瀬戸市東古瀬戸町66
御獄教は木曽の霊峰「御獄」を信仰の根本道場として今を遡ること凡そ786年(天明5年)発生した“行”の宗教であめ。〔主斉神〕国常立尊(くにとこたちのみこと)・大貴命(おおなむらのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)以上三神を御1体と崇め尊び「御獄大神」と尊称している。
〔教律〕
1、宜しく神徳神恩に報ずべし。
2、宜しく人倫の道を全うすべし。
3、宜しく本業正紀を懈る勿かれ。
信仰者の願いとして御神恵を尊信仰慕する日々をの中で、教を実践躬行し、和楽社会の創造実現にいささかでも貢献できることである。1882年(明治15年)明治天皇の勅裁で「御獄教」の名称を得た。現在の教堂は、1937年(昭和12年)御獄教を信奉する人々と図って、故権大教正濱島芳太郎が創建したものである。
カテゴリー: 神社・仏閣・教会
宗教法人 カトリック・ドミニコ会聖ヨゼフ修道院
かとりっくどみにこかいせいよぜふしゅうどういん
金光教雨池教会
こんこんきょうあまいけきょうかい
瀬戸市仲郷町16
昭和14年(1939)5月瀬戸教会の出社として設立。初代教会長柴田明治郎、信徒総代水野千鶴。祈念・教話毎朝6:30、10:00、夜7:30、月例祭毎月4日・14日・24日の20:00、春秋の霊祭3月・9月の第3日曜日、大祭5月9日・金光大神大祭11月9日、勧学祭3月末、越年祭年末。信徒会活動として信徒懇親会、婦人教室、青少年夏の集い等おこなっている。金光教は、全人類救済のために天地金乃神より差し向けられた教祖金光大神によって開かれた「氏子あっての神、神あっての氏子、あいよかけよで立ち行く」「取次」の道である。それは、人間を「神の氏子」として大切にしていく道であり、人はひたすら取次を願い、親神の願いを受け、天地の道理に基づいた実意丁寧な生き方をし、人を助けて神となり、子々孫まで助けられる信心である。

三地蔵
さんじぞう
洞の元市会議員・加藤新治氏宅のあたりから北へ細道を登り切った山の頂きを地蔵ヶ嶺という。頂上に立つと眼の下に拝戸の人家が見える。その処の石室のように作られた場所に祀られているのが地蔵観音である。できものを癒す観音さまとして知られ、毎年7月18日の夜は縁日になっている。向って左に祀られている「人馬安全天保四年巳四月吉日」と刻んだ石像が地蔵観音で、向って右は「慶応四年辰三月廿一日、恵林明可信士」と刻んだ石像で、これは加藤親治氏の祖父・弘三郎(慶応3年5月19日亡)を祀ったものである。弘三郎が『腹の痛むものは、私を頼めば癒してやる』と遺言したところから、死亡の翌年3月21日の弘法大師の縁日に「弘法様」として祀りはじめたものである。地蔵観音として祀られているのは、武夫の高祖母に当る人で、俗名は判らないが「梅心妙量信女、天保二年三月廿七日亡」である。博助氏宅の南に当る山の中腹に「眼墓観音」という石碑があると聞き、博助氏の案内で調べると『天明三年四月三日、快運妙慶信女』と刻まれているが、誰人を祀ったものか判らない。眼墓観音というのだから、これも眼病に苦しんだ人の遺言によって建てられたものと想像されるが、地蔵観音よりも一時代古いので、伝承も廃れ、世人からも忘れ去られたのであろう。

弥蔵観音
やぞうかんのん
古瀬戸小学校の東の道を登る途中の左側に石室のように作られた祠に弥蔵観音が祭られている。もともとこの場所ではなく、300mぐらい登った弥蔵ヶ嶺というところに奉安されていた。祠から古瀬戸小学校へぬける道がつくられたときに現在の位置に移された。この弥蔵観音はできものを治す観音さまとして知られ、毎年7月18日の夜は縁日で遠近からの参詣者が多くある。この観音に願かけして全快すれば、お礼まいりに7種(7色)の菓子、または百だんごを供えることになっている。祠に向って左側に祭られている「人馬安全天保4年(1833年)巳4月吉日」と刻んだ石像が弥蔵観音である。向って右側は「慶応4年(1868年)戌辰3月〓1日恵林明可信士」と刻んだ石像が弥蔵弘法である。これは加藤親次氏の祖父弘三郎(慶応3年5月19日亡)を祭ったものである。弘三郎が「腹の痛むのは、私に頼めばなおしてやる」と遺言したところから、死亡の翌年3月21日の弘法大師の縁日に「弘法様」として祭りはじめたものである。

馬頭観音
ばとうかんのん
馬頭観音は、馬頭明王、馬頭金剛明王などと呼ばれ、八大明王の中にその名が見られる。大多数の造立の目的は、牛や馬、特に供養と民衆の信仰対象である。
平等庵
びょうどうあん
瀬戸市東町
洞の東町の奥に平等庵がある。平等庵は名古屋の熱田の旗屋町にある登和山青大悲寺の末寺で御本尊は阿弥陀如来である。この寺は修業寺で、住職は本元の青大悲寺で厳しい修業をした尼さんが派遣されてくる。修業寺であるから日課は大変厳格に守られている。朝3時に起床、3時から5時30分まで座禅、5時30分からおつとめ、7時に食事、7時30分から座禅、また食事は参禅するとだされる質素なものである。この寺に檀家はない。宝泉寺の檀家をすこしばかりあずかって月まいりをする程度である。お祭りは春の花祭りとお彼岸とお寺のお祭りがある。お寺のお祭りは年に1回、本元の青大悲寺から指定された日に位の高い尼さんが派遣されておこなわれる。その日には地元の洞をはじめ、名古屋から多くの信者が集まり、座禅やおつとめや説教が盛大におこなわれる。


西光寺
さいこうじ
順慶寺
じゅんけいじ
山口八幡社
やまぐちはちまんしゃ
瀬戸市八幡町3
山口神社。社名を山口八幡社というが地元からは単に八幡社と呼ばれている。社伝によれば、1221年の承久の変の折、山田次郎重忠が後鳥羽上皇に加勢し奮戦したが敗れ、重忠は一族とともに、この山口村へ落ちのびた。そしてここに八幡宮を勧請したといわれる。建物は南から石鳥居・二ノ鳥居・唐門・拝殿・祝詞殿・本殿と続くが、この石鳥居の脚柱に延宝5年(1677年)12月吉日の年号があり、これは瀬戸市内の鳥居の中で最古のものである。境内の西の一段高くなった所に「山口天神社」と「山口稲荷神社」の末社が鎮座し、稲荷社は横穴式石室の中に社殿がある。また境内には通称「杉塚」と呼ばれる古墳群がある。
