笠原道

かさはらみち


定光寺街道(殿様街道)は定光寺からさらに東に延び、下半田川を通り美濃笠原村へとつながっており、下街道脇道とも呼ばれ、美濃側では下街道を経て中山道に通じていた。この道は笠原道と呼ばれ、古くは南側丘陵のより上方を通り、沓掛村・下半田川村の集落もこちらを中心に分布していたとも伝えられる。

新京橋

しんきょうばし


瀬戸川の十三橋と吉田橋の間に架かる橋で、平成5年(1993)11月1日に完成している。
親柱は御影石を台座にし、その前面を凹曲線にして柔らかさを表現するとともに、ワインレッドの磁器板を貼り、支柱にも同様の磁器板を取り付けている。

信州飯田街道

しんしゅういいだかいどう


名古屋城下から東方に向かう街道は、信州飯田へと向かう飯田街道と呼ばれ、三河の足助を通るルートがよく知られているが、名古屋大曽根で下街道から分かれ、瀬戸と東濃を経由するルートも信州飯田街道(「飯田街道」、「信州街道」、「品野街道」、「瀬戸街道」、「岩村街道」など、場所により様々な呼称があった。)と呼ばれていた。運送用の馬を継ぐ継馬も行われていたため中馬街道と後にいわれることもあった。
今村の北部を通り、追分で三州街道と分岐し、安戸坂を登って、下品野村の全宝寺から阿弥陀坂を下ると品野の町場に至る。上品野村を抜け、白岩村の坂瀬から上半田川村境の尾根道を通って雨沢峠に至り、柿野村(現土岐市)を経由して東濃・伊那路へと通じている。
白岩村の入口の辻から北へ急崖を一気に登るが、これを坂瀬(三ケ瀬)坂といい、街道中最大の難所であったようである。信州からは薪・割木・炭などの林産物、城下からは塩や雑貨、それに品野・瀬戸の窯業原材料や製品が運搬された。これらの荷駄は馬の背に振り分けて積み、数頭の馬を繋いで運ぶ輸送はコンダウマ(小荷駄馬)といわれ、一人の馬方で付通しで運ぶ場合と、運送圏を分割するチュンマ(継馬)とがあった。道中の道すがら馬方が口ずさむ馬子唄に「新居の松原、品野のなわて、さがせの大坂なけなよい」という唄が残っている。坂瀬(三ケ瀬)坂は美濃の大馬渡と共に馬泣かせの地であったようである。

神明橋

しんめいばし


大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められ、神明橋も昭和2年(1927)にできた。
現在は橋も拡幅され、昭和61年(1986)4月には、1000年余の長い歴史と輝かしい伝統に培われたやきもののまち「瀬戸」にふさわしい景観の整備、シンボル作りのため「やきものを使った街づくり事業」の一つとして、欄干改築工事が竣工した。瀬戸クラフト協会のデザインで瀬戸の「陶土山」をイメージしたもので、稜線にあたる部分は染め付けのモザイクタイルで表現し、陶土の部分は量感のある陶器で表現されている。また、親柱と小柱は御影石のたたき仕上げとなっている。

神明橋

山口道

やまぐちみち


名古屋城下の東の玄関口であった出来町から瀬戸の山口方面に向かう街道を三州街道といった。本道は森孝新田(名古屋市名東区)の四軒家を南東に下るが、そのまま東進して本地ヶ原を横切るのが山口道(山口街道)である。山口道は本地を過ぎ、菱野でまず、北の瀬戸三州小原道を分け、さらに進むと山口川の南北に分かれる。川北の道は三州小原道に合流し、川南の道は三州広見道、三州八草道に合流していた。

山口道

瀬戸の橋全般

せとのはしぜんぱん


いくつもの川が街を流れ、人々の暮らしと共に川がある街瀬戸。そこにはやきものによる装飾が施された橋が架けられています。やきものの街ならではのその風情に道行く人の心も和みます。公園橋、宮前橋、宮脇橋、吉田橋、今村橋……。さまざまな技法を使い、それぞれに意匠を凝らした欄干は、二つとして同じものはなく、時を重ねるごとに落ち着いた風合いを増していきます。川の向こうとこちらをつなぐだけでなく、人と人、人とやきものを結ぶ架け橋として整備した。

巡見道

じゅんけんどう


近世の頃、徳川将軍が代替わりするたびに諸国に遣わされた巡見使が通ったことから名づけられた街道。巡見使は武士や農民の暮らしぶりから政治や軍備、商工業の様子、さらには領主の人柄まで見聞していった。名古屋城下を発った巡見使の一行は、出来町東の三州街道を取り、長久手市岩作の東ノ切で北の本地道を通り、稲葉・新居(尾張旭市)を経て犬山城下に向かった。小坂を通る道は寛政5年(1793)の「本地村絵図」に「御国巡見道」と記されている。

坂上町巡見道沿い小社
巡見道

陶原歩道橋

とうげんほどうきょう


愛知県陶磁器工業協同組合の建物(愛陶工会館)前に架かる人道橋で、瀬戸川文化プロムナード整備事業の一環として、平成6年(1994)5月22日に「ふれあい大陶壁」とともに完成した。
橋梁上部全体をやきものタイルで装飾し、周辺景観と整合した明るいイメージでデザインしている。

陶原歩道橋

瀬戸街道

せとかいどう


名古屋大曽根で下街道から分かれ、瀬戸と東濃を経由するルートも信州飯田街道と呼ばれていたが、追分までのこの街道は、名古屋側から他の瀬戸へ通じる道と同様、瀬戸街道とも呼ばれており、今日の県道をそう呼ぶおこりともなった。
現在呼ばれる瀬戸街道は、昭和初期に幅員8間(約15m)の道路が新設され、当時、八間道路というのは画期的なもので、人々を驚かせた道路である。昭和14年(1939)頃から隣りの旭町で、県道名古屋・瀬戸線の改修のための土地買収がはじまり、昭和12年末には共栄橋が改築され、昭和18年末に名古屋・瀬戸線の路線変更が行われ、共栄橋~八間道路が県道となった。昭和31年(1956)4月から、県道、主要地方道名古屋瀬戸線と改称され、今日にいたる。

八間道路

はちけんどうろ


通称、八間道路というのは三菱UFJ銀行瀬戸支店前から陶原町を経て市役所前辻以西、共栄通りのことであった。それが後に瀬戸市から尾張旭市-名古屋市守山区-矢田への重要道路となり、この沿道の両側は殆ど街なみがつづいている。
大正14年(1925)の大水害で、県道名古屋瀬戸線の瀬戸駅付近と今村付近の瀬戸川南岸堤防がくずれた。この災害によって新しい道路の建設運動が今村でおこり、耕地整理で将来の瀬戸地方の発展を考慮に入れて計画したのが八間道路。昭和のはじめには、まず現在の市役所前付近から共栄橋までの間が完成した。

八間道路(共栄通5丁目付近)
八間道路(共栄通5丁目付近)