鹿乗橋

かのりばし


瀬戸市鹿乗町~春日井市高蔵寺町2に架橋
旧下水野村入尾(鹿乗町)と対岸玉野村(春日井)の間には玉野川(庄内川)が流れ、現在の鹿乗橋のやや下流を「モトハシバ」といい簡単な板橋が架かっていた。昔は渓谷美あふれた景勝地で文人墨客が遊ぶ「白鹿館」や「三宅邸」などの瀟洒な料亭が在った。
明治43(1910)年に鉄のアーチ橋が架けられた。明治期に架設された13橋の鋼アーチ橋の一つで現存するものが殆ど無い貴重なものである。昭和23(1948)年に元橋を骨組にしてコンクリートを巻いた、要するに鉄骨鉄筋コンクリートの橋に造り替えた。その時斜材(ラチス)を撤去しており、現在は垂直材のみとなっている。その際の工事について銘板に「架設後四十年以上になり、鉄骨が腐食し、強度が半分の五十五%までに低下した。そのため、鉄筋コンクリートにて被覆し補強した」とあり、工事は愛知県直営で行われた。景勝地の橋であったために、橋面上に構造部材が突出していない上路式のアーチタイプにしたこともうなずける。(『保存情報Ⅰ』)

鹿乗橋

藤四郎橋

とうしろうばし


刎田町と寺本町をつなぐ橋を今は公園橋といって鉄筋コンクリートの永久橋となっているが、明治45年の豪雨のとき半壊して通行禁止となったため、その上流50mあたりのところに仮橋が架けられた。土橋であったが、便利とあって公園橋がコンクリート橋になってからも残され、現在はないが藤四郎橋と呼ばれていた。

東橋

あずまばし


大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められ、東橋も昭和2年(1927)にできた。
昭和62年(1987)4月には、1000年余の長い歴史と輝かしい伝統に培われたやきもののまち「瀬戸」にふさわしい景観の整備、シンボル作りのため「やきものを使った街づくり事業」の一つとして、欄干改築工事が竣工した。
デザイン及び陶器の制作は瀬戸陶磁器青年研修会によるもので、陶板を張りつめた親柱と大小50本の陶筒状小柱で構成されており、瀬戸の代表的な釉薬の一つである「志野」「ねずみ志野」を使い、豪快で大らかで、豊かさが表現されたものとなっている。

東橋

今村橋

いまむらばし


第3環状線の道路整備に伴い、新しい今村橋が3か年継続事業で平成3年(1991)3月19日に竣工した。今村橋は、施工主体である受知県と瀬戸市が協力して整備を行ったもので、橋を通行だけの機能にとどまらせず、せとものの瀬戸を印象づけ、周辺の丘陵の山並みのラインと協調させ、美しく親しみのある空間づくりを目標に整備した。
橋の施工にあたっては、地場産業である陶磁器を活用し、親柱に赤御影石と陶芸家水野教雄製作のオブジェ、高欄にはアルミ合金に日本画家伊藤昭蔵の描いた「瀬戸の風景」の陶板がはめ込まれている。歩道部分は磁器質タイル、バルコニー部分はモザイクタイルを使用、さらに夜間には陶製丸ランプ証明によって葉市を浮きたたせるなどの工夫を行っている。
平成3年(1991)7月、旧建設省の「手づくり郷土賞」を受賞している。昭和61(1986)年度に創設された国土交通大臣表彰で、地域の魅力や個性を創出している良質な社会資本及びそれに関わりのある優れた地域活動が一体となったものを選定するもので、素材部門で表彰されている。

今村橋

追分橋

おいわけばし


瀬戸川右岸の陣屋川に架かる橋で、新京極橋と同じく平成5年11月1日に完成をみた。
吉田橋との一体化をねらって織部釉を使った親柱を設置するとともに、高欄の支柱と支柱の間には、古代呉須で「瀬戸八景」を描いた磁器板を据えつけている。

川端歩道橋

かわばたほどうきょう


名鉄瀬戸線と愛知環状鉄道の結節点である新瀬戸の利便性を高めるため、愛知県所鉄道の橋脚と並行して瀬戸川に人道橋が平成3年(1991)7月20日に完成した。
新設の歩行者専用の橋で、陶芸家河本太郎の製作による、自然・人・宇宙をテーマにした陶製オブジェ9点が設置されている。

川端歩道橋

記念橋

きねんばし


記念橋は蔵所橋と共に、瀬戸のやきもの文化の中心地に位置し、バス停留所に隣接する橋として市民に親しまれてきた。この記念橋は昭和25年(1950)に架けられたもので、もともとの記念橋は「らくちん」の裏を流れる瀬戸川の支流一里塚川に架けられていた。この記念橋の名称は、明治43年(1910)大正天皇が皇太子の時、当時の砂防工事としては最先端の、ホフマン工法の視察に瀬戸に行幸され、それを記念して付けられたものといわれている。

記念橋

記念橋人道橋

きねんばしじんどうきょう


中心市街地の活性化を目的とした「瀬戸川文化プロムナード」計画のなかで、瀬戸川(瀬戸大橋~記念橋)・瀬戸川プロムナード線の整備とともに橋梁の整備が進められており、瀬戸記念橋人道橋が完成し平成21年(2009)9月11日に渡り初め式が行われた。
記念橋人道橋は、やきもの装飾が施されている。瀬戸市制80周年に合わせて瀬戸ロータリークラブが寄贈した。同会員の陶芸家亀井勝、加藤令吉、加藤唐三郎、森脇文直、加藤孝爾が手掛け、親柱台座の上部は炎をイメージしたモニュメント、欄干には陶板が設置されている。また、親柱には栗木伎茶夫が揮毫した橋の名前入りの磁器板がはめ込まれ、欄干上部にはガラスの展示ケースが設置されており、瀬戸陶芸協会会員の作品が展示されている。

記念橋人道橋

共栄橋

きょうえいばし


大正14年(1925)の大水害で、県道名古屋瀬戸線の瀬戸駅付近と今村付近の瀬戸川南岸堤防がくずれ、この災害によって新しい道路の建設運動が今村でおこり、耕地整理で計画されたのが八間道路で、昭和のはじめには、まず現在の市役所前付近から共栄橋までの間が完成した。昭和14年(1939)頃から隣りの旭町で、県道名古屋・瀬戸線の改修のための土地買収がはじまり、昭和12年(1937)末には共栄橋が改築され、昭和18年(1943)末に名古屋・瀬戸線の路線変更が行われ、共栄橋~八間道路が県道となった。
昭和12年(1937)に架橋されたもので老朽化により、平成7年(1995)10月から工事がはじまり平成9年(1997)9月17日に完成をみた。

新共栄橋(新大橋・丸山橋)

蔵所橋

くらしょばし


「蔵所」という地名は江戸時代、尾張藩がやきものの生産販売を統制し藩の財源を確保するため、この地に御蔵会所という役所を置いたことに由来している。明治以降も、官庁などがここに集中し当時としては立派な木橋が架けられていた。大正末期の大水害のあと、コンクリート橋が架設され、戦後再築されて平成の時代に至っていた。
中心市街地の活性化を目的とした「瀬戸川文化プロムナード」計画のなかで、瀬戸川(瀬戸大橋~記念橋)・瀬戸川プロムナード線の整備とともに橋梁が検討され、蔵所橋と南橋は道路橋としての役割を終えることになり、平成21年(2009)11月初旬取り壊され、長い歴史を見つめてきた橋が姿を消した。