瓶子陶器窯跡

へいじとうきあまあと


国指定史跡 4,520平方メートル
平成27年10月7日指定
所在地 瀬戸市凧山町 所有者 瀬戸市・国土交通省
文化財 古窯跡及び工房跡 時代 江戸時代前期

江戸時代の旧赤津村は、尾張藩の御用を務めた「御窯屋」が所在するなど、藩との結びつきが強いやきもの生産地であった。当時の窯は、現在の集落や陶磁器工房の中心部となる、赤津盆地北側丘陵斜面に構築される例が多かったが、瓶子陶器窯跡は盆地南側に単独で構築された立地状況となっている。2基の窯体(1号窯・2号窯)と工房跡・物原からなり、平成10・11年度には瀬戸市により窯体と工房跡の確認調査が、平成15年には愛知県により物原部分の発掘調査が行われた。
1号窯は、下半部分は大窯構造、上半部分は連房式登窯構造をなす、いわゆる「大窯・連房連結窯」という特異な構造となる。残存長は15.4ⅿで、連房部分は6房確認された。2号窯は一般的な連房式登窯で、残存長は28.3ⅿにも及び、房数は14~15房であったと推定される。
出土遺物には、当時赤津村で一般的に生産された擂鉢や銭甕の他、天目茶碗や茶入といった茶陶関係の製品が多くみられ、その年代から本窯の操業は17世紀前葉から末葉であったと考えられる。また、愛知県の物原調査時には、尾張藩士の名前が書かれた「付け札」が出土し、藩との関わりがあったことが明らかにされた。

1号窯連房部
1号窯大窯部

志段味古墳群(尾張戸神社古墳)

しだみこふんぐん(おわりべじんじゃこふん)


国指定史跡
瀬戸市十軒町
東谷山山頂の尾張戸神社の社が墳丘上に構築されている。尾張戸神社は旧水野村(下水野)と志談味村(上志談味)にまたがる郷社で尾張国造尾張氏の祖先を祀るとされる。境内社に中之社と南之社がありいずれも古墳域に祭られている。
名古屋市教育委員会の調査では、市内最高峰の東谷山(198m)の山頂から山裾、その西麓に広がる河岸段丘上には総数67基の古墳群が分布し「志段味古墳群」と呼称されている。尾張戸神社古墳は、墳径27.5の円墳で2段築成か、墳丘斜面に角礫を主とする葺石。テラス面に石英の敷石がある。4世紀前半代に前方後円墳の白鳥塚古墳(国史跡)とともに群中で最古の築造である。
中之社を祭る中社古墳は、墳長63.5mの前方後円墳で平面形は柄鏡形に近い。地形的な影響で主軸に対し左右非対称、後円部は3段・前方部2段築成で墳丘斜面に円礫を主とする葺石がある。後円部北側の堀割に埴輪列がきわめて良好な状態で残存する。南社古墳は、墳径30mの円墳で2段築成。斜面上段は円礫による葺石、下段は角礫による葺石、テラス面に埴輪列がある。埴輪は円筒埴輪・朝顔形埴輪・盾形埴輪がある。円筒埴輪には三角形の透孔が開けられており、中社古墳と同時期の4世紀中頃とされている。

尾張戸神社古墳

陶製狛犬

とうせいこまいぬ


国指定工芸品 1躯
大正元年9月3日指定 所在地 瀬戸市深川町 所有者 深川神社
文化財 高さ51センチ 時代 鎌倉時代(伝陶祖藤四郎作)

狛犬は通常は阿吽(あうん)一対で、神社境内の守護などのためにつくられる。深川神社の神宝である陶製狛犬は瀬戸の陶祖藤四郎が製作して奉納したと伝えられる。現在残っているのは口を閉じた吽型の一体のみである。この狛犬は陶製としては大型で、高さ51センチ、胴径24×39センチあり、へらの痕も鋭くたて髪は櫛目を使って美しい。全体に淡黄緑色の灰釉が施されている。前脚が江戸時代の神社火災で損失し、木で補修されている。
大正2年に国宝に指定されたが、昭和25年の文化財保護法で重要文化財に指定された。なお近年の窯跡調査で本例に類似した窯跡の出土例が殆ど見られず、室町時代初頭のころまで制作年代を下げて考える説もある。

深川神社の陶製狛犬

太刀銘助重

たちめいすけしげ


国指定工芸品 1口
大正8年4月12日指定 所在地 徳川美術館(寄託) 所有者 定光寺
文化財 長さ70.3センチ 時代 鎌倉時代中期

尾張藩三代藩主綱誠が藩祖の所縁の定光寺に寄進したもので、助重は備前国吉岡一文字派の刀工である。刀身は断面が菱形になる鎬造(しおぎづくり)で、刃の反対側の棟は山形になる庵棟(いおりむね)になる。磨(すり)上げのために反(そり)は浅く、先幅は細くなっている。鍛えは板目、刃紋は中直刃(なかすぐば)に逆足入りである。茎(なかご)は磨上げ、柄(つか)を刀身に固定する目釘孔が2個付けられている。長さ70.3センチ、反1.8センチ、元幅2.9センチ。
付属の糸巻太刀栫えは総金具、赤胴魚子地金小緑色絵丸に葵紋散らし、柄と渡巻は紺地金襴包み浅黄糸巻き、鍔(つば)に「岸本氏泰幸作」と切附銘がある。

太刀銘助重
太刀銘助重柄

太刀銘守家

たちめいもりいえ


国指定工芸品 1口
大正8年4月12日指定 所在地 徳川美術館(寄託) 所有者 定光寺
文化財 長さ68.1センチ 時代 江戸時代中期

尾張藩九代藩主宗睦が藩祖の所縁の定光寺に寄進したもので、守家は備前国畠山派の名工である。刀身は鎬造(しのぎづくり)で庵棟(いおりむね)となっており、磨(すり)上げのため反(そり)は浅くなっている。鍛えは杢目(もくめ)肌、刃紋は大丁子乱(おおちょうじみだれ)に足入りである。太刀の先端部分の切っ先は焼詰めとなっており、棟に一ヶ所切り込みがある。茎(なかご)は磨上げで、目釘孔は2個ある。長さ68.1センチ、反1.5センチ、元幅2.9センチ。
附属に糸巻太刀拵えは総金具、赤胴魚子地金色絵で葵紋散らし、鞘(さや)は梨子地に蒔絵と金具の丸に葵紋散らし、柄と渡巻は白地金襴包み花色糸巻きである。縁金具と大切羽(おおせっぱ)に「尾州住安藤信時(花押)」の切附銘がある。

太刀銘守家
太刀銘守家柄

猿投灰釉多口瓶

さなげかいゆうたこうへい


国指定工芸品 1口
昭和50年6月12日指定 所在地 愛知県陶磁資料館 所有者 愛知県
文化財 高さ21.5センチ 時代 平安時代初期

愛知県三好市の黒笹36号窯からの出土品で、いわゆる猿投窯の製品である。高さ21.5センチ、口径6.5センチ、胴径15.9センチ、底径8.9センチ。
長頸口の周りに4個の小口頸を付けた器形で、多嘴瓶(たしへい)とも称する。やや外開きの口唇は縁帯状に整形され、丸味のある胴部の肩から4個の小口頸が付き、それぞれの基部は面取り整形されている。付高台の中央部は焼き割れて欠損しているが、ほかは良好である。全体に暗褐色を呈するが、口縁から肩にかけて厚く灰釉が掛り、自然釉との区別が難しいので原始灰釉と呼ばれる。

猿投灰釉多口瓶

渥美灰釉芦鷺文三耳壷

あつみかいゆうあしさぎもんさんじこ


国指定工芸品 1口
昭和51年6月5日指定 所在地 愛知県陶磁資料館 所有者 愛知県
文化財 高さ39.3センチ 時代 平安時代末期

渥美半島にはおよそ500基ほどの中世窯があったと推定されており、瀬戸窯・常滑窯に次ぐ大規模な窯業生産地だった。この渥美窯の製品は碗・鉢・壺・甕などの日用雑器だったが、広口瓶・短頸壺・経筒外容器などの特殊器種もあり、それらには蓮弁文・袈裟襷文などの文様が施されたものもあった。
本品は口径16.5センチ、胴径34.0センチ、底径13.5センチで、12世紀に製作されたものと推定され、埼玉県出土と伝えられてきた。肩の部分の袈裟襷文と全面に描かれた芦の生えた川辺に戯れる鷺の絵からこの名称が付けられた。国宝の渥美秋草文壺と並び絵画的にも高く評価されている。

渥美灰釉芦鷺文三耳壺

陶製五輪塔

とうせいごりんとう


国指定工芸品 1口
平成7年6月15日指定 所在地 愛知県陶磁資料館 所有者 愛知県
文化財 高さ37.5センチ 時代 平安時代(久安二年銘)

灰褐色陶胎、やや砂質の焼締陶製五輪陶容器である。五輪陶とは地輪をかたどる台座、水輪をかたどる身、火・風・空輪をかたどる蓋から構成され、経塚造営の際の経塚又は経塚外容器と考えられるものである。
本器内外には多くの銘文が刻まれ、「久安二年(1146)七月廿八日 申時造了 清原重安造之」、「願主沙門良忠持範房」、「遠海新所之立焼(現湖西市新所湖西窯)」など作者・製作年代・製作地が判明する稀有な例であり、また五輪塔形経容器としても平安時代の貴重な作例である。浜松市浜北区根堅勝栗山出土と伝えられている。

陶製五輪塔

瀬戸の陶磁器の生産用具及び製品

せとのとうじきのせいさんようぐおよびせいひん


国指定有形民俗 3,943点
昭和49年2月18日指定、同50年9月22日追加指定 
所在地 瀬戸蔵ミュージアム 所有者 瀬戸市  時代 平安時代~昭和

 瀬戸市では昭和38年から陶磁器を製作するために使用する生産用具とその道具を
使った作られた陶磁器製品について調査・収集を行ってきた。収集された資料は、採土・製土・成形・乾燥・絵付・施釉・焼成の各工程に関する資料と製品、さらに製品の運搬道具や仕事着まで及んでいる。戦後の急速な機械化によって失われつつあった窯業関連の民俗文化財について一貫して収集されたこれらの収蔵品は、昭和49年に国の重要民俗文化財に指定され、瀬戸市歴史民俗資料館で収蔵・展示を行ってきた。
 平成17年からは、新たに瀬戸蔵ミュージアムの生産道具展示室にその機能を移し、20世紀の窯業が機械化されてゆく過程を含めた幅広い展示を行っている。

小長曽陶器窯跡

こながそとうきかまあと


国指定史跡 1,510平方メートル(旧986平方メートル)
昭和46年7月13日指定、平成14年3月19日史跡範囲拡大指定
所在地 瀬戸市東白坂町(東京大学演習林内) 所有者 東京大学
文化財 古窯跡及び工房跡 時代 室町時代前期・江戸時代中期

室町時代に創業された窖窯(あながま)で、古瀬戸製品を成形・乾燥させた工房や製品を焼成した窯体の構造などが発掘調査により明らかになった。この窯跡の最大の特徴は焼成室の中央に隔壁を持つことで、5本の小柱により通炎孔が設けられていることである。こうした構造は同時代の窯跡には全く見られないが、江戸時代の『張州雑志』によれば、元禄十二年(1699)に尾張藩公の命により茶道具を焼成するために再利用されたという記述とも一致する。
本窯は昭和21年5月、日本陶磁協会により瀬戸地方で初の学術発掘調が行われた。その後も、数次にわたる煙道部・前庭部・工房跡などの調査や保存事業が実施されている。

小長曽陶器窯跡全景