加藤 宇助

かとう うすけ


 大正4年に古くから続く窯元に生れる。若年より作陶に長じて窯元を受け継ぎ、修練を積んだ。累代の血筋か天性の轆轤の技量は瀬戸随一と知れ渡っていた。初期の作品としては織部焼の茶道具などを製作していたが次第に古瀬戸を研究、古瀬戸様式を模範にした作品を作陶した。昭和35年(1960)には文部省文化財保護委員会より委嘱製作を受け、鎌倉時代の古瀬戸様式で古瀬戸菊唐草花紋瓶子を再現する。昭和36年(1961)指定解除に至った永仁年製瓶子を「永仁の壷」として大量に作り出すと、飛ぶように売れたという。
さらに瀬戸、美濃に伝わる伝統技法の研鑽に励み、表現としての工芸を意識して独自性の強い作品を創り出し作風を変化させていった。なかでも高い評価を受けたのは瀬戸黒茶碗であった。極めた技術力と完成度、いにしえの茶碗が持つ古格にも劣らぬ風格を備え、美や喜びを喚起してくれる作品として現代に瀬戸黒茶碗を蘇らせた。斬新な仕事としては銅緑釉を基本として、独自の碧青色を表現した青銅釉を発表、花瓶、造形的な置物.茶道具などの製作に非凡な才能を発揮した。昭和56年(1981)、65歳で他界した。

栗木 しげる

くりき しげる


二科展のデザイン部において活躍した作家で、瀬戸市中央公民館館長、瀬戸市文化センター館長を歴任、瀬戸市市民展(瀬戸市美術展)の創設にも尽力するなど、当地域の文化振興に多大な寄与をした。瀬戸市秋葉町、平成21年1月没・享年82歳

北川 民次

きたがわ たみじ


明治27年(1894)1月27日~平成元年(1989)4月26日
静岡県榛原郡五和村(現金谷町五和)にて生まれる。大正2年(1913)早稲田大学予科を中退後、翌年渡米、ニューヨークの美術学校に学ぶ。その後メキシコに渡り画学生として勉強後、昭和7年(1932)メキシコ・タスコの野外美術学校校長となる。帰国後二科会の会員となりメキシコの人物・風俗を題材とした作品を制作する。昭和18年(1943)瀬戸市安戸町に疎開、尾張旭市に移るまでの35年間、「やきもののまち」瀬戸をテーマにした作品を数多く残した。また、昭和24年(1949)名古屋市東山動物園に夏休み期間にあわせて「夏期児童美術学校」を開き、小学校生に絵画指導。昭和34年(1959)名古屋CBC会館、瀬戸市民会館のモザイク壁画を完成し、後に数多くの壁画を制作するなど日本の陶壁ブームのさきがけとなった。昭和61年(1986)メキシコと日本の友好親善に寄与した功績に対し、メキシコ政府から外国人に贈られる最高の勲章である“アギラ・アステカ勲章”が授与された。平成元年(1989)永眠する。

水野 権平

みずの ごんぺい


 水野氏は古代より在地支配を行う土豪で、江戸時代になってからも尾張藩に召抱えられた。水野氏は大坂の陣後、在地事情の明るさと特殊な技能である「御狩御用」をもって初代藩主義直に召しだされる。水野太左衛門致番、水野久之丞正勝、水野勘太夫正照は「水野御案内之者」をつとめる。この間に御林への関与が主体となり、そして御林奉行設置にあたってその延長として役割に携わっていく。 初代御林奉行に水野権平正秀(享保元・4・28~同16・7・9)、水野権平正興(元文4・7・23~安永4・8・13)、水野権平正恭(安永4・10・5~文化7・2・14)、水野権平正摸(寛政2・2・29~文化10・4)、水野権平正矩(文化7・2・14~天保15・4・29)、水野権平正盛(天保15・6・24~文久3・12・12)、水野権平正保(元治元・2・5~明治元・12・16)と続き、正恭・正摸は水野代官も兼ねた。また、正保は明治元年12月16日から同4年10月5日まで東方総監参謀助役をつとめた。
⇒御林方役所、水野代官所参照

安藤政二郎

あんどうせいじろう


明治30年(1987)10月12日~平成6年(1994)10月12日
東加茂郡旭町に生まれる。大正7年に愛知県巡査を拝命し、新栄署、江川署、犬山署等に勤務した。その後、惜しげもなく巡査を辞める。昭和6年(1931)、「大瀬戸」を日刊紙として発行した。昭和8(1933)年には『陶都人士録』、そして昭和16年(1941)に『瀬戸ところどころ今昔物語』を発刊した。翌々年、強力な新聞統制により、「大瀬戸」は廃刊されたが、昭和27年(1952)に複刊「大瀬戸」の第一号を発刊した。昭和28年(1953)には瀬戸市史編纂準備委員として委嘱され、その後編纂委員として活躍した。昭和31年(1956)には『改定瀬戸ところどころ今昔物語』(安藤政二郎著、滝本知二改訂)を発刊した。

麦袋

ばくたい


文久元年(1861)~昭和18年(1943)
本名、加藤友太郎。号、麦袋。明治期~昭和の戦前までを代表する瀬戸陶家の一つで古瀬戸写、黄瀬戸、瀬戸黒、織部写など、主に茶碗・茶入などの茶陶に優れた。人との接しを避け無口で変わり者として通す。門下には水野古麦などをはじめ、すぐれた瀬戸の名工を輩出している。

加藤 庄三

かとう しょうぞう


明治34年(1901)5月~昭和54年(1979)5月
瀬戸市西谷町に生まれ、瀬戸尋常高等小学校を卒業。大正5年(1916)父喜太郎の死去のため、家業の窯業原料商を継ぐ。昭和7年(1932)珪酸曹達の生産を開始、昭和40年(1965)愛知珪曹工業(株)会長に就任する。
瀬戸市史準備委員会の委員に委嘱されるが、委員会は難航したため委員を辞退する。それでも、磁祖民吉については「瀬戸生まれでないと」との責任感から、長い年月と私財を投じて、民吉の足跡を追って九州まで何度も赴き調査を進めた。庄三が永年にわたって調査の累積は自身の手によりまとめられていたため、『民吉街道』として遺族の手によって刊行された。
庄三は瀬戸を中心に遺された古文書や遺跡などの文化財を調べ上げ、こと細かに筆記で写し取っているが、その記録は膨大にのぼり二次資料とは言え貴重な資料となっている。

渡辺 幸平

わたなべ こうへい


四国讃岐高松士族で、琴々堂と号した。近世の瀬戸窯に陶彫の技法を伝えた大恩人である。高松藩の近習役在勤のとき君側の婦人に恋慕し、それが因となって国元を出奔し、京都に出で一時は銅器鋳型の製作に従事していた。その後京都清水焼の井上松兵衛方に身を寄せたこともある。松兵衛の紹介で瀬戸村加藤三平を訪ね、そこで旅装を解いた。明治5年(1872)2月12日没した。
幸平は、瀬戸では彫塑を以って、陶祖春慶翁の碑「六角陶碑」の獅子、その他多くの成績を遺している。最も仙佛・動物に長じている。幸平は、「白磁は釉に被われてその妙味は埋没してしまうので、有色の無釉粘土を喜び、瀬戸の砂防工事の堰の上に溜った、天然淘汰のタメという黄色の粘土を用い、その焼成には火焔に触れしめず、結果は褐色又は青灰色となって、高尚優雅である」としている。
渡辺幸平の墓石は、明治5年(1872)から年移って碑棹は倒れ台石は散逸していた。宝泉寺裏の無縁仏となって放置されている陶彫の大恩人渡辺幸平の基碑を復元しようと、大瀬戸の安藤が発起して、墓の碑はそのまま用い、台座には墓碑復元の記、これに各方面の協力を得て陶祖、磁祖の墓地の隣にノベリティ関係業者の浄財を得て建設。昭和35年(1960)再建法要供養を宝泉寺住職の手によって盛大に行った。

ホフマン

ほふまん


1875~1945。イタリアのトリエステ生まれ。明治37年(1904)に東京帝国大学に招かれ来日する。明治42年(1909)に帰国。その後はウイーン農科大学教授などを経て、イタリア森林省林野局の総局長となる。
かつて、尾張地方の山や丘にははげ山が広がっていた。このはげ山を復旧するため、愛知県は明治38年(1905)に東京帝国大学農科大学に設計を依頼し、その時提出されたのが、同大学雇教師アメリゴ・ホフマンが林学科学生の山崎嘉夫・弘世孝蔵の卒業論文として指導した設計書であった。愛知県は同年、弘世が設計した第2号支渓(現在の瀬戸市東印所町)について工事を行い、模範砂防工として完成させました。の工事は、ホフマンが設計を指導したためホフマン工事と呼ばれています。ホフマン工事は、山腹面への植栽は行わず、土砂の浸食や崩壊をある程度まで自然に放置し、渓流を安定した勾配に導き、渓流と山裾を固める工法で、当時オーストリア・フランスで広く用いられていた。
当時のはげ山復旧工法は、山腹面に階段を切り付け苗木を植栽する工法が広く行われていたため、ホフマン工事は定着しなかった。しかし、設計にあたって、縦断面図を作成して渓流の安定を考え、土堰堤の安定や放水路・水叩きなどの各部の大きさを計算によって求めるなど、近代科学に基礎をおく設計思想が取り入れられた。その後の治山技術の発展に大きな影響を与えた。