本泉寺

ほんせんじ


瀬戸市矢形町165
教春山 本泉寺。真宗高田派。本尊は慈覚大師作の阿弥陀如来である。また別堂本尊として弘法大師の作である十一面観世音像がある。年中行事には修正会、彼岸会、太子会、釈尊三大聖日、同朋会がある。由緒としては土地の地頭職であった山田泰親が下野団高田専修寺の顕智がこの地に来た際に師資の約をして、法名瀞顕を得て弘安6年(1283)に開山したのが始まりである。以後天文5年(1536)、宝暦10年(1760)、更に昭和63年(1988)に本堂の再建をして現在に至る。明治15年(1882)に観音堂(別堂)を境内に移し、尾張城東西国33カ所第32番札所・山口観音堂となっている。寺宝は前出のものの他、宗祖聖人木像、薬師如来、瀞顕の作になる聖徳太子像がある。

本泉寺 山門・本堂
山口観音堂
山口観音堂 十一面観音立像

万徳寺

まんとくじ


瀬戸市塩草町93
太子山 万徳寺。真宗高田派。本尊は阿弥陀如来で歴史としては約700年前に武蔵国から三河今橋に移り住んだ親鸞の弟子の海円が三河国加茂郡越戸(現豊田市)に万徳寺を建立したのがその始まりである。その後正応元年(1288年)尾張国春日井郡赤津村に天台宗の帝子堂を再興し関尾山万徳寺を起した。太子山の由来は寛正年間に今村城主松原広長が聖徳太子霊像に帰依して、太子にかかわるものや寺領、本堂を寄進した事による。大正元年(1912)には高田本山より太子山の山号を下付され改称した。現在の太子堂は昭和10年(1935)の改築のものである。年中行事として彼岸会、報恩講などの他、聖徳太子御会式がある。寺宝として聖徳太子自作と言い伝えのある聖徳太子孝養像の他、聖徳太子、親鸞聖人にかかわるものが多数ある。

万徳寺
松原塚

宗教法人御獄教馬ケ城教会

おんたけきょううまがじょうきょうかい


瀬戸市東古瀬戸町66
御獄教は木曽の霊峰「御獄」を信仰の根本道場として今を遡ること凡そ786年(天明5年)発生した“行”の宗教であめ。〔主斉神〕国常立尊(くにとこたちのみこと)・大貴命(おおなむらのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)以上三神を御1体と崇め尊び「御獄大神」と尊称している。
〔教律〕
1、宜しく神徳神恩に報ずべし。
2、宜しく人倫の道を全うすべし。
3、宜しく本業正紀を懈る勿かれ。
信仰者の願いとして御神恵を尊信仰慕する日々をの中で、教を実践躬行し、和楽社会の創造実現にいささかでも貢献できることである。1882年(明治15年)明治天皇の勅裁で「御獄教」の名称を得た。現在の教堂は、1937年(昭和12年)御獄教を信奉する人々と図って、故権大教正濱島芳太郎が創建したものである。

宗教法人 カトリック・ドミニコ会聖ヨゼフ修道院

かとりっくどみにこかいせいよぜふしゅうどういん


瀬戸市東長根町92
昭和32年(1957)5月設立。敷地面積約1,200㎡。救い主イエス・キリストの教えに基づき、人々の真の幸せのため、特に祈りをもって協力しようとする観想修道院である。
社会のただ中での活動ではなく、一定の禁城内で、兄弟的共同生活をもってキリストの福音のあかしを生きつつ、今の世の人々のために神の恵みを願い、忙しい人々に代って、神に賛美と感謝を捧げるものである。なお祈願するものにふさわしくあれと矯め直される場でもある。

ドミニコ会 聖ヨゼフ修道院

金光教雨池教会

こんこんきょうあまいけきょうかい


瀬戸市仲郷町16
昭和14年(1939)5月瀬戸教会の出社として設立。初代教会長柴田明治郎、信徒総代水野千鶴。祈念・教話毎朝6:30、10:00、夜7:30、月例祭毎月4日・14日・24日の20:00、春秋の霊祭3月・9月の第3日曜日、大祭5月9日・金光大神大祭11月9日、勧学祭3月末、越年祭年末。信徒会活動として信徒懇親会、婦人教室、青少年夏の集い等おこなっている。金光教は、全人類救済のために天地金乃神より差し向けられた教祖金光大神によって開かれた「氏子あっての神、神あっての氏子、あいよかけよで立ち行く」「取次」の道である。それは、人間を「神の氏子」として大切にしていく道であり、人はひたすら取次を願い、親神の願いを受け、天地の道理に基づいた実意丁寧な生き方をし、人を助けて神となり、子々孫まで助けられる信心である。

金光教 天池教会

三地蔵

さんじぞう


洞の元市会議員・加藤新治氏宅のあたりから北へ細道を登り切った山の頂きを地蔵ヶ嶺という。頂上に立つと眼の下に拝戸の人家が見える。その処の石室のように作られた場所に祀られているのが地蔵観音である。できものを癒す観音さまとして知られ、毎年7月18日の夜は縁日になっている。向って左に祀られている「人馬安全天保四年巳四月吉日」と刻んだ石像が地蔵観音で、向って右は「慶応四年辰三月廿一日、恵林明可信士」と刻んだ石像で、これは加藤親治氏の祖父・弘三郎(慶応3年5月19日亡)を祀ったものである。弘三郎が『腹の痛むものは、私を頼めば癒してやる』と遺言したところから、死亡の翌年3月21日の弘法大師の縁日に「弘法様」として祀りはじめたものである。地蔵観音として祀られているのは、武夫の高祖母に当る人で、俗名は判らないが「梅心妙量信女、天保二年三月廿七日亡」である。博助氏宅の南に当る山の中腹に「眼墓観音」という石碑があると聞き、博助氏の案内で調べると『天明三年四月三日、快運妙慶信女』と刻まれているが、誰人を祀ったものか判らない。眼墓観音というのだから、これも眼病に苦しんだ人の遺言によって建てられたものと想像されるが、地蔵観音よりも一時代古いので、伝承も廃れ、世人からも忘れ去られたのであろう。

三地蔵

弥蔵観音

やぞうかんのん


古瀬戸小学校の東の道を登る途中の左側に石室のように作られた祠に弥蔵観音が祭られている。もともとこの場所ではなく、300mぐらい登った弥蔵ヶ嶺というところに奉安されていた。祠から古瀬戸小学校へぬける道がつくられたときに現在の位置に移された。この弥蔵観音はできものを治す観音さまとして知られ、毎年7月18日の夜は縁日で遠近からの参詣者が多くある。この観音に願かけして全快すれば、お礼まいりに7種(7色)の菓子、または百だんごを供えることになっている。祠に向って左側に祭られている「人馬安全天保4年(1833年)巳4月吉日」と刻んだ石像が弥蔵観音である。向って右側は「慶応4年(1868年)戌辰3月〓1日恵林明可信士」と刻んだ石像が弥蔵弘法である。これは加藤親次氏の祖父弘三郎(慶応3年5月19日亡)を祭ったものである。弘三郎が「腹の痛むのは、私に頼めばなおしてやる」と遺言したところから、死亡の翌年3月21日の弘法大師の縁日に「弘法様」として祭りはじめたものである。

弥蔵観音

興龍寺

こうりゅうじ


瀬戸市仲郷町73
城見山 興龍寺。高野山真言宗。本尊は千手千眼十一面観世音菩薩。開基は不祥、開山は快導和尚。本尊は千手千眼観世音菩薩立像。寺宝として釈迦如来座像・毘沙門天立像・不動明王立像・弘法大師尊像四体(入定大師三体・鯖大師一体)。年中行事は節分厄除け星供養(2月)、お彼岸写経会(3月)、弘法大師正当御影供(旧3月21日)、弘法大師御誕生青葉まつり(6月)、お盆施餓鬼法要(7月)、お彼岸写経会(9月)、冬至弘法大師(12月)。この寺は、旧市街を一望出来る小高い山上に有り、その名城見山と号す。名古屋城天守閣を望む事から由来し、その眺望の良さから大正・昭和の始め頃は花見遊山の人で賑わった様である。山上には大正時代の銘の有る弘法大師八十八ヶ所霊場が奉祀され、約190体程の石像が点在する。往時の弘法大師信仰の盛んな様子が偲ばれる。通称弘法山は「願いがかなう弘法様」「利益あらたかな弘法様」で古来親しまれてきた。

興龍寺

金剛院

こんごういん


瀬戸市東拝戸町5-1
日本世界山 金剛院。高野山真言宗。本尊は聖観世音菩薩、脇佛に弘法大師、不動明王。開基は浅井法導師。現住職 第四世、水野鉦法。当山は大正末期に弘法堂として弘法大師信者の教化育成を目的として教義を広めた。昭和の初期に和歌山県高野山、高野山真言宗総本山、金剛峯寺依り、寺号金剛院を賜わり金剛峯寺の末寺として現在に至る。宗祖弘法大師を尊信し、密教会興隆、衆生済度、手に印を結び、口に真言を唱え、心三摩地に済す三密修行の聖業に精進し、又、日本世界教祖の佛法の教えである因縁因果、因果応報の道理を悟し、人間自ら心の罪を悔い改め懺悔をして善行を行ない自分自身の精神修養の修行を目的としている。古瀬戸から赤津に向う道沿い左手にあり、名鉄バス金剛院前の停留所がある。行事としては、新年大祈禱、二月節分会、春秋彼岸大法要、各種御祈禱、水子供養、十一月三日には豊穣大祭が盛大に執り行われる。

金剛院(参道)
金剛院

西光寺

さいこうじ


瀬戸市西脇町182
大澤山 西光寺。真宗大谷派。年中行事としては報恩講・春秋永代経・お盆会等。沿革としては大澤治郎左ヱ門と言う人を始めとして4名が菱野村に住み、その人達が美濃国鵜沼城にあった春日仏師の作である本尊阿弥陀如来を迎え祠ったのが西光寺の事の始まりと言われている。また元禄4年(1673年)に本堂を建立した記録がある。本尊は前出の阿弥陀如来である。

西光寺