石田 武至

いしだ たけし


日展評議員。昭和7年(1932)に名古屋に生まれ、愛知県立瀬戸窯業高等学校を卒業後、父であり当時を代表する彫刻家であった石田清氏に師事し、彫刻家への道を歩む。昭和32年(1957)に日展初入選、昭和38年(1963)には日展で特選を受賞するなど、若い頃からその作品は高い評価を得ている。その後、日展の審査員、文部科学大臣表彰を受けるなど、日本を代表する彫刻家として活躍していく。
作品は、女性像が多いのが特徴で、女性の外観の美しさだけを表現するのではなく、その内面をも表現されており、そのシャープで洗練された彫刻表現は「石田彫刻」として独特なものとなっている。作品は多くのファンを有しており、ハワイや東京そして愛知県内など国内外各地に数多くの作品が設置されている。
平成16年(2004)まで、名古屋芸術大学の教授として後進の指導にあたる。

各務 鉱三 

かがみ こうぞう


 明治29年(1896)3月7日~昭和60年(1985)12月3日
 岐阜県土岐郡笠原村に生まれる。愛知県立陶器学校(現愛知県立瀬戸窯業高等学校)を卒業。在学中、教師であった日野厚の影響を受ける。大正4年(1915)に東京高等工業学校図案科(現東京工業大学)を卒業し、嘱託教師として奉職するが、大正8年(1919)に辞職し、同年南満州鉄道㈱に入社、満鉄中央試験所でガラスの研究に従事する。昭和2年(1927)、留学生としてドイツ国立シュトゥガルト美術工芸学校に留学。クリスタル工芸ガラス器の研究・製作を専攻する。昭和4年(1929)卒業し帰国する。翌5年東京郊外滝野川に各務クリスタル工芸硝子研究所をつくり、工芸ガラスの研究をした。昭和6年(1931)帝展初入選、昭和9年(1934)には帝展特選を受賞する。同年、東京都大田区西六郷に各務クリスタル製作所を設立し、ガラス製造の一貫作業ができる工場とした。
 昭和10年 (1935)代には、陶器学校時代の同級生であった加藤華仙の依頼を受け、中央から板谷波山などを呼び陶芸家が瀬戸で直接指導を受けられるよう尽力した。その結果入賞・入選者が多く出て隆盛を極めたことにより、瀬戸の陶芸界では高く評価されている。

加藤 雅巳

かとう まさみ


大正2年(1913)12月10日~平成23年1月6日
瀬戸市に生まれる。昭和6年(1931)名古屋中学校卒業。(株)中日本陶器会長。

50年余にわたり八ミリ映画の制作に情熱を燃やし続けた八ミリ作家で、企画・公正・撮影・編集・音楽を一人で行い、国際的水準の芸術性豊かな作品を数多く世に送り出した。「映画人」虹の会会長、全日本アマチュア映画コンクール審査員、日本アマチュア映像作家連盟会長を歴任。昭和23年(1948)CBC全日本アマチュア映画コンテスト文部大臣賞「ある陶工」、昭和42年(1967)パリ国際八ミリ映画祭入賞「無限」、昭和46年(1971)カナダ国際コンテストグランプリ賞・カンヌ国際コンテスト入賞「王子窯」などがある。

加藤 宇助

かとう うすけ


 大正4年に古くから続く窯元に生れる。若年より作陶に長じて窯元を受け継ぎ、修練を積んだ。累代の血筋か天性の轆轤の技量は瀬戸随一と知れ渡っていた。初期の作品としては織部焼の茶道具などを製作していたが次第に古瀬戸を研究、古瀬戸様式を模範にした作品を作陶した。昭和35年(1960)には文部省文化財保護委員会より委嘱製作を受け、鎌倉時代の古瀬戸様式で古瀬戸菊唐草花紋瓶子を再現する。昭和36年(1961)指定解除に至った永仁年製瓶子を「永仁の壷」として大量に作り出すと、飛ぶように売れたという。
さらに瀬戸、美濃に伝わる伝統技法の研鑽に励み、表現としての工芸を意識して独自性の強い作品を創り出し作風を変化させていった。なかでも高い評価を受けたのは瀬戸黒茶碗であった。極めた技術力と完成度、いにしえの茶碗が持つ古格にも劣らぬ風格を備え、美や喜びを喚起してくれる作品として現代に瀬戸黒茶碗を蘇らせた。斬新な仕事としては銅緑釉を基本として、独自の碧青色を表現した青銅釉を発表、花瓶、造形的な置物.茶道具などの製作に非凡な才能を発揮した。昭和56年(1981)、65歳で他界した。

栗木 しげる

くりき しげる


二科展のデザイン部において活躍した作家で、瀬戸市中央公民館館長、瀬戸市文化センター館長を歴任、瀬戸市市民展(瀬戸市美術展)の創設にも尽力するなど、当地域の文化振興に多大な寄与をした。瀬戸市秋葉町、平成21年1月没・享年82歳

北川 民次

きたがわ たみじ


明治27年(1894)1月27日~平成元年(1989)4月26日
静岡県榛原郡五和村(現金谷町五和)にて生まれる。大正2年(1913)早稲田大学予科を中退後、翌年渡米、ニューヨークの美術学校に学ぶ。その後メキシコに渡り画学生として勉強後、昭和7年(1932)メキシコ・タスコの野外美術学校校長となる。帰国後二科会の会員となりメキシコの人物・風俗を題材とした作品を制作する。昭和18年(1943)瀬戸市安戸町に疎開、尾張旭市に移るまでの35年間、「やきもののまち」瀬戸をテーマにした作品を数多く残した。また、昭和24年(1949)名古屋市東山動物園に夏休み期間にあわせて「夏期児童美術学校」を開き、小学校生に絵画指導。昭和34年(1959)名古屋CBC会館、瀬戸市民会館のモザイク壁画を完成し、後に数多くの壁画を制作するなど日本の陶壁ブームのさきがけとなった。昭和61年(1986)メキシコと日本の友好親善に寄与した功績に対し、メキシコ政府から外国人に贈られる最高の勲章である“アギラ・アステカ勲章”が授与された。平成元年(1989)永眠する。

水野 権平

みずの ごんぺい


 水野氏は古代より在地支配を行う土豪で、江戸時代になってからも尾張藩に召抱えられた。水野氏は大坂の陣後、在地事情の明るさと特殊な技能である「御狩御用」をもって初代藩主義直に召しだされる。水野太左衛門致番、水野久之丞正勝、水野勘太夫正照は「水野御案内之者」をつとめる。この間に御林への関与が主体となり、そして御林奉行設置にあたってその延長として役割に携わっていく。 初代御林奉行に水野権平正秀(享保元・4・28~同16・7・9)、水野権平正興(元文4・7・23~安永4・8・13)、水野権平正恭(安永4・10・5~文化7・2・14)、水野権平正摸(寛政2・2・29~文化10・4)、水野権平正矩(文化7・2・14~天保15・4・29)、水野権平正盛(天保15・6・24~文久3・12・12)、水野権平正保(元治元・2・5~明治元・12・16)と続き、正恭・正摸は水野代官も兼ねた。また、正保は明治元年12月16日から同4年10月5日まで東方総監参謀助役をつとめた。
⇒御林方役所、水野代官所参照

安藤政二郎

あんどうせいじろう


明治30年(1987)10月12日~平成6年(1994)10月12日
東加茂郡旭町に生まれる。大正7年に愛知県巡査を拝命し、新栄署、江川署、犬山署等に勤務した。その後、惜しげもなく巡査を辞める。昭和6年(1931)、「大瀬戸」を日刊紙として発行した。昭和8(1933)年には『陶都人士録』、そして昭和16年(1941)に『瀬戸ところどころ今昔物語』を発刊した。翌々年、強力な新聞統制により、「大瀬戸」は廃刊されたが、昭和27年(1952)に複刊「大瀬戸」の第一号を発刊した。昭和28年(1953)には瀬戸市史編纂準備委員として委嘱され、その後編纂委員として活躍した。昭和31年(1956)には『改定瀬戸ところどころ今昔物語』(安藤政二郎著、滝本知二改訂)を発刊した。

麦袋

ばくたい


文久元年(1861)~昭和18年(1943)
本名、加藤友太郎。号、麦袋。明治期~昭和の戦前までを代表する瀬戸陶家の一つで古瀬戸写、黄瀬戸、瀬戸黒、織部写など、主に茶碗・茶入などの茶陶に優れた。人との接しを避け無口で変わり者として通す。門下には水野古麦などをはじめ、すぐれた瀬戸の名工を輩出している。