東福寺

とうふくじ


菱野町70

旧菱野村東福寺は天台宗の寺院で、古く天平12年(西暦740年)に創建されたとする伝承もあるが、寺伝では12世紀に開かれ永正13(1516)年の火災により全焼。翌14(1517)年の菱野熊野社棟札銘には「別当・東福寺秀海」とあり、東福寺の僧侶が熊野神社の別当を務めていたことが分かる。昭和25年(1950)に無住となった。

現在は、境内の一角に観音堂、山門石碑が残っている。山門は南側道路の拡張時道路へはみ出た部分が取り壊された。現在では高蔵寺にある天台宗別格本山圓福寺が管理され、東島(瀬戸口、幡山、東菱野町)町内会が借用している。かつて観音堂にあった弘法大師像は仙寿寺の地蔵堂へ移され、今でも菱野祭典委員会が主催する春祭りなどを通じお護りしている。

鬼門である東北の山の上に熊野本宮が天台密教の修験道の中心であったことからご祭神の分霊を勧請奉祀し菱野熊野社として祀り、代々東福寺の僧侶によって神仏習合の形で祭祀が厳修されてきた。

中興開山の祖と云われる大阿闍梨法印秀海の名前が永世14(1517)年の熊野社棟札に「別当東福寺秀海」と記される。

維新の神仏分離が進み、寺の運営が困難になり、その後50年間は無住になり、大正14(1925)年、密蔵院から派遣された牛田法印が一時修復したが、その後30年経つ中で朽ち果て、本堂と庫裏が倒壊するに至り、無住寺となった。

現在は敷地の一角には滑り台など遊具も設置され、住宅地の中にあることから、子供たちの遊び場として多くの子供たちが利用している。瀬戸口駅の西に在った墓苑が移転され現北山墓苑となったとき歴代住職の墓石も移転され、墓苑の一角にあるが、永年の風雨にさらされ殆ど判読がむつかしくなっている。

東福寺
東福寺
かつての東福寺の建物風景(イメージ)
無住となった戦後の東福寺の観音堂と山門

菩提寺

ぼだいじ


瀬戸市上品野町1020

 

尾張城東西国三十三観音 第二十九番札所。天台宗寂場山菩提寺。菩提寺は160年前、養海上人によって開基された。本堂は千手観音菩薩を奉り、不動明王・毘妙門天・弘法大師・役行者(えんのぎょうじゃ)が安置されている。本堂東には、出雲大社より招神の神「えびす」様を迎えお奉りしてある。菩提寺は国内でも有数な霊山で、加持祈禱の道場でした。昭和4(1939)年に本堂が焼失し、今の本堂は昭和36(1961)年に再建された、菩提とは「正しく最上の覚り」という意味である。参道と本堂の間には、阿形・吽形の一対の仁王像がある山門があり、昭和46(1671)年に再建された。

張州雑志には、「当寺ハ行基大士ノ開基、華厳ノ道場也。行基大士中品野鳥原ノ岩窟(岩屋堂)ニ間棲ノ時…(中略)…千手千眼ノ尊像(千手観音菩薩像)ヲ彫刻アリテ、是ヲ安置セラル」との行基伝説が載っている。

寺伝では、天平年中(729~749)に創建された華厳宗の寺とされている。その一方で、750年頃に養海上人が創建したお寺とも伝えられ、参道石段の右横にある石碑「東照上人塔」には養老年中(717~724)当寺の建立と彫られている。

境内には88ケ所の平場がみられ、中世の12世紀末~16世紀の沢山の遺物が採集され数々の宗教施設があったことが伺われる。

本堂の裏には、ツクバネガシの巨木があり、瀬戸の名木に選定されている。

参考文献

 瀬戸市史編纂委員会『瀬戸市史民俗調査報告書 四 品野地区』

 瀬戸市交流活力部文化課『瀬戸の魅力発見 まちめぐりパンフレットPart13 品野地区』

瀬戸・尾張旭郷土史研究同好会『郷土史研25周年誌』

せと・まるっと環境クラブ『岩屋堂ガイドブックⅡ改訂版』
菩提寺本堂(中央)と恵比寿社(右)
菩提寺山門仁王像(阿形)
菩提寺山門仁王像(吽形)

金光教瀬戸教会

こんこんきょうせときょうかい


瀬戸市京町2-61
大正4年(1915)6月3日 布教開始。教会長 畔柳俊雄(くろやなぎ としお)。金光教は、教祖金光大神が1859年に家業をやめ、一切の生活を天地金乃神に捧げ、人々の願いを神取次ぎ、神の願いを人々に取付ぐことに始まる。教祖は、人々の苦悩や願いを聞いて神に祈り、人間のあらゆる営みに神の願いを現す生き方を、その人の実情と問題に即して、懇ろに導いた。人々は、この取次によって神の恩恵と願いに目覚め、生きる力と方向を見だし助かってきた。当教会は、教祖の取次の業を受け継ぎ、神とともに生きる自由で創造的な精神と、日常の生活実践を通して、人が助かる道の実現を願い、信徒会、青年会、少年少女などの活動をしている。岡山県金光町に本部広前があり、全国及び海外に1680余りの教会がある(1989年時点)。

金光教 瀬戸教会

瀬戸永泉教会

せとえいせんきょうかい


国登録文化財
平成22年4月28日指定 所在地 瀬戸市杉塚町 
所有者 瀬戸永泉教会
文化財 木造平屋建・切妻造・瓦葺 
時代 明治33年建造、昭和5年改修

 文化財に登録された礼拝堂は、瀬戸永泉教会(プロテスタント長老派)において礼拝を行う中心的な建造物である。明治33年(1900)の創建で、昭和5年(1930)に正面六角形のステンドグラスや正面・側面の上部半円形飾り窓を取り付ける等の改修工事を行っている。木造平屋建で桁行6間・梁間4間の比較的小規模な瓦葺建物である。屋内天井部分には洋風建築に見られるトラス構造と、土蔵等に多く見られる和小屋状の貫の構造が組み合った和洋折衷の特徴が見られる。
 移築せず現存する明治期の教会建築は県内には少なく、創建から今日まで基本構造が変わらず教会堂として活動する本礼拝堂は大変貴重な文化財である。

忠霊塔

ちゅれいとう


窯神神社の東側の御亭山に現在、忠霊塔(忠魂碑)がある。かつては現在のJRバス記念橋の場所にあった。1939年(昭和14年)発行の瀬戸読本に次のように記されている。忠魂碑:一、国の富をつくるてふ名に負ふ瀬戸の市中に桜若木に包まれて屹然立てり忠魂碑 二、日清役を始めとし聖戦ここにいくそたび護国の華と散りましし英霊祀る忠魂碑 三、右手に振ひし破邪の剣左手に高し日章旗興亜不朽の人柱勲輝く忠魂碑 四、神代このかた武に誇る日本男児の鑑にて万代不滅の光ぞと誉は高し忠魂碑 五、仰ぐ忠霊いや高く五万市民の朝夕に国の鎮めと虔みてかしこみまつる忠魂碑。

宗教法人 カトリック・ドミニコ会聖ヨゼフ修道院

かとりっくどみにこかいせいよぜふしゅうどういん


瀬戸市東長根町92
昭和32年(1957)5月設立。敷地面積約1,200㎡。救い主イエス・キリストの教えに基づき、人々の真の幸せのため、特に祈りをもって協力しようとする観想修道院である。
社会のただ中での活動ではなく、一定の禁城内で、兄弟的共同生活をもってキリストの福音のあかしを生きつつ、今の世の人々のために神の恵みを願い、忙しい人々に代って、神に賛美と感謝を捧げるものである。なお祈願するものにふさわしくあれと矯め直される場でもある。

ドミニコ会 聖ヨゼフ修道院

金光教雨池教会

こんこんきょうあまいけきょうかい


瀬戸市仲郷町16
昭和14年(1939)5月瀬戸教会の出社として設立。初代教会長柴田明治郎、信徒総代水野千鶴。祈念・教話毎朝6:30、10:00、夜7:30、月例祭毎月4日・14日・24日の20:00、春秋の霊祭3月・9月の第3日曜日、大祭5月9日・金光大神大祭11月9日、勧学祭3月末、越年祭年末。信徒会活動として信徒懇親会、婦人教室、青少年夏の集い等おこなっている。金光教は、全人類救済のために天地金乃神より差し向けられた教祖金光大神によって開かれた「氏子あっての神、神あっての氏子、あいよかけよで立ち行く」「取次」の道である。それは、人間を「神の氏子」として大切にしていく道であり、人はひたすら取次を願い、親神の願いを受け、天地の道理に基づいた実意丁寧な生き方をし、人を助けて神となり、子々孫まで助けられる信心である。

金光教 天池教会

三地蔵

さんじぞう


洞の元市会議員・加藤新治氏宅のあたりから北へ細道を登り切った山の頂きを地蔵ヶ嶺という。頂上に立つと眼の下に拝戸の人家が見える。その処の石室のように作られた場所に祀られているのが地蔵観音である。できものを癒す観音さまとして知られ、毎年7月18日の夜は縁日になっている。向って左に祀られている「人馬安全天保四年巳四月吉日」と刻んだ石像が地蔵観音で、向って右は「慶応四年辰三月廿一日、恵林明可信士」と刻んだ石像で、これは加藤親治氏の祖父・弘三郎(慶応3年5月19日亡)を祀ったものである。弘三郎が『腹の痛むものは、私を頼めば癒してやる』と遺言したところから、死亡の翌年3月21日の弘法大師の縁日に「弘法様」として祀りはじめたものである。地蔵観音として祀られているのは、武夫の高祖母に当る人で、俗名は判らないが「梅心妙量信女、天保二年三月廿七日亡」である。博助氏宅の南に当る山の中腹に「眼墓観音」という石碑があると聞き、博助氏の案内で調べると『天明三年四月三日、快運妙慶信女』と刻まれているが、誰人を祀ったものか判らない。眼墓観音というのだから、これも眼病に苦しんだ人の遺言によって建てられたものと想像されるが、地蔵観音よりも一時代古いので、伝承も廃れ、世人からも忘れ去られたのであろう。

三地蔵

弥蔵観音

やぞうかんのん


古瀬戸小学校の東の道を登る途中の左側に石室のように作られた祠に弥蔵観音が祭られている。もともとこの場所ではなく、300mぐらい登った弥蔵ヶ嶺というところに奉安されていた。祠から古瀬戸小学校へぬける道がつくられたときに現在の位置に移された。この弥蔵観音はできものを治す観音さまとして知られ、毎年7月18日の夜は縁日で遠近からの参詣者が多くある。この観音に願かけして全快すれば、お礼まいりに7種(7色)の菓子、または百だんごを供えることになっている。祠に向って左側に祭られている「人馬安全天保4年(1833年)巳4月吉日」と刻んだ石像が弥蔵観音である。向って右側は「慶応4年(1868年)戌辰3月〓1日恵林明可信士」と刻んだ石像が弥蔵弘法である。これは加藤親次氏の祖父弘三郎(慶応3年5月19日亡)を祭ったものである。弘三郎が「腹の痛むのは、私に頼めばなおしてやる」と遺言したところから、死亡の翌年3月21日の弘法大師の縁日に「弘法様」として祭りはじめたものである。

弥蔵観音

馬頭観音

ばとうかんのん


馬頭観音は、馬頭明王、馬頭金剛明王などと呼ばれ、八大明王の中にその名が見られる。大多数の造立の目的は、牛や馬、特に供養と民衆の信仰対象である。