加藤 英一

かとう えいいち


陶芸 掻落し技法 瀬戸市指定工芸技術1件
昭和62年4月18日指定 平成元年10月4日解除(死亡)
保持者 瀬戸市泉町 加藤英一 明治32年2月8日生

 掻落し技法は、中国の宋代に生まれた装飾技法の一つで、磁州窯で盛んに焼成された伝統技法である。保持者は長年に亘る研究と製作技術の研鑽により、赤土の素地に白色の化粧土を塗り、それを丹念に掻き落して文様を出す技法を完成させた。
 保持者は瀬戸の製陶業の家に生まれ、自然に陶芸の道を志す。後に藤井達吉に師事し、その人格にふれて陶芸のみならず人生面でも大きな影響を受けた。謙虚で端正な趣のある作品を作り出している。40数年に亘る掻落し技法の製作活動は、高度なロクロ技術とあいまって、創意工夫が加えられた優れた技法として高く評価されてきた。

渡辺 幸平

わたなべ こうへい


四国讃岐高松士族で、琴々堂と号した。近世の瀬戸窯に陶彫の技法を伝えた大恩人である。高松藩の近習役在勤のとき君側の婦人に恋慕し、それが因となって国元を出奔し、京都に出で一時は銅器鋳型の製作に従事していた。その後京都清水焼の井上松兵衛方に身を寄せたこともある。松兵衛の紹介で瀬戸村加藤三平を訪ね、そこで旅装を解いた。明治5年(1872)2月12日没した。
幸平は、瀬戸では彫塑を以って、陶祖春慶翁の碑「六角陶碑」の獅子、その他多くの成績を遺している。最も仙佛・動物に長じている。幸平は、「白磁は釉に被われてその妙味は埋没してしまうので、有色の無釉粘土を喜び、瀬戸の砂防工事の堰の上に溜った、天然淘汰のタメという黄色の粘土を用い、その焼成には火焔に触れしめず、結果は褐色又は青灰色となって、高尚優雅である」としている。
渡辺幸平の墓石は、明治5年(1872)から年移って碑棹は倒れ台石は散逸していた。宝泉寺裏の無縁仏となって放置されている陶彫の大恩人渡辺幸平の基碑を復元しようと、大瀬戸の安藤が発起して、墓の碑はそのまま用い、台座には墓碑復元の記、これに各方面の協力を得て陶祖、磁祖の墓地の隣にノベリティ関係業者の浄財を得て建設。昭和35年(1960)再建法要供養を宝泉寺住職の手によって盛大に行った。

ホフマン

ほふまん


1875~1945。イタリアのトリエステ生まれ。明治37年(1904)に東京帝国大学に招かれ来日する。明治42年(1909)に帰国。その後はウイーン農科大学教授などを経て、イタリア森林省林野局の総局長となる。
かつて、尾張地方の山や丘にははげ山が広がっていた。このはげ山を復旧するため、愛知県は明治38年(1905)に東京帝国大学農科大学に設計を依頼し、その時提出されたのが、同大学雇教師アメリゴ・ホフマンが林学科学生の山崎嘉夫・弘世孝蔵の卒業論文として指導した設計書であった。愛知県は同年、弘世が設計した第2号支渓(現在の瀬戸市東印所町)について工事を行い、模範砂防工として完成させました。の工事は、ホフマンが設計を指導したためホフマン工事と呼ばれています。ホフマン工事は、山腹面への植栽は行わず、土砂の浸食や崩壊をある程度まで自然に放置し、渓流を安定した勾配に導き、渓流と山裾を固める工法で、当時オーストリア・フランスで広く用いられていた。
当時のはげ山復旧工法は、山腹面に階段を切り付け苗木を植栽する工法が広く行われていたため、ホフマン工事は定着しなかった。しかし、設計にあたって、縦断面図を作成して渓流の安定を考え、土堰堤の安定や放水路・水叩きなどの各部の大きさを計算によって求めるなど、近代科学に基礎をおく設計思想が取り入れられた。その後の治山技術の発展に大きな影響を与えた。

ワグネル

わぐねる


ゴット・フリート・ワグネルは1831年7月5日ドイツのハノーバーに生まれ、ゲッチンゲン大学を出た。明治元年(1868)、石鹸製造所設立のため長崎へ来た。明治3年(1870)佐賀藩から招かれて、有田で石炭窯の焼成法や天然呉須に代わる酸化コバルトなど各種釉薬の使用法を指導した。その後、東京大学の前身、開成所の教師となる。また、明治6年(1873)のウィーン万国博には政府の顧問として大きな足跡を残した。陶磁器の焼成に当って使われるゼーゲル式温度計も彼がドイツからもたらしたものである。瀬戸で石炭窯を築いたのは明治34年(1901)瀬戸陶器学校で、当時の校長はワグネルの指導を受けた黒田政憲であった。この石炭窯の導入により、また、陶器原料貯蓄場といわれる製土工場が大量の均一製土を供給することで、瀬戸の窯業生産力は大いに進歩した。
ワグネルは、日本陶業の父といわれ、日本の窯業界に大きな影響を与えた。ワグネルの教えを受けたものには、日本窯業界の大物が大勢いる。明治25年(1892)11月8日永眠、墓は青山墓地にある。

小出 釟三

こいで はつぞう


昭和4年(1929)10月1日 市長に就任
昭和8年(1933)7月14日 退任
瀬戸町では、昭和2年(1927)5月11日、東京に転出した平田富資町長に代わって、あらたに小出釟三町長が登場した。小出町長は、この年から市制施行後も引き続き市長として通算6年間、町政~市政を担うことになる。
小出市長は、明治18年(1885)生まれで、日露戦後の明治39年(1906)名古屋市の書記となり上水道敷設に手腕を振るった。その後、名古屋市長臨時代理者や愛知県農工銀行の経営に従事した後、瀬戸町長に就任したのである。
小出町長時代には、平田町長より引き継がれた「市制の実施」が最も重要なものであった。教育面では深川尋常高等小学校の校舎建築や陶原・效範尋常小学校両校の移転改築事業が進められた。岡多線の鉄道敷設法予定線への編入が行われ、関係市町村とともにその敷設促進のための運動が開始されたのも小出町長の時代である。
小出町政・市政は、上水道問題をもってはじまり、これによって幕を閉じたといっても過言ではなかった。瀬戸町長に就任すると、馬ヶ城の地にダムを建設するための諸手続きを行い敷設認可を受けた。市制施行後に再認可を受けたが工事の実施計画段階で水源として狭小であることが分かり、補助水源として白坂(赤津川)および山路(山路川)をあてるという計画が浮上した。しかし、灌漑用水として利用してきた流域住民が猛烈な反対運動をおこなった。そこで、実施計画を二つに分け、馬ヶ城を水源とする貯水池堰堤、濾過池、配水池、送水線路等の敷設工事を先に実施し、昭和8年(1933)年12月大体の竣工を見て通水を開始した。小出市長は、この途中に上水道慰労金問題を取り沙汰され、退任のやむなきにいたっている。

稲葉 俊太郎

いなば しゅんたろう


昭和8年(1933)9月22日 市長に就任
昭和9年(1934)3月7日 退任
上水道慰労金問題が紛糾し小出市長が辞任すると、瀬戸市政はしばらく市長不在のまま混乱を極めた。市会が二つに分かれてにらみ合いとなり、市長の選出についても1か月以上の空白が続いたが、こうしたなかで稲葉俊太郎が第二代市長に就任した。稲葉市長は明治15年(1882)佐賀県に生まれ、東大卒業後、広島県警などを振り出しに、青島守備軍民生部事務官や関東庁警務官などを経たあと、もっぱら各県の警察畑を歩いてきた人物で、愛知県内務部長をつとめた縁もあり、瀬戸市に迎えられた。
稲葉市政の業績としては、小出市長時代からの瀬戸少年院の誘致や瀬戸市少年保護協会の設立が挙げられる。瀬戸少年院は小出市長時代から誘致が始められ、開設は稲葉市長が退任した後となるが、開設に至るまでの準備はこの稲葉市長の時代におこなわれており、また瀬戸市少年保護協会の会長に就任している。
市会の改選の結果、改めて稲葉市長と対立する側が多数を占めると、市長が提出した翌年度の予算案の返上案が可決された。このため稲葉市長はその日に辞表を提出、就任半年足らずで職から降りることになった。

泉崎 三郎

いずみさき さぶろう


昭和9年(1934)5月2日 市長に就任
昭和12年(1937)4月30日 退任
小出市長退任以来稲葉市長時代まで続いた市政の混乱に、一応の終止符をうったのが第三代市長に就任したのが泉崎三郎である。泉崎市長は北海道小樽の出身で、香川県官吏や熊本県で郡長を歴任した後、大正12年(1923)以降は朝鮮総督府事務官として植民地行政に携わってきた。瀬戸市とはやや縁の遠い人物が市長に就いた背景には、県知事の市長選考への介入を無視することができない。
泉崎市長時代は、景気と財政の回復が軌道に乗る時期でもあり、瀬戸の経済は陶磁器の輸出が伸び、比較的早期に恐慌を脱することに成功し、これに伴い市の財政も好転し始めている。道路行政に力を注ぐほか、教育や社会事業が拡充された。その外にも小出市長より引き継がれた赤津補助水源分の工事を完成して上水道を軌道に乗せたこと、瀬戸都市計画道路の決定がみられる。
退任した後、次の古村貢三郎市長が就任するまで、9か月にわたって市長不在の期間ができる。その間、昭和12年(1937)7月に盧溝橋事件が発生し、日本は日中戦争に突入する。

古村 貢三郎

ふるむら かんざぶろう


昭和13年(1938)1月13日 市長に就任
昭和14年(1939)2月10日 退任
 昭和12年(1937)4月30日に泉崎市長が退任した後、9か月間にわたり市長が決まらず混迷の度を深めていたが、ようやくにして前静岡市助役の古村が第四代市長の職に就いた。市長不在の前年7月には盧溝橋事件が発生し日本は日中戦争に突入することとなるが、古橋市長の下で地元の犠牲者の市葬が挙行されている。戦争のはじまりは経済や社会のあり方にも大きく及ぼしていったのである。

橘 筬丸

たちばな とまる


昭和18年(1943)6月19日 市長に就任
昭和20年(1945)11月5日 退任

明治15年(1882)12月9日香川県高松市に生まれる。20歳のとき瀬戸へ来て河並内科医院にしばらくいたが、24歳になって東京へ出た。慈恵医大を卒業、さらに東京帝大医科選科生として研鑽に努めた後、明治41年(1908)9月瀬戸に帰り蛭子橋のたもとで開業した。識見非凡奇才で稀に見る人格者で、すぐれた雄弁の持ち主であった。性来政治家としての素質を持つ橘氏は、大正8年(1919)9月に推されて郡会議員の選挙に立候補し、当選している。
戦局が混迷するなかで、水野憲吾市長の後任として推されて第六代市長に就任する。昭和20年(1945)にはいると本土空襲が激しくなり、瀬戸市では3月に新開地から京町、5月には本地で空襲があった。そして同年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し戦争は終結した。戦時市政に日夜尽力を傾けたが、終戦とともに11月その職を辞任した。

井上 博通

いのうえ ひろみち


昭和62年(1987)5月1日 市長に就任
平成11年(1999)4月30日 退任
平成18年(2006)2月19日 没
 昭和2年(1926)中水野に生まれる。旧制東海中学校を卒業し、昭和22年(1947)から水野村役場に勤務。昭和26年(1951)に同村が瀬戸市に合併され、瀬戸市役所勤務となる。以後、衛生課長、職員課長、市長公室長を経て、昭和57年(1982)から4年間前加藤繁太郎市長の下で助役を務め、昭和62年(1987)に市長に初当選した。
市長就任の主な施策には、「瀬戸・いきいきビジョン21」の策定、「瀬戸市OA化計画」の策定、行政組織の大改編などがあげられ、時機を逸することのない積極的な姿勢を持った人物で3期を務めあげた。