泉崎 三郎

いずみさき さぶろう


昭和9年(1934)5月2日 市長に就任
昭和12年(1937)4月30日 退任
小出市長退任以来稲葉市長時代まで続いた市政の混乱に、一応の終止符をうったのが第三代市長に就任したのが泉崎三郎である。泉崎市長は北海道小樽の出身で、香川県官吏や熊本県で郡長を歴任した後、大正12年(1923)以降は朝鮮総督府事務官として植民地行政に携わってきた。瀬戸市とはやや縁の遠い人物が市長に就いた背景には、県知事の市長選考への介入を無視することができない。
泉崎市長時代は、景気と財政の回復が軌道に乗る時期でもあり、瀬戸の経済は陶磁器の輸出が伸び、比較的早期に恐慌を脱することに成功し、これに伴い市の財政も好転し始めている。道路行政に力を注ぐほか、教育や社会事業が拡充された。その外にも小出市長より引き継がれた赤津補助水源分の工事を完成して上水道を軌道に乗せたこと、瀬戸都市計画道路の決定がみられる。
退任した後、次の古村貢三郎市長が就任するまで、9か月にわたって市長不在の期間ができる。その間、昭和12年(1937)7月に盧溝橋事件が発生し、日本は日中戦争に突入する。

稲葉 俊太郎

いなば しゅんたろう


昭和8年(1933)9月22日 市長に就任
昭和9年(1934)3月7日 退任
上水道慰労金問題が紛糾し小出市長が辞任すると、瀬戸市政はしばらく市長不在のまま混乱を極めた。市会が二つに分かれてにらみ合いとなり、市長の選出についても1か月以上の空白が続いたが、こうしたなかで稲葉俊太郎が第二代市長に就任した。稲葉市長は明治15年(1882)佐賀県に生まれ、東大卒業後、広島県警などを振り出しに、青島守備軍民生部事務官や関東庁警務官などを経たあと、もっぱら各県の警察畑を歩いてきた人物で、愛知県内務部長をつとめた縁もあり、瀬戸市に迎えられた。
稲葉市政の業績としては、小出市長時代からの瀬戸少年院の誘致や瀬戸市少年保護協会の設立が挙げられる。瀬戸少年院は小出市長時代から誘致が始められ、開設は稲葉市長が退任した後となるが、開設に至るまでの準備はこの稲葉市長の時代におこなわれており、また瀬戸市少年保護協会の会長に就任している。
市会の改選の結果、改めて稲葉市長と対立する側が多数を占めると、市長が提出した翌年度の予算案の返上案が可決された。このため稲葉市長はその日に辞表を提出、就任半年足らずで職から降りることになった。

小出 釟三

こいで はつぞう


昭和4年(1929)10月1日 市長に就任
昭和8年(1933)7月14日 退任
瀬戸町では、昭和2年(1927)5月11日、東京に転出した平田富資町長に代わって、あらたに小出釟三町長が登場した。小出町長は、この年から市制施行後も引き続き市長として通算6年間、町政~市政を担うことになる。
小出市長は、明治18年(1885)生まれで、日露戦後の明治39年(1906)名古屋市の書記となり上水道敷設に手腕を振るった。その後、名古屋市長臨時代理者や愛知県農工銀行の経営に従事した後、瀬戸町長に就任したのである。
小出町長時代には、平田町長より引き継がれた「市制の実施」が最も重要なものであった。教育面では深川尋常高等小学校の校舎建築や陶原・效範尋常小学校両校の移転改築事業が進められた。岡多線の鉄道敷設法予定線への編入が行われ、関係市町村とともにその敷設促進のための運動が開始されたのも小出町長の時代である。
小出町政・市政は、上水道問題をもってはじまり、これによって幕を閉じたといっても過言ではなかった。瀬戸町長に就任すると、馬ヶ城の地にダムを建設するための諸手続きを行い敷設認可を受けた。市制施行後に再認可を受けたが工事の実施計画段階で水源として狭小であることが分かり、補助水源として白坂(赤津川)および山路(山路川)をあてるという計画が浮上した。しかし、灌漑用水として利用してきた流域住民が猛烈な反対運動をおこなった。そこで、実施計画を二つに分け、馬ヶ城を水源とする貯水池堰堤、濾過池、配水池、送水線路等の敷設工事を先に実施し、昭和8年(1933)年12月大体の竣工を見て通水を開始した。小出市長は、この途中に上水道慰労金問題を取り沙汰され、退任のやむなきにいたっている。

加藤 庄右

かとう しょうう


平成23年(2011)7月12日 名誉市民に推挙
昭和2年(1927)6月9日 生
平成23年(2011)7月21日 没
瀬戸商工会議所の会頭などの要職を歴任し、経済活動の牽引役として地域経済の発展に尽力、また「愛・地球博」推進、成功に向けた市民レベルでの活動など、地域の活性化に大きく貢献された。

昭和2年(1927)瀬戸市に生まれる。昭和27年(1952)に瀬戸信用金庫に入庫し、昭和58年(1983)には理事長、平成5年(1993)から平成12年(2000)まで会長を務めた。また、昭和58年(1983)から商工会議所の副会頭、平成6年(1994)から会頭として20年余の長きにわたり同会議所を支え、平成16年(2004)からは名誉会頭として、地域経済の発展に尽力した。また、2005年日本国際博覧会「愛・地球博」の開催にあたっては、開催決定前の誘致活動及び開催決定後の準備活動において、市民及び地域が一体となってこれらの取り組みを支え、同博覧会の成功に寄与した。さらに、平成6年(1994)から10年余にわたり、瀬戸市都市計画審議会の会長として本市の都市計画づくりに尽力した。平成4年(1992)黄綬褒章、平成9年(1997)勲四等瑞宝章受章。平成23年(2011)7月12日に名誉市民に推挙された。

長江 録弥

ながえ ろくや


平成10年(1998)4月20日 名誉市民に推挙
大正15年(1926)1月2日 生
平成17年(2005)4月6日 没
 平成7年(1995)に斬界の権威である日本芸術院会員となり、日本を代表する彫刻家として活躍され、本市の芸術文化の向上発展に大きく貢献された。

大正15年(1926)本市の上品野町に生まれる。幼少の頃から絵を描くことが好きで次第に芸術に関心を持つようになり、多摩美術大学彫刻科で学んだ。卒業後の昭和23年(1948)に日展初入選、昭和39年(1964)、40年(1965)には連続して日展特選を受賞するなど、若くしてその作品は高く評価されていく。以後独自の作風を確立していき、その芸術活動が認められ、平成3年(1991)に日本芸術院賞を受賞、平成7年(1995)には日本芸術院会員に就任する。
長江録爾の彫刻は、旧来の枠にとらわれない人間性の表現をテーマとして、歴史上の人物、信仰に傾注する聖人たちの姿、自身の体験などをモチーフに、常に心理を探求しながら優れた洞察力や想像力をもって具現化された作品である。なかでも乾漆の作品は、古来からの技法を再確立されたもので代表的な技法となっている。平成17年(2005)叙従四位。平成10年(1998)瀬戸市名誉市民に推挙された。平成11年(1999)紺綬褒章、平成12年(2000)勲三等瑞宝章受章。
尾張瀬戸駅駅前広場をはじめ、下品野小学校、品野台小学校、瀬戸蔵、新世紀工芸館など公共空間に作品が設置されている。

早稲田柳右衛門

わせだ りゅうえもん


昭和53年(1978)4月12日 名誉市民に推挙
明治33年(1900)2月25日 生
昭和59年(1984)4月15日 没
 昭和4年(1929)に市議会議員となり、昭和21年(1946)から衆議院議員として30有余年の長きにわたり、終始一貫地域の発展と国政の振興に全力で傾注された。

昭和4年(1929)、瀬戸市議会議員に当選以来通算3期12年余、昭和21年(1946)衆議院議員に当選以来連続12期20年余、半世紀以上、戦前戦後を通した政治生活は、中央はもとより中部各地、愛知県下そして瀬戸市、小牧市と、広範多岐にわたって数々の足跡を残した。
特に中小企業問題に並々ならぬ熱意を燃やし、昭和14年(1939)には商業組合を結集し、瀬戸商業組合連合協議会設立に奔走した。戦後は敗戦による経済混乱に対処し、日本経済団体連合会、商工組合中央会、日本度量衡協会、日本治山治水協会等各種団体の役員を歴任、日本再建に努力するとともに、瀬戸市においては昭和22年(1947)瀬戸商工会議所の設立と同時に初代会頭に就任、商工業の振興に大いに手腕を発揮した。
昭和21年衆議院議員に当選されて以来国政の枢機に参画し、その間郵政政務次官をはじめ財政及び金融、図書館運営、商工、懲罰の各委員長、さらに各種重法案委員会常任委員及び特別委員会の理事、委員としてその職務に精励され、平和国家の建設と民主政治の進展に尽くした。地方にあっては、治山治水事業の推進、伊勢湾台風の災害復旧、愛知用水及び名古屋空港の整備拡充をはじめとした数々の政策を推進した。瀬戸市にあっては、戦後最大の課題であった旧東京大学演習林の払い下げ及び国鉄岡多線瀬戸線の早期敷設について多大な尽力があった。
昭和45年(1970)に勲一等瑞宝章。昭和50年(1975)勲一等旭日大授章を親授される。また、昭和53年(1978)瀬戸市並びに小牧市の名誉市民に推挙された。

二宮恵一

にのみや けいいち


昭和51年(1976)8月3日 名誉市民に推挙
明治35年(1902)5月25日 生
昭和51年(1976)8月4日 没
 公立陶生病院の院長及び名誉院長として40年の長きにわたり、終始一貫地域医療の充実と振興に献身的な努力をささげられた。

昭和4年(1929)現在の名古屋大学医学部の前身である愛知医科大学を卒業する。「経腸チフスの経口免疫に関する実験的研究」で学位を授与される。昭和11年(1936)陶生病院初代院長に就任し、病院の基盤整備の為に心血を注いだ。市内にあった避病院と称する伝染病院を陶生病院に併設し、また優秀な看護婦を養成するため看護婦養成所に続いて附属准看護学院、高等看護学院を創設し、陶生病院が当地方医療の中心的存在に発展することに多大な貢献をした。昭和45年(1970)陶生病院名誉院長の職についた。また、医療関係のみではなく社会福祉にもその識見と誠意を注ぎ込み、瀬戸日赤募金委員長、愛知県共同募金会瀬戸支会長等として活躍した。昭和47年(1972)勲三等瑞宝章受章、昭和51年(1976)叙従四位。昭和51年(1976)瀬戸市名誉市民に推挙された。

加藤 繁太郎

かとう しげたろう


昭和63年(1988)5月26日 名誉市民に推挙
大正6年(1917)6月18日 生
平成18年(2006)2月19日 没
 昭和38年(1963)に市長に初当選以来24年間にわたり、市政の発展と市民の福祉向上に献身的な努力をささげられた。

昭和13年(1938)に当時の名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学)を卒業後、直ちに家業の山繁合名会社を継ぎ、事業の発展にたゆまない努力を傾ける一方、青年実業家としての優れた才能とその円満な人柄は産業界においても大きな信頼を集めている。昭和22年(1947)には弱冠29歳で瀬戸陶磁器商業協同組合の理事長に就任し、更に同年瀬戸商工会議所の設立と同時に副会頭の要職に就いた。昭和32年(1957)には瀬戸輸出陶磁器完成工業組合の初代理事長に就任した。こうした実績のもと、昭和38年(1963)に瀬戸市長に初当選依頼、連続6期24年間にわたって市政を担当した。その間、本市発展の積年の夢ともいえる市域を分断する東京大学演習林の払い下げに伴う開発事業に取り組み、水野住宅団地の開発、総合運動公園としての市民公園の開発整備、水野準工団地の開発事業をはじめとして、教育施設、上下水道の整備充実、市場の統合整備、墓苑の造成、じん芥焼却場の建設、福祉施設の整備、文化センターの建設、公立陶生病院の改築、東公園、南公園の開発整備など厳しい財政事情の中、山積する大事業を積極的に推進し、行政水準の確保と市政全般にわたる均衡ある発展のため、献身的な努力をした。また、国の施設である中小企業大学校の建設誘致及び県の手による労働者研修セツター、穴田企業団地・暁工業団地、菱野団地、陶磁資料館、窯業訓練校、窯業技術センターの建設誘致など積極的な誘致推進に努め、地域の発展に多大な貢献をした。
また、愛知県市長会長、東海市長会長、そして全国市長会副会長をはじめとする各種団体の役員として地方行政の発展充実にも寄与した。
昭和58年(1983)藍綬褒章受章、昭和63年(1988)紺綬褒章受章、同年多年にわたり瀬戸市政の発展に尽くした功績により勲三等旭日中綬章を受章、瀬戸市より名誉市民に推挙された。

加藤 勝野

かとう かつの


昭和39年(1964)10月1日 名誉市民に推挙
明治21年(1888)9月8日生
昭和40年(1965)11月27日 没
 昭和14年(1939)愛知縣方面委員を拝命以来、24年間にわたり、終始一貫地域社会の福祉、民生安定、児童福祉等の増進に尽くされた。

明治21年(1888)岐阜県の商家に生れる。名古屋の英和中学(現在の名中)に学び、瀬戸第一尋常小学校に7年勤める。その後大正2年(1912)より窯業原料売買を主業務とした勝野窯業原料株式会社を営む。昭和14年(1939)愛知縣方面委員になったのが奉仕事業への第一歩であり、以後没するまでの長期に渡り社会福祉事業に尽力した。民生児童委員、愛知県共同募金会瀬戸支会長、瀬戸市社会福祉協議会長を歴任した。その間、昭和35年(1960)に紺綬褒章、同年藍綬褒章を受章、さらに昭和39年(1964)社会の福祉と民生安定に尽力した功績をたたえられ瀬戸市名誉市民に選ばれた。

加藤 章

かとう あきら


昭和38年(1963)10月1日 名誉市民に推挙
明治27年(1894)1月19日 生
昭和50年(1975)7月3日 没
 昭和8年(1933)市議会議員となり、昭和21年(1946)から市長として30有余年の長きにわたり、本市市政振興のため全力を傾注された。

 生家は磁祖の末孫といわれ、明治27年(1894)に生まれる。昭和8年(1933)の市議会議員の選挙に推されて当選して後、絶対多数の民政派議員をよく統率し、常に少数の政友会をリードして着実に市政の政策を実現していき3期を務めあげた。
加藤章市長は終戦直後の昭和21年(1946)1月、間接選挙最後の市長に選挙され地方自治法の改正による市長公選制度で自然退職となり、さらに公選初めての市長選挙に無投票で当選となり、第七代市長として就任した。翌年の新憲法発布記念事業として、総合運動場建設、公民館の建設、郷土史の編纂事業の三つの計画をたてている。政府による市町村の合理化方針により、昭和26年(1951)に水野村の合併、昭和30年(1955)には幡山村、そして昭和34年(1959)に品野町が合併編入され、今日の瀬戸市の市域が形作られることとなる。昭和38年(1963)まで4期16年間瀬戸市政を担当し、文字通り戦後の一連の民主改革と市民生活の復興期の市政に全力を尽くした市長であった。市長を辞任した同年10月の市制記念日に「名誉市民」が贈られている。昭和40年(1965)勲四等瑞宝章受章。昭和50年(1975)叙従五位。