応夢山

おうむさん


定光寺の名で知られる応夢山は、中・古生層から成り、標高が271mで高山の部類に入るものではない。しかし、市境(県境)を流れる庄内川(玉野川)の峡谷より一気にせり上っており、実際以上の高さを感じさせる勾配である。庄内川に架かる城嶺橋付近では、新鮮な中・古生層の砂岩と頁岩の互層や砂岩とチャートの互層が見られるのに対して、本山では風化作用が進み土壌化して多くの照葉樹を育てている。「定光寺縁起」によると、当山の開山は肥後の人千葉氏で、その母一夜地蔵菩薩の霊夢を感じて生れたと言われ、九才で出家して鎌倉建長寺で修行の後、五十四才の時尾張の国を遊歴して、水野の里人跡未踏の地を卜して座禅をしておられた。遠近の人々それを伝え聞き、教を請い帰依する者多く、5年の後、本堂を建立することとなり、その位置が決定したとき、ある夜不思議にも、そこから定光仏と言う霊像を掘出した夢を雲水一同が見たので、禅師は定光寺と名づけ、山号を応夢山としたとある。定光寺(覚源禅師開創)には、尾張藩祖徳川義直公の廟所がある。

応夢山

ホタル

ほたる


ゲンジボタルともいい、最近水質の浄化が進んではいるが瀬戸川の上流の馬ヶ城付近に限り生息しており、夏の宵をいろどる風物詩として市民に親しまれている。最近、馬ヶ城・上半田川町・曽野町で確認されている。幼虫は水生。カワニナを食べ、清流に生息している。

猿投山

さなげやま


「千古に清き猿投山…」と瀬戸市歌に歌われる猿投山は、瀬戸市と豊田市の市境に位置する。猿投山塊は、恵那山地の隆起帯の南西延長部にあり、北側を猿投山北断層、南側を猿投-境川断層によって切られ、周りより高まった地塁山地である。「猿投型花崗岩」の名で示されるように、全山が花崗岩から成っている。新鮮な岩肌が見られる所は少なく、著しく風化作用が進んでおり、白い山肌がここかしこに見られる。山間にはいくつもの小さな清流がながれ、本市側の山麓にはアカマツを主体とした雑木林、山腹にはヒノキの造林地があり、市境を越えた山頂付近の西の宮、東の宮あたりは樹齢100年を越える大きなスギがうっそうと茂っている。また、豊田市側の山腹には、国の天然記念物に指定されている珍しい菊石(球状花崗岩)が見られる。

猿投山
猿投山

ホトケドジョウ

ほとけどじょう


瀬戸市内を流れる瀬戸川・水野川・蛇ヶ洞川に生息する。馬ヶ城では多数生息し、短い流程に混生する。水野川では上流に生息する。

東国山

とうごくさん


瀬戸市と名古屋市守山区上志段味との境にあって、標高は198mである。山頂には尾張戸神社が鎮座することから、この山を尾張山と称されていたが、いずれの頃からか當國山と呼び替え、後世に東谷山と称呼するようになったとされる。
東谷山の西の斜面には多くの古墳がある。社殿そのものも古墳の上に建っていて、古墳を主体として発生した神社の好例といわれている。
東谷山への道は、かつては南の麓から東谷山へ登っていった。今は自動車で山頂まで登ることができるが、歩いて東谷山を目指した道のりはかなりきついものであったに違いない。

東国山

三国山

みくにやま


瀬戸市東方に位置し、かつての尾張、美濃、三河の3つの国を分ける本地域の最高峰(標高701m)である。猿投山北断層に面する南斜面はやや急峻であるが、北斜面は緩やかで、稜線は丸味をおび、小谷が深く入り込むという花崗岩山特有の地形を呈しており、本山も著しく風化作用が進んでいる。山頂には名古屋統制無線中継所や展望台があり、遠く御岳山や伊勢湾を望むことができる。

物見山(七城ヶ嶺)

ものみやま


旧山口村絵図には、枝郷である海上集落の南東側の山上に「山田佐右衛門物見ヶ岩」の記載がある。古城跡とはっきり書かれているわけではないが、江戸時代後期の地誌「尾張徇行記」には、甲斐の武田信玄が進出して築いた砦とする地元での言い伝えが書かれている。今も西側に開けた標高327mの物見山の山頂からは、山口地区をはじめ、幡山の平地部が眼下に広がり、地区の様子が一望できる。

物見山から眺める幡山地区・尾張平野

暁断層

あかつきだんそう


 瀬戸地域には、笠原断層、暁断層、菱野断層及び猿投山北断層からなる主要な断層がある。
暁断層は旧開発鉱山内を通り、東南東-西北西方向である。東南東方向の延長は不明であるが、片草川沿いに花崗岩が侵食され破砕状であり、片草川の北側に品野層が分布し、南側に分布しないことなどから断層が推定される。

笠原断層

かさわらだんそう


 瀬戸地域には、笠原断層、暁断層、菱野断層及び猿投山北断層からなる主要な断層がある。
笠原断層は、東南東-西北西方向の明瞭な断層崖を示し、地形によって追跡できる。また、この断層は定光寺町付近で分岐し、北側を笠原北断層、南側を笠原南断層とした場合、笠原南断層は東南束の延長部で明瞭な断層崖(地域外)を示す。両断層とも南側が上昇している。

梅雨左衛門(ギンリョウソウ)

つゆざえもん(ぎんりょうそう)


 江戸後期、尾張藩士内藤東甫の記述による「張州雑志」には、瀬戸市内に産する植物238種と菌類15種が記載されている。「梅雨左衛門」はそのうちの1種で梅雨期によく発生することと、別の伝説とが結びついて名付けられたものである。別書によれば「露左衛門」と記された例もある。本種は、イチヤクソウ科のギンリョウソウで山地のほの暗い林下の腐食土にはえる腐生植物で、葉緑素がなく、根のほかはすべて銀白色である。茎は多肉質、高さ10~20㎝、葉は鱗片状に退化して互生し、花は鐘形で、5~8月ごろ茎の頂に1個下向きにつき、種子によってふえる。地上部は枯れると黒色に変わり、生きているときとは全く違ったものになる。ギンリョウソウの名の由来は、鱗片葉につつまれた銀色の体全体を竜にみたて銀竜草と呼ぶ。また、ほの暗い山林下にひっそり白くはえる姿から幽霊茸と呼ばれることもある。