上半田川村陶祖碑

かみはだがわむらとうそひ


瀬戸市上半田川町
 旧上半田川村の氏神金峯神社の参道脇に昭和3(1928)年11月に建立された「陶祖之碑」がある。愛知県窯業学校黒田瓷峰(正策)校長撰書の碑文には「明治七(1874)年三月に上半田川村の長江吉衛門が県令の許可を得て築窯したことが今日の発展の礎である」とある。裏面に昭和3年当時の操業者26名の氏名が載る。
 『東春日井郡誌』によれば、長江吉右衛門は上品野村の人で文政7(1824)年3月7日生まれ、上半田川が回りを山に囲まれて長石(原料)と薪炭(燃料)に恵まれた地であることに着目し、明治7年3月14日に愛知県に染付焼を出願した。失敗が続いたが、その子惣左衛門の協力を得て、ようやく焼造することに成功した。運輸不便の僻地を考え、盃を主製品としたことも、その後の特産化の礎となった。今日多くの陶業者が存する隆盛はひとえに吉右衛門のお陰である。明治38(1905)年1月没とある。
 明治から大正時代にかけて、上半田川には25,6軒が窯業に従事、製品は丸型や菊型の盃が特徴で、多治見の問屋に卸した。昭和初期には5基の登窯は石炭窯に替わったが、第2次大戦中に全て廃絶した。

水野焼中興之祖頌徳碑

みずのやきちゅうこうのそしょうとくひ


瀬戸市穴田町
 水野地区も窯業の盛んな地区である。寛文年間(1661~73)にこの地にあった窯屋が東濃地方を中心に移住させられて以来、明治維新になるまでその操業は一切許されなかった。明治5(1872)年旧上水野村の田中伊六・同七十郎・中根明敏が共同で本業窯を始めたが失敗した。また、上水野村余床でも加藤久蔵・同鎌之助・同文衛門・同金兵衛・同半助・同孫兵衛の6人が共同窯を興したがこれも失敗した。同7年にも上水野村北脇で磯村平四郎・同市兵衛・同要蔵・松下久之進・松原五平の5人で磁器生産の共同窯を築いたがやはり失敗している。
 上水野の穴田山上に「水野焼中興之祖頌徳碑」が建っている。これは昭和28年4月に地元の製陶業者48名が建立したものである。碑文には、「明治三九年四月、東春日井郡神宮堂(じぐどう)に於いて、磯村桂太郎・加藤嘉蔵・同民助・同浦吉・同不二松・同鉄五郎・同鉄太郎・松本鎌太郎ら八名は協力して登窯を築き磁器製造を開始した」とある。
 これ以降、水野地区では和物(丼・湯呑・小鉢類)生産が盛んになり、昭和10年(1935)には29軒の窯元を数えた。

加藤新右衛門胸像

かとうしんうえもんきょうぞう


瀬戸市岩屋町
加藤新右衛門家は慶長年間(江戸時代初期)に尾張藩公から美濃国から召し戻された。弟三右衛門とともに下品野村に窯場・山林を給され、品野窯中興の祖となった家柄である。江戸時代を通して西窯組の窯元として活動した。
瀬戸市の岩屋堂公園の一角に「加藤新右衛門翁立像」が立つ。胸像は胴製、高さは2尺5寸、陶製の台(高さ2尺)の上に建つ。後ろに高さ2.1m、幅2.6mの陶製板が建てられ、その中に明治期に活躍した新右衛門翁の功績を示した銅板がはめ込まれている。「翁は弘化四年下品野竃加藤新右衛門家の嫡男に生まれ、十八歳にして父の業を嗣いで本業焼を営んだ。 明治初年地方に先がけて新製染付焼に転じ四室の丸窯を築き青燕脂などの新顔料を用ひ盛絵手法の新製品を出したり次々創意工夫を怠らなかった。 明治三十六年頃より石炭焼成の有利なのを知り独力を以て研究に着手同三十八年末自家に石炭窯を築いて焼成を試み失敗を重ね焼成法を会得瀬戸美濃地方の業者に呼びかけて築窯から焼成まで手をとって指導して回りその普及に努めた(以下略)」とある。建造は昭和31年7月1日、加藤唐九郎校・戸田紋平記とあるが、品野窯近代化に尽くした人物であった。

加藤新右衛門像
加藤新右衛門像
解説文

加藤景登翁碑

かとうかげとおうひ


瀬戸市藤四郎町
 瀬戸市の陶祖公園(瀬戸公園)には陶祖藤四郎の伝記を記した六角陶碑(市指定文化財)が建つ。碑の建設に尽力したのが山陶屋(屋号)の加藤清助景登であった。景登は幕末期の瀬戸村里正(庄屋)や陶業取締役を務め苗字帯刀を許された有力者で、明治17(1884)年2月に79歳で没している。
 景登の没後、瀬戸の恩人陶祖碑建設の主唱者加藤景登の顕彰碑建設が建議され、瀧藤萬治郎・川本留助ら28人の有志が資金を集め、製作を寺内信一(半月)に依頼した。半月が制作・図案・彫刻を担当し、焼成を加藤繁十窯の一間を使用した。高さ5尺、幅2尺、厚さ1尺の中空の陶碑は明治24(1891)年立派に完成した。ところが、同年10月28日の濃尾大震災で瀬戸70余窯が崩壊する災害が起こり、同碑もバラバラに壊れてしまった。セメントで接続し、陶祖碑の下に建設した(『尾張瀬戸・常滑陶瓷誌』)。
 「景登翁之碑」のさん額は勝間田稔、浅田申之撰とあり碑文の紀年は明治二十年己丑十月とあり、もしこの明治20(1887)年に竣工したとすると先の半月手記の明治24年完成とはタイムラグがある。

加藤民吉翁碑

かとうたみきちおうひ


瀬戸市窯神町 窯神神社
 窯神神社は、九州肥前で磁器製法を習い瀬戸に伝えて「磁祖」と崇められる加藤民吉を祀る。民吉が瀬戸に帰村したのは文化4(1807)年6月18日とされている。
 境内には「磁祖加藤民吉翁碑」を始め、「津金胤臣父子頌徳碑」、「加藤唐左衛門高景翁頌徳碑」など瀬戸新製焼(染付磁器)開発に尽力した人々の遺徳を偲ぶ碑類が建立されている。
 民吉像(青銅製)の前に立つ石碑(85cm角、高さ115cm、花崗岩製)には、四面に亘り1,117文字の民吉の事柄について印している。碑文の撰者は漢学者として名高い浅野哲夫(醒堂)、書は名古屋の書家大島徳太郎(君川)で、大正11(1922)年秋9月の紀年銘がある。
 なお、この石碑に並列してその左(西)側に全く同形・同規模の石碑も立つ、この石碑は後年民吉翁像建立の際に立てられたもので、永塚楽治撰、浅野金康書と1昭和12年秋9月の紀年銘がある。碑文の内容は「今日の殷賑大盛は民吉翁の導きに因る。像の鋳造を以て千載に伝える哉(大意)」(179文字)とあり、碑の背面に瀬戸市と瀬戸市の産業三団体が建之と記されている。

加藤民吉翁像

かとうたみきちおうひおうぞう


瀬瀬戸市窯神町 窯神神社
 窯神神社のシンボルとなっている加藤民吉像(青銅製)は、昭和12年に後日本芸術院会員となった加藤顕清の制作である。この年大規模な神社の改修事業が行われ、鳥居や石碑が建立された。民吉の九州修業を援助した「津金胤臣父子頌徳碑」は翌年建設された。
 加藤顕清は明治27(1894)年北海道で生まれた(幼名鬼頭太)。その後経済事情もあって父(岐阜県下石出身)の遠縁にあたる瀬戸の加藤丈一郎(瀬戸町会議員)を頼って来瀬する。小学校卒業後、その援助で東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫刻本科塑造部を卒業した。昭和3(1928)年の第9回帝展から3年連続特選となり、同7年からは母校の講師を嘱託されている。昭和12年の民吉像は加藤丈一郎らの依頼により制作、銅像竣工式は同年9月16日瀬戸物祭当日盛大に行われた。顕清の名はこの地方では一躍脚光をあびる存在となった。戦後古瀬戸町に「オリエンタルデコラティブ陶磁彫刻研究所」が発足すると再び来瀬、ノグチ・イサム、北川民次、沼田一雅らと芸術運動を展開している。瀬戸との関わりの深い彫刻家であった。
(『郷土に足跡を残した人々』)

今井校長之碑

いまいこうちょうのひ


瀬戸市岩屋町
瀬戸市域は教育熱心な風土性があり、多くの寺子屋と篤学者を生んでいる。
今井鎌三郎(かまさぶろう)は、明治元年(1868)6月8日西加茂郡寺部村(豊田市)に生まれたが、明治24年(1891)、愛知師範学校卒業と同時に下品野小学校訓導兼校長を拝命した。明治40年(1907)4月6日40歳で没するまで生涯を同校に奉職、『愛知縣偉人傳』には「世、鎌三郎を呼んで今ペス(ペスタロッチ)といふは其の崇高な人格、其の愛と至高の横溢した教育的生涯を賛美してかく呼ぶのである」とある。
「今井校長之碑」は岩屋堂公園の木陰に建ち(高さ196、幅88cm)、顕額は時の文部大臣小松原英太郎が、撰文は佐藤雲韶、書者大島徳太郎(君川)があたり、碑文は漢文体で記され、劣悪な教育状況を当局に掛け合って改善したこと、熱心に村民に就学を訴えて廻ったこと、自らは清貧に甘んじ節を曲げずに教育方法を改善したことなどが縷々述べられている。明治43年(1910)12月に教えを受けた下品野小学校校友会の手で建てられた。
現在もなお、遺徳を偲ぶ教育関係者の慰霊祭が行われている。

忠魂碑

ちゅうこんひ


瀬戸市仲切町
「町の中央中島にあり、砲弾形青銅碑にして高さ地上台石とも三十尺、明治二十七八戦役以来国家の為陣没せる忠魂義魄を合祀し毎月三月十日を以て祭事を行ふ。明治四十三年四月十九日陶祖祭の日を以て除幕式を挙行せり。」(『瀬戸町誌』)
最初は瀬戸川と一里塚川との合流点中島に西面して建てられ、裾を岩組みした高い土盛りの上に立っていたが、その後記念橋駅の地点へ移り東面した。それが更に現在のオチン山へ移転したのである。他は概ね石の記念碑が多い中で瀬戸は名古屋の記念碑に似た形式で立派と思う。日露戦争に従軍した水野甚蔵氏が戦友との約束に基き建設をされたものと聞いている(加藤庄三氏調査『金石林』)。正面に星印と「忠魂碑」と刻され、熱田兵器製造所製とある。八角型の石台(高さ151cm)と基壇(高さ97cm)が組まれ石工は大野木千次郎とある。
現在は御亭山に西面して石柵に囲まれ、狛犬一対(「日露三十年記念 昭和十年五月建之」と左右に献灯(「日露三十年記念 昭和十年七月建之」と6人の名前が刻される)が配置されている。その西側には昭和38年9月に建設された「殉国慰霊塔」が建っている。

忠魂碑
殉国慰霊塔

陶原小学校御大典記念陶碑

とうげんしようがっこうごたいてんきねんとうひ


瀬戸市原山町
瀬戸市立陶原小学校は瀬戸市内で最初に誕生した小学校である。明治6年(1873)宝泉寺内の寺子屋が陶原学校として創立、同25年(1892)に瀬戸町立瀬戸尋常小学校に校名改称(蔵所校舎)、さらに同36年(1902)に瀬戸第1尋常小学校と改称そして同41年(1907)から校舎の一部を大字森(現在の愛知県陶磁器工業協同組合敷地内)に移転した(陶原校舎時代)。
大正4年(1915)の御大典記念事業として行われたのが、当時の六鹿鹿三郎校長の立案で陶原校舎玄関前に「終始一誠意」記念碑(陶製)の建立であった。同年11月一日の除幕式で完成した碑は「まごころの塔」とか「御大典記念碑」と呼ばれた。
制作は窯業学校日野厚氏のデザイン、陶芸家加藤春二(陶寿)氏が当たった。菊花16弁の形状で黄瀬戸で施釉、正面の「終始一誠意」板(5寸×2尺1寸)の文字は浮彫3分高白釉、丸型校章48個が装飾に貼り付けられた。高さ135cmの塔碑と基盤、セメントの土台が大石を積み上げた上に建立された。
大正13年(1924)8月の豪雨で一部校舎の流失・破損もあって大字権現(熊野町)に移転(この頃は瀬戸陶原尋常高等小学校)、さらに昭和44年に現原山町に新築移転したが、この記念碑もまた移築されている。

陶原小学校御大典記念陶碑

 

伊藤九郎左衛門碑

いとうくろうざえもんひ


瀬戸市城屋敷町
今村慶昌院西の一角木立の中に「棒の手碑」と呼ばれる3基の石碑が建つ。
「伊藤九郎左衛門貞則碑」  明和三年(1766)丙戌孟春日
「横山幸右衛門重利碑」   文化三年(1806)丙寅季秋
「勝法先生之碑(横山幸吉)」 明治十三年(1880)庚辰年三月六嗚

旧今村地区は棒術(棒の手)が盛んで、特にその流派は検藤(けんとう)流・藤牧(ふじまき)流で、伊藤貞則の門人一千余人、その弟子と思われる横山幸右衛門重利の門弟八百余人、時代がやや下がるが勝法先生のあとを継ぐ者七百人余と碑文にあるから相当な隆盛が偲ばれる。
もともと愛知・春日井両郡は棒の手が盛んであったが、当石碑はその系譜を知る貴重な資料である。