大正14年(1925)6月27日~平成22年(2010)1月10日
大阪府大阪市に生まれた。昭和24年(1949)3月に京都大学文学部史学科(考古学)を卒業、翌年4月から名古屋大学文学部史学科考古学研究室の開設に伴い助手として勤務、講師、助教授を経て、昭和53年(1978)教授となり平成元年(1989)年3月に定年退官した。退官後、平成元年に愛知県陶磁資料館参与(5年)、平成4年(1992)に財団法人瀬戸市埋蔵文化財センター所長(13年)、平成7年には愛知県陶磁資料館総長(4年)等を歴任した。
大学時代は古墳時代の研究を行い、名古屋大学着任後も東海地方の古墳についての発掘調査を進めた。研究の一大転機となったのは、愛知用水建設工事に伴う昭和30年(1955)~36年(1961)にかけて実施された猿投山西南麓古窯跡群の発掘調査に中心として携わり、古墳時代から平安時代の陶器生産の実態を解明したことによる。それまで日本陶磁史において空白の時代とされてきた平安時代にも須恵器生産が継続され、灰釉陶器・緑釉陶器を新たに生産した猿投窯が日本の中心的な窯業地であり、中世の瀬戸窯や常滑窯へ展開する母胎であったことを初めて明らかにした。この猿投窯の研究を出発点として、愛知・岐阜県下を主なフィールドとして、以降考古学的な窯跡の発掘調査の成果を用いて、古墳時代の須恵器から桃山・江戸時代の陶器に至る編年研究に邁進し、古墳時代から平安時代における猿投窯の須恵器・灰釉陶器、中世の瀬戸窯、近世の瀬戸窯・美濃窯の編年を確立するとともに、古窯跡の構造とその変遷も解明した。この間数多くの陶磁史研究者を育成する一方、日本各地の古窯の発掘調査にも携わり陶磁史研究に大きな影響を与えた。胆管癌のため名古屋市中区の病院で他界、84歳であった。
『陶器全集31 猿投窯』(平凡社)、『陶磁大系5 三彩・緑釉・灰釉』(平凡社)、『日本の陶磁 古代・中世篇Ⅰ 土師器・須恵器・三彩・緑釉・灰釉』(中央公論社)、『原色愛蔵版日本の陶磁 古代・中世篇2 三彩・緑釉・灰釉』(中央公論社)、『日本陶磁全集6 白瓷』(中央公論社)、『世界陶磁全集2 日本古代』(小学館・共著)などの出版物が刊行されている。
カテゴリー: 人物
稲葉 俊太郎
いなば しゅんたろう
昭和8年(1933)9月22日 市長に就任
昭和9年(1934)3月7日 退任
上水道慰労金問題が紛糾し小出市長が辞任すると、瀬戸市政はしばらく市長不在のまま混乱を極めた。市会が二つに分かれてにらみ合いとなり、市長の選出についても1か月以上の空白が続いたが、こうしたなかで稲葉俊太郎が第二代市長に就任した。稲葉市長は明治15年(1882)佐賀県に生まれ、東大卒業後、広島県警などを振り出しに、青島守備軍民生部事務官や関東庁警務官などを経たあと、もっぱら各県の警察畑を歩いてきた人物で、愛知県内務部長をつとめた縁もあり、瀬戸市に迎えられた。
稲葉市政の業績としては、小出市長時代からの瀬戸少年院の誘致や瀬戸市少年保護協会の設立が挙げられる。瀬戸少年院は小出市長時代から誘致が始められ、開設は稲葉市長が退任した後となるが、開設に至るまでの準備はこの稲葉市長の時代におこなわれており、また瀬戸市少年保護協会の会長に就任している。
市会の改選の結果、改めて稲葉市長と対立する側が多数を占めると、市長が提出した翌年度の予算案の返上案が可決された。このため稲葉市長はその日に辞表を提出、就任半年足らずで職から降りることになった。
泉崎 三郎
いずみさき さぶろう
昭和9年(1934)5月2日 市長に就任
昭和12年(1937)4月30日 退任
小出市長退任以来稲葉市長時代まで続いた市政の混乱に、一応の終止符をうったのが第三代市長に就任したのが泉崎三郎である。泉崎市長は北海道小樽の出身で、香川県官吏や熊本県で郡長を歴任した後、大正12年(1923)以降は朝鮮総督府事務官として植民地行政に携わってきた。瀬戸市とはやや縁の遠い人物が市長に就いた背景には、県知事の市長選考への介入を無視することができない。
泉崎市長時代は、景気と財政の回復が軌道に乗る時期でもあり、瀬戸の経済は陶磁器の輸出が伸び、比較的早期に恐慌を脱することに成功し、これに伴い市の財政も好転し始めている。道路行政に力を注ぐほか、教育や社会事業が拡充された。その外にも小出市長より引き継がれた赤津補助水源分の工事を完成して上水道を軌道に乗せたこと、瀬戸都市計画道路の決定がみられる。
退任した後、次の古村貢三郎市長が就任するまで、9か月にわたって市長不在の期間ができる。その間、昭和12年(1937)7月に盧溝橋事件が発生し、日本は日中戦争に突入する。
古村 貢三郎
ふるむら かんざぶろう
昭和13年(1938)1月13日 市長に就任
昭和14年(1939)2月10日 退任
昭和12年(1937)4月30日に泉崎市長が退任した後、9か月間にわたり市長が決まらず混迷の度を深めていたが、ようやくにして前静岡市助役の古村が第四代市長の職に就いた。市長不在の前年7月には盧溝橋事件が発生し日本は日中戦争に突入することとなるが、古橋市長の下で地元の犠牲者の市葬が挙行されている。戦争のはじまりは経済や社会のあり方にも大きく及ぼしていったのである。
橘 筬丸
たちばな とまる
昭和18年(1943)6月19日 市長に就任
昭和20年(1945)11月5日 退任
明治15年(1882)12月9日香川県高松市に生まれる。20歳のとき瀬戸へ来て河並内科医院にしばらくいたが、24歳になって東京へ出た。慈恵医大を卒業、さらに東京帝大医科選科生として研鑽に努めた後、明治41年(1908)9月瀬戸に帰り蛭子橋のたもとで開業した。識見非凡奇才で稀に見る人格者で、すぐれた雄弁の持ち主であった。性来政治家としての素質を持つ橘氏は、大正8年(1919)9月に推されて郡会議員の選挙に立候補し、当選している。
戦局が混迷するなかで、水野憲吾市長の後任として推されて第六代市長に就任する。昭和20年(1945)にはいると本土空襲が激しくなり、瀬戸市では3月に新開地から京町、5月には本地で空襲があった。そして同年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し戦争は終結した。戦時市政に日夜尽力を傾けたが、終戦とともに11月その職を辞任した。
井上 博通
いのうえ ひろみち
昭和62年(1987)5月1日 市長に就任
平成11年(1999)4月30日 退任
平成18年(2006)2月19日 没
昭和2年(1926)中水野に生まれる。旧制東海中学校を卒業し、昭和22年(1947)から水野村役場に勤務。昭和26年(1951)に同村が瀬戸市に合併され、瀬戸市役所勤務となる。以後、衛生課長、職員課長、市長公室長を経て、昭和57年(1982)から4年間前加藤繁太郎市長の下で助役を務め、昭和62年(1987)に市長に初当選した。
市長就任の主な施策には、「瀬戸・いきいきビジョン21」の策定、「瀬戸市OA化計画」の策定、行政組織の大改編などがあげられ、時機を逸することのない積極的な姿勢を持った人物で3期を務めあげた。
イサム・ノグチ
いさむ・のぐち
明治37年(1904)11月17日~昭和63年(1988)12月30日
ロサンゼルス生まれ。英文学者で詩人の野口米次郎を父に、アメリカ人の作家レオニー・ギルモアを母に持ち、幼少期を神奈川県茅ケ崎で過す。大正7年(1918)、単身で渡米して彫刻家を志す。大正13年(1924)レオナルド・ダ ・ヴィンチ・スクールに入学、彫刻を学ぶ。昭和2年(1927)渡仏し、パリに留学し彫刻家ブランクーシに師事する。昭和6年(1931)、東京を訪れ父米次郎と再会。京都に滞在し陶芸を学ぶ。ノグチは1930年代のほとんどをアジア・メキシコ・ヨーロッパを旅して過ごす。ノグチは生涯を通じて各国を旅しつづけた国際人である(晩年には日本とニューヨークの双方にアトリエを構える。)。メキシコにて大規模な公共作品から強烈な影響を受け、日本では素朴で滋味あふれる陶磁器と静謐な庭園に触れ、中国では洗練された水墨画の技術を習い、イタリアでは大理石の真の美しさを見出した。ステンレス鋼、大理石、鋳鉄、バルサ角材、青銅、アルミニウム板、玄武岩、花崗岩、そして水にいたるまで多種多様な材質を操り、ノグチは世界各地で得たありとあらゆる経験や影響を自身の作品の中に融合させている。
生涯を芸術表現の実験的試作に捧げ、彫刻、庭園、家具と照明デザイン、陶芸、建築および舞台美術など幅広い作品を残した。ノグチの作品は繊細でありながら大胆、伝統を踏まえつつモダンであり、多様な芸術分野を統合したあらたな表現方法を確立した。
瀬戸との関わりは、昭和25年(1950)北川民次の招きにより瀬戸を訪れ、オリエンタルデコラティブ陶磁彫刻研究所でテラコッタを制作した。
昭和57年(1982)に芸術振興への貢献の功労としてエドワード・マクドウェル栄誉賞を受賞、昭和61年(1986)年に京都賞思想・芸術部門、62年(1987)に全米芸術栄誉賞、そして翌63年(1988)には日本政府から勲三等瑞宝章が送られた。同年、ニューヨークで永眠。
各務 鉱三
かがみ こうぞう
明治29年(1896)3月7日~昭和60年(1985)12月3日
岐阜県土岐郡笠原村に生まれる。愛知県立陶器学校(現愛知県立瀬戸窯業高等学校)を卒業。在学中、教師であった日野厚の影響を受ける。大正4年(1915)に東京高等工業学校図案科(現東京工業大学)を卒業し、嘱託教師として奉職するが、大正8年(1919)に辞職し、同年南満州鉄道㈱に入社、満鉄中央試験所でガラスの研究に従事する。昭和2年(1927)、留学生としてドイツ国立シュトゥガルト美術工芸学校に留学。クリスタル工芸ガラス器の研究・製作を専攻する。昭和4年(1929)卒業し帰国する。翌5年東京郊外滝野川に各務クリスタル工芸硝子研究所をつくり、工芸ガラスの研究をした。昭和6年(1931)帝展初入選、昭和9年(1934)には帝展特選を受賞する。同年、東京都大田区西六郷に各務クリスタル製作所を設立し、ガラス製造の一貫作業ができる工場とした。
昭和10年 (1935)代には、陶器学校時代の同級生であった加藤華仙の依頼を受け、中央から板谷波山などを呼び陶芸家が瀬戸で直接指導を受けられるよう尽力した。その結果入賞・入選者が多く出て隆盛を極めたことにより、瀬戸の陶芸界では高く評価されている。
加藤 雅巳
かとう まさみ
大正2年(1913)12月10日~平成23年1月6日
瀬戸市に生まれる。昭和6年(1931)名古屋中学校卒業。(株)中日本陶器会長。
50年余にわたり八ミリ映画の制作に情熱を燃やし続けた八ミリ作家で、企画・公正・撮影・編集・音楽を一人で行い、国際的水準の芸術性豊かな作品を数多く世に送り出した。「映画人」虹の会会長、全日本アマチュア映画コンクール審査員、日本アマチュア映像作家連盟会長を歴任。昭和23年(1948)CBC全日本アマチュア映画コンテスト文部大臣賞「ある陶工」、昭和42年(1967)パリ国際八ミリ映画祭入賞「無限」、昭和46年(1971)カナダ国際コンテストグランプリ賞・カンヌ国際コンテスト入賞「王子窯」などがある。
加藤 宇助
かとう うすけ
大正4年に古くから続く窯元に生れる。若年より作陶に長じて窯元を受け継ぎ、修練を積んだ。累代の血筋か天性の轆轤の技量は瀬戸随一と知れ渡っていた。初期の作品としては織部焼の茶道具などを製作していたが次第に古瀬戸を研究、古瀬戸様式を模範にした作品を作陶した。昭和35年(1960)には文部省文化財保護委員会より委嘱製作を受け、鎌倉時代の古瀬戸様式で古瀬戸菊唐草花紋瓶子を再現する。昭和36年(1961)指定解除に至った永仁年製瓶子を「永仁の壷」として大量に作り出すと、飛ぶように売れたという。
さらに瀬戸、美濃に伝わる伝統技法の研鑽に励み、表現としての工芸を意識して独自性の強い作品を創り出し作風を変化させていった。なかでも高い評価を受けたのは瀬戸黒茶碗であった。極めた技術力と完成度、いにしえの茶碗が持つ古格にも劣らぬ風格を備え、美や喜びを喚起してくれる作品として現代に瀬戸黒茶碗を蘇らせた。斬新な仕事としては銅緑釉を基本として、独自の碧青色を表現した青銅釉を発表、花瓶、造形的な置物.茶道具などの製作に非凡な才能を発揮した。昭和56年(1981)、65歳で他界した。