や「六角藤棚」の整備をはじめ、青磁と瑠璃の陶柵の復元、加藤昭男制作の陶祖像の設置、瀬戸陶芸協会会員による階段蹴上げのタイル装飾やスツールの設置など、装いも新たになった。陶祖公園の園銘碑の園名板は、総持寺貫首の江川辰三禅師によるものである。
野球場としての陶祖グランドや防災緑地としても整備されている。
⇒瀬戸公園を参照
⇒六角陶碑を参照
⇒志野焼燈籠を参照


大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められ、宮前橋も昭和2年(1927)にできた。
現在の宮前橋は、昭和28年(1953)5月に改築されている。昭和59年(1984)4月には、陶磁器産業振興の一環として、1000年余のやきものの歴史をもつ瀬戸市にふさわしい観光資源の整備と、陶磁器産地の誇りとしてのシンボルづくりを兼ねて進めている「やきものを使った街づくり事業」の一つとして欄干改築工事が竣工した。欄干のデザイン決定は、地場産業モデル都市推進協議会の協力により、瀬戸市と瀬戸焼のPRを兼ね、全国公募を展開して行った。改築が終わった宮前橋は、欄干全体と磁器質タイルで仕上げ、欄干欄間には、加藤健太郎による江戸時代の陶工の姿を描いた染付磁器板を中央にはめ込み、その縁を市の花「つばき」をデザインしたブロンズ制の飾りを取り付け、美術的要素も採り入れたものとなっている。また、欄干中央小柱上には、狛犬(現在のものは前川電光作、平成23年までが加藤進作)が上流、下流向かい合うかたちで載せられ、陶都瀬戸市の雰囲気を十分漂わせたものとなっている。

瀬戸市中山町、一里塚町 総合公園 21.50ha
市街地をとりまく周辺緑地ゾーンに属し、市街地の東南方向の丘陵に位置する。宅地開発の進行により、市街地に接する自然緑地が徐々に減少する傾向にある中にあって、できる限り自然を保全しつつ、位置的には市街地に近接するため都市的な利用にも対応ができるよう、市民全般の休息、観賞、散歩、遊戯、運動など多目的に利用されることを目的とする総合公園として計画された。
野球場を中心とした施設ゾーン(9.0ha)と生活環境保全林「中山の森」の自然環境ゾーン(15.7ha)とに大別されている。施設ゾーンには、野球場、テニスコート、多目的広場、ベンチ、東屋、遊歩道、植栽、児童遊具等が設けられている。また、「中山の森」は、自然林との調和を図り、四季折々の変化を楽しませてくれる樹木を多くとり入れた。春の息吹を感じさせる早春の森、明るい芝生広場、眺望絶景の市民の森、東側アプローチにある紅葉の森、野鳥の森に分かれ、散策路で結ばれ、自然観察、森林レクリェーションに適するよう整備がされている。昭和55年(1980)に着工し、段階的に整備するなかで昭和61年(1986)4月に竣工をみた。
大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められ、宮脇橋も昭和2年(1927)にできた。
昭和61年(1986)4月には、陶磁器産業振興の一環として、1000年余のやきものの歴史をもつ瀬戸市にふさわしい観光資源の整備と、陶磁器産地の誇りとしてのシンボルづくりを兼ねて進めている「やきものを使った街づくり事業」の一つとしての欄干改築工事が竣工した。改築概要は、上流側と下流側の欄干の小柱に十二支をあしらった、黄瀬戸に青織部のかかった陶板をそれぞれ12枚づつはめ込むもので、陶芸家山田朝春の得意とする陶彫によるものである。小柱は上端部が、地上面から70㎝のところで外側へ30度の角度で広がっており、開放感のあるデザインとするとともに陶板を見易くしている。小柱全体は、磁器質タイル仕上げである。陶板は、黄瀬戸に青織部をかけたものである。
瀬戸市東茨町、西茨町、東権現町、原山町、萩殿町1丁目、同3丁目 16.40ha
南公園は、瀬戸市のほぼ中心に位置し、東部・北部は中心市街地、南は菱野団地をはじめ市街化が進展する地区に接した緑豊かな丘陵地である。自然環境を活かした整備を進めることにより、自然と調和のとれた全市民のいこいの場として、また芸術・文化に親しむにふさわしい場所として順次整備された。
文化都市にふさわしい文化の殿堂となる、文化ホール・展示ホール(現市美術館)・ふれあいホール(現文化交流館)をもつ「文化センター」が昭和57年(1982)10月14日にオープンした。また、昭和62年(1987)4月にはナイター付きの野球場がオープンした。
広い芝生広場と道具広場がある公園としても整備されている。道具はコンビ遊具と長いアミの遊具で、コンビ遊具には短いローラー滑り台もあり、小さい子どもたちも楽しむことができる。
公園内の東は小高い山になっており、散策しながら、治山工事の歴史や技術を学ぶことができる。この「萩殿の森」は、8haの雑木林を愛知県が平成16・17(2004・05)年度に整備したものである。
⇒萩御殿を参照

