モクレン科モクレン属の落葉小高木で日本固有種である。自生の分布範囲は東海三県に限られ、現在は準絶滅危惧種に指定されている。樹高は高いもので10m以上、幹周りは20cm以上のものもある。根元から分かれ株立ちする。花は早春に開葉に先立って咲き、白い花を咲かせる。花の形が四手(しで)に似たコブシのような花を付けることからこの和名となっている。花の開花期間は約10日、株全体では20日間程度開花する。シデコブシの生育地は、湧水のある山裾や小さい谷の湿った谷底で、瀬戸市内では、東部や南部の丘陵内に多くみられ、現在までに12,000余株の生育株が確認されている。特に市域中央の馬ヶ城町や北側の下半田川町に大群落がみられる。しかし近年、集落近くの里山が放置され、下草刈りや間伐が行われなくなっており、林内環境の悪化による生育範囲の狭まりが懸念されている。
カテゴリー: 自然
須原町の地滑り災害
すはらちょうのじすべりさいがい
1957年(昭和32年)8月8日、集中豪雨によって市内全域で大きな被害を受けた。歴史上、空前の災害となった。特に須原町地内の地滑りは、全壊9戸、半壊2戸、生埋めになった者45人となった。しかし地元消防団や愛知県東春日井郡高蔵寺町の自衛隊などの救出作業のおかげで、9日正午までに須原町では、23人が救出されたが死者21人、行方不明1人となった。また、品野地区では、家屋の流失により死者8人を出す大惨事となった。現場は十数年前から陶土採掘場に使われ、地盤がゆるみかけていたうえに、8日の夜の雨で一挙にくずれたものとみられる。
泉町山崩れ
いずみちょうやまくずれ
瀬戸地域のはげ山や崩落地の存在は大雨による山崩れや土石流を起こし、人家を襲って人命を奪ったり河川の堤防を決壊させて大被害をもたらした。中でも昭和32年(1957)8月7日夜から8日夕刻にかけて岐阜県多治見市から瀬戸市、藤岡村一帯を襲った集中豪雨では、愛知県下で死者33名、家屋全壊・流失88戸、床上・床下浸水27,000戸余、田畑流失・冠水879ヘクタールという大災害となった。被害の中心は瀬戸市であった。新愛知タイムズは、「泉町一帯は市街地北に広がる鉱山に隣接した地域であった。粘土鉱山の刎土の上に造成された宅地が崩れた災害であった。この時の瀬戸市の降雨量は372mmと記録されている。結局泉町一帯の死者は22名となったが、水野川上流の品野町上品野地区、中品野地区でも鉄砲水による死者3名、行方不明者6名が出た」と伝えている。
瀬戸市の災害概況について、次のように記述した報告書が残されている。
1.人的被害
①り災者総数 10,551人
②死者 23人
③重軽傷者 25人
原因は、死傷者はすべて付近の山崩れによる圧死傷によるもの、り災者は、同様に付近の山崩れと瀬戸川流域一帯の氾濫によるものとされている。
2.住家の被害
①全壊 33戸(154人)
②流失 3戸( 20人)
③半壊 48戸(175人)
3.生産工場等の被害
①陶磁器生産工場
イ、全壊、半壊等 25工場
ロ、土砂の流入 146工場
ハ、浸水工場 351工場
②珪砂工場
イ、珪砂工場 26工場
4.住家の浸水
①床上浸水 519戸
②床下浸水 2,130戸
伊勢湾台風(台風15号)
いせわんたいふう
昭和34年(1995年)年9月26日、南太平洋上に発生した台風15号は中心気圧910hPa、暴風雨圏700㎞という超大型台風となって本土を襲来した。伊勢湾台風と命名されたこの台風は、紀伊半島潮岬付近に上陸すると午後9時半頃に名古屋の西側を通過して日本海に向かった。伊勢湾から吹き込む風速30m以上の暴風と豪雨、それに高潮が重なって未曽有の被害が生じたのである。県下で死者3,168人、行方不明92人、家屋全壊23,334戸、同流失3,194戸の被害を出した最大の要因は、高潮による河口部や沿海部の堤防決壊であった。特に名古屋南部の貯木場の丸太が破提によって一挙に市街地を襲って被害を大きくした。
新愛知タイムズは、「27日には災害救助法が発動され、瀬戸市では32年の豪雨で泉町の山崩れ以来のことだが被害はこれとは比較にならないほど大きい。幸い雨量が少なかっただけに、水害は最初限度に免れたが、台風によって家を亡くし、壊された人達はあちこちに仮住まいし、工場はほとんど休業している。市では市庁舎に災害救助本部を設けて救難にあたり、復興の援助を行うことになった」と伝えている。
1.人的被害
重傷 3人
軽傷 91人
2.建物の被害
住宅 全壊215戸
半壊527戸
工場等 全壊468戸
非住家 半壊2,019戸
3.公共施設の被害
道路河川の決壊 20ヶ所
建物の損害 小中学校20校
濃尾地震
のうびじしん
明治24年(1891)10月28日午前6時38分ごろに中部日本に大地震が発生した。この地震は揖斐川上流域の岐阜県大野郡根尾村を震源として発生したもので、東海・北陸地方・近畿地方東部、とくに美濃西部から尾張北西部にかけては記録的な大被害をこうむったので濃尾地震とよばれ、知名な大地震の一つである。
地震の規模(マグニチュード、M)は8.4であり、震域は仙台以北を除き、日本中にわたって強い震動を感じた。濃尾平野・美濃北西部から越前平野にわたって、最も激しかった。
震災地を通じて死者7,469人、負傷者19,694人、住家全壊85,848戸に達し、平均住家全壊11戸につき1人の死者の割合であった。余震(有感)は大震後2年間に岐阜では3,365回、名古屋では1,278回を観測し岐阜では10年間も続いた。そのうちもっとも強かったのは、明治25年(1892)1月3日、 9月7日、27年1月10日の3回であった。
愛知県下の死者は2,459人の多数にのぼり、県内に発生した災害では伊勢湾台風につぐ記録的な人災害であった。被害程度についてみると、中島郡の被害がもっとも大きく、ついで葉栗郡・西春日井郡・海東郡・丹羽郡・海西郡・愛知郡・東春日井郡・名古屋市の順となっている。
東春日井郡の各村の被害は比較的軽微で、郡全般についてみると30%位の被害であった。被害のもっとも甚だしかった町村は小牧町・岩崎村であった。また、瀬戸村・赤津村・品野村では陶磁器窯がことごとく崩壊し、その総計は542窯にのぼった。瀬戸村付近では、窯の崩壊だけでなく、焼き上げた製品の破損もおびただしかった。また、陶土採堀場の崩壊か所も少なくなかった。
笠原断層
かさわらだんそう
瀬戸地域には、笠原断層、暁断層、菱野断層及び猿投山北断層からなる主要な断層がある。
笠原断層は、東南東-西北西方向の明瞭な断層崖を示し、地形によって追跡できる。また、この断層は定光寺町付近で分岐し、北側を笠原北断層、南側を笠原南断層とした場合、笠原南断層は東南束の延長部で明瞭な断層崖(地域外)を示す。両断層とも南側が上昇している。
梅雨左衛門(ギンリョウソウ)
つゆざえもん(ぎんりょうそう)
江戸後期、尾張藩士内藤東甫の記述による「張州雑志」には、瀬戸市内に産する植物238種と菌類15種が記載されている。「梅雨左衛門」はそのうちの1種で梅雨期によく発生することと、別の伝説とが結びついて名付けられたものである。別書によれば「露左衛門」と記された例もある。本種は、イチヤクソウ科のギンリョウソウで山地のほの暗い林下の腐食土にはえる腐生植物で、葉緑素がなく、根のほかはすべて銀白色である。茎は多肉質、高さ10~20㎝、葉は鱗片状に退化して互生し、花は鐘形で、5~8月ごろ茎の頂に1個下向きにつき、種子によってふえる。地上部は枯れると黒色に変わり、生きているときとは全く違ったものになる。ギンリョウソウの名の由来は、鱗片葉につつまれた銀色の体全体を竜にみたて銀竜草と呼ぶ。また、ほの暗い山林下にひっそり白くはえる姿から幽霊茸と呼ばれることもある。
庄内川
しょうないがわ
猿投山北断層
さなげやまきただんそう
瀬戸地域には、笠原断層、暁断層、菱野断層及び猿投山北断層からなる主要な断層がある。
猿投山北断層は北東-南西方向を示し、花崗岩類の中を通っている。本断層は、花崗岩類に幅約1mの明瞭な破砕帯として確認でき、深い断層谷として追跡できる。瀬戸市域では断層の南東側の地塊が地形的に高く、北西側地塊に分布する水野砂礫相などは、南東側に分布しないことから、南東側地塊の隆起と考えられる。
瀬戸地域は、東南東-西北西方向の断層運動と猿投山を中心とする地域の隆起によって地質構造が発達した。断層運動は、品野層堆積後から現在まで継続して活動していたと推定され、花崗岩類が侵食されてできた堆積盆地内に品野層が堆積し、断層運動を受けて部分的に侵食され、地形は平坦化された。品野層の上に花商岩の風化物が瀬戸陶上層として堆積し、断層運動を受けわずかに侵食作用を受け、その上に矢田川累層が堆積し、再び断層運動を受けたと考えられる。
瀬戸川
せとがわ
一級河川。西古瀬戸町において、紺屋田川と古瀬戸川の合流地点、刎田橋付近から下流が瀬戸川となり、古瀬戸町で国道248号線をくぐってからは市街地を流れ、山脇町で大きく湾曲して西へ流れていく。山脇町を通ってからは川幅も広くなり、緩やかなS字を描きながら市役所前を通り、共栄通りで瀬戸街道をくぐり西原町で矢田川に合流している。幹線流路の延長は6.04 km、 高低差は50m程である。川の南北には丘陵が迫っているため、支川延長の短い川が目立つが、谷間を抜けて北東、南東へ延びる支川は比較的長くなっている。一里塚川・紺屋田川はその例である。
かつては、白濁の程度が陶磁器業界の経済状態を示すとして、白い水の流れに好感を持たれていたが、河川浄化の取り組みにより川の水は透明度を増し、現在は魚が泳ぐまでになっている。流域面積が広く、宅地化がすすんでいるため、一旦大雨が降ると濁流となって水かさが増すが、平常時は水量が少ない。
(参考文献:瀬戸市史編纂委員会 1986『瀬戸市史 資料編2 自然』)