南橋

みなみばし


旧尾張瀬戸駅近くに、昭和37年(1962)3月に新築された。昭和60年(1985)3月には、地場産業のPRとイメージアップを目的に、「やきものを使った街づくり事業」の一環として改装工事を行った。
新しく生まれ変わった南橋は、瀬戸の伝統的なやきものを代表する「織部」がモチーフになっており、欄干を織部調のタイルで模様替えするもので、とくにポイントとなるのは、欄干の欄間部分の陶板である。この陶板は、四代加藤作助氏の寄贈によるもので、上流川と下流川の欄干欄間の両面に、併せて40枚取付してある。
中心市街地の活性化を目的とした「瀬戸川文化プロムナード」計画のなかで、瀬戸川(瀬戸大橋~記念橋)・瀬戸川プロムナード線の整備とともに橋梁が検討され、蔵所橋と南橋は道路橋としての役割を終えることになり、現在工事が進められている瀬戸大橋が完成すると取り壊されることになる。

宮前橋

みやまえばし


大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められ、宮前橋も昭和2年(1927)にできた。
現在の宮前橋は、昭和28年(1953)5月に改築されている。昭和59年(1984)4月には、陶磁器産業振興の一環として、1000年余のやきものの歴史をもつ瀬戸市にふさわしい観光資源の整備と、陶磁器産地の誇りとしてのシンボルづくりを兼ねて進めている「やきものを使った街づくり事業」の一つとして欄干改築工事が竣工した。欄干のデザイン決定は、地場産業モデル都市推進協議会の協力により、瀬戸市と瀬戸焼のPRを兼ね、全国公募を展開して行った。改築が終わった宮前橋は、欄干全体と磁器質タイルで仕上げ、欄干欄間には、加藤健太郎による江戸時代の陶工の姿を描いた染付磁器板を中央にはめ込み、その縁を市の花「つばき」をデザインしたブロンズ制の飾りを取り付け、美術的要素も採り入れたものとなっている。また、欄干中央小柱上には、狛犬(現在のものは前川電光作、平成23年までが加藤進作)が上流、下流向かい合うかたちで載せられ、陶都瀬戸市の雰囲気を十分漂わせたものとなっている。

宮前橋

宮脇橋

みやわきばし


大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められ、宮脇橋も昭和2年(1927)にできた。
昭和61年(1986)4月には、陶磁器産業振興の一環として、1000年余のやきものの歴史をもつ瀬戸市にふさわしい観光資源の整備と、陶磁器産地の誇りとしてのシンボルづくりを兼ねて進めている「やきものを使った街づくり事業」の一つとしての欄干改築工事が竣工した。改築概要は、上流側と下流側の欄干の小柱に十二支をあしらった、黄瀬戸に青織部のかかった陶板をそれぞれ12枚づつはめ込むもので、陶芸家山田朝春の得意とする陶彫によるものである。小柱は上端部が、地上面から70㎝のところで外側へ30度の角度で広がっており、開放感のあるデザインとするとともに陶板を見易くしている。小柱全体は、磁器質タイル仕上げである。陶板は、黄瀬戸に青織部をかけたものである。

山脇橋

やまわきばし


瀬戸川を基軸に周辺市街地の再開発等の街づくりと河川や道路等の公共施設の整備を一体的に行い、新しい観光資源の創出、にぎわいのある街づくりを推進する瀬戸川文化プロムナード計画として、平成4年(1992)11月5日に完成した。
高欄部をコバルト色の陶器で装飾するとともに、橋梁の形状や照明等のデザインに工夫を凝らしている。

山脇橋

吉田橋

よしだばし


市役所前に架かる橋で、昭和63年(1988)4月14日にやきものの橋として生まれ変わった。
高欄には、陶芸家二代加藤春鼎のデザイン・製作による青織部の陶柱307本が用いられている。

吉田橋

瀬戸大橋

せとおおはし


大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められた。瀬戸橋もこの大洪水で流れたため、架け替えられた。かつては「瀬戸橋」と呼ばれ、橋の左岸側は「大橋町」の町名がみえる。
橋梁は「講和記念」(1951年サンフランシスコ平和条約)として再築され、鉄骨による補強されて現在に至る。
瀬戸川文化プロムナード線整備、瀬戸川河川整備事業に伴う橋梁改築により、交通機能の更新と「せともの文化」イメージを高める整備を図るものとして、橋長24m、全幅員48mの橋梁が平成26年度から整備されている。 

窯神橋

かまがみばし


瀬戸公園が開園したころ、陶祖加藤藤四郎だけではなく磁器の製法を瀬戸に伝えた加藤民吉の顕彰を行おうという機運が高まり、大正天皇の大礼記念事業がきっかけとなって、記念碑建立に動き出した。愛知県では記念事業として県内の名所史跡に記念標柱を建立していった。その一環として、民吉の業績を顕彰するために記念碑を建立するとともに、毎年九月十六日に祭典を実施することを決議した。
大正11年(1922)11月16日窯神神社の社殿改築記念祭典が実施され、この日にあわせて瀬戸川に新しく窯神橋が竣工し、渡り初めの式典も挙行された。
橋梁は戦後再築され、さらに瀬戸川文化プロムナード線整備、瀬戸川河川整備事業に伴う橋梁改築により、交通機能の更新と「せともの文化」イメージを高める整備を図るものとして、橋長22.5m、全幅員41mの橋梁が3年かけて整備され、2005年日本国際博覧会開催時には瀬戸の玄関口としての役割を果たした。
平成27年1月、瀬戸染付焼が全体にあしらわれた親柱が完成した。染付による橋名板は柴田恵水が揮毫したもの。

城嶺橋

しろがねばし


瀬戸市定光寺町~春日井市玉野町に架橋
定光寺は玉野川の景勝地で名古屋の嵐山と呼ばれた景勝地であった。初代城嶺橋は名古屋開府250年を記念し、明治42(1909)年3月に着工、翌年完成した木橋である。当時対岸には中央本線が開通していたが、高蔵寺―多治見間には駅舎はなかった。定光寺駅の開設は大正13(1924)年のことである。ところが、初代の木橋は完成の翌年に大水で流出してしまい、大正元(1912)年に吊橋で復旧した。昭和11(1936)年、2代目橋の下流側に併行して3代目の京都四条大橋を模してコンクリートアーチ橋建設に着工、翌年完成した。尾張徳川家19代義親氏による「城嶺橋」の揮毫を親柱に持つ。大正期の水平線。垂直線を強調する「セセッション」風デザインであった「まぼろしの四条大橋」の面影を残した橋は貴重である。(『愛知県の近代化遺産』)

城嶺橋

鹿乗橋

かのりばし


瀬戸市鹿乗町~春日井市高蔵寺町2に架橋
旧下水野村入尾(鹿乗町)と対岸玉野村(春日井)の間には玉野川(庄内川)が流れ、現在の鹿乗橋のやや下流を「モトハシバ」といい簡単な板橋が架かっていた。昔は渓谷美あふれた景勝地で文人墨客が遊ぶ「白鹿館」や「三宅邸」などの瀟洒な料亭が在った。
明治43(1910)年に鉄のアーチ橋が架けられた。明治期に架設された13橋の鋼アーチ橋の一つで現存するものが殆ど無い貴重なものである。昭和23(1948)年に元橋を骨組にしてコンクリートを巻いた、要するに鉄骨鉄筋コンクリートの橋に造り替えた。その時斜材(ラチス)を撤去しており、現在は垂直材のみとなっている。その際の工事について銘板に「架設後四十年以上になり、鉄骨が腐食し、強度が半分の五十五%までに低下した。そのため、鉄筋コンクリートにて被覆し補強した」とあり、工事は愛知県直営で行われた。景勝地の橋であったために、橋面上に構造部材が突出していない上路式のアーチタイプにしたこともうなずける。(『保存情報Ⅰ』)

鹿乗橋

藤四郎橋

とうしろうばし


刎田町と寺本町をつなぐ橋を今は公園橋といって鉄筋コンクリートの永久橋となっているが、明治45年の豪雨のとき半壊して通行禁止となったため、その上流50mあたりのところに仮橋が架けられた。土橋であったが、便利とあって公園橋がコンクリート橋になってからも残され、現在はないが藤四郎橋と呼ばれていた。