新道町

しんどうちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字宮脇・刎田の一部。五代目の加藤偉兵衛町長は、宮前の神明橋より瀬戸公園の北岸を広げ新道町と名付け、公園より1丁目、2丁目、3丁目、4丁目とした。大正3年1丁目と2丁目を昔の八子田(開墾地、現在の刎田)に戻し3・4丁目は宮町としたが、現在の新道町となった。

熊野町

くまのちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字西犬塚・森の一部。町名は熊野神社があることによる。

上本町

かみほんまち


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは上水野の一部。江戸時代中期以降の村絵図には前山北斜面に新田島が描かれる。かつてこの地は、水野村地蔵島と呼ばれていたが、瀬戸市と合併する際、上水野町の中心地であったことから上本町としたといわれる。同59年一部が上松山町1~2丁目となる。
→地下軍需工場跡

蛭子町

えびすちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字上ノ切。明治17年頃まで、この地を通る赤津街道は足助方面へ通じる重要道路であったにもかかわらず、一里塚川には一枚の板橋しかなかった。そこで、その頃窯焼の文兵衛という人が当時商家や窯焼が10月20日に年一度の大振舞いをしていた恵比寿講をその年に限ってやめ、その費用で橋をかける策を考え、ここに橋が誕生したのである。そして、これが橋の名となり、後に町名に取り入れられたという。

川平町

かわひらちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは中水野の一部。名刹定光寺周辺は昭和44年定光寺自然休養林に指定された。昭和56年三沢町の一部を編入。
→大平山城

北浦町

きたうらちょう


昭和27年11月28日大字名を廃止し、町名を設定。もとは今の一部。1~4丁目がある。

川合町

かわいちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字一里塚。この地には一里塚川など三本の小川が合流するところから川合町と名付けられたといわれる。