鹿乗橋

かのりばし


瀬戸市鹿乗町~春日井市高蔵寺町2に架橋
旧下水野村入尾(鹿乗町)と対岸玉野村(春日井)の間には玉野川(庄内川)が流れ、現在の鹿乗橋のやや下流を「モトハシバ」といい簡単な板橋が架かっていた。昔は渓谷美あふれた景勝地で文人墨客が遊ぶ「白鹿館」や「三宅邸」などの瀟洒な料亭が在った。
明治43(1910)年に鉄のアーチ橋が架けられた。明治期に架設された13橋の鋼アーチ橋の一つで現存するものが殆ど無い貴重なものである。昭和23(1948)年に元橋を骨組にしてコンクリートを巻いた、要するに鉄骨鉄筋コンクリートの橋に造り替えた。その時斜材(ラチス)を撤去しており、現在は垂直材のみとなっている。その際の工事について銘板に「架設後四十年以上になり、鉄骨が腐食し、強度が半分の五十五%までに低下した。そのため、鉄筋コンクリートにて被覆し補強した」とあり、工事は愛知県直営で行われた。景勝地の橋であったために、橋面上に構造部材が突出していない上路式のアーチタイプにしたこともうなずける。(『保存情報Ⅰ』)

鹿乗橋

瀬戸六作・十作

せとろくさく・じゅっさく


瀬戸六作とは、永禄六(1563)年に織田信長によって選ばれた瀬戸の名工6名のこと。瀬戸十作とは、天正十三(1585)年に古田織部によって選ばれた瀬戸の名工10名のこと。

『をはりの花』に世人の瀬戸六作と称するは永禄六年(1563)織田信長瀬戸に来りて六人の名工を撰ししものにして、各製品には左の印款を刻すとして記載する。
加藤宗右衛門 春永と号す (鍵印)  加藤長十 (松葉印)
俊白 一に宗伯      (丸印)  新兵衛  (丁印)
加藤市左衛門 春厚と号す (角印)  加藤茂右衛門 徳庵と号す (十印)
さらに、世人の瀬戸十作と称すは天正十三年(1585)古田織部正重然(一に重勝)瀬戸に来りて十人の名工を撰ししものにして各製品に左の印款せり
元蔵 (一) 丈八 (イ)  友十(丸一) 六兵衛(セ) 佐助(蕨)
半七 (七) 金九郎(丸十) 治兵衛(サ) 八郎次(カ) 吉右衛門(山)

 また、『尾張名所図会』中の六作十作の事に、「永禄六年信長公国中巡覧の節、瀬戸名家六作といえるを定めたまう。また天正十三年古田織部正重勝名家十作といえるを定められる。其名印ども左の如し。六作のうち市左衛門の子孫、今の加藤清助なり、吉左衛門・民吉・唐左衛門等みな清助の別家なり」とある。

夕日窯

ゆうひがま


『をはりの花』の瀬戸古窯の名称の中に朝日窯、夕日窯など30あまりの窯名が記載されているが、その他の詳しい説明はない。
 瀬戸の郷シマの経塚山に瀬戸川を挟んで相対する庚申山(幕末に春慶翁碑が建設されて藤四郎山、藤四郎公園と呼称されるようになった)があり、いつの頃からか、経塚山の朝日窯に対し夕日窯と呼ばれるようになった。ここには春慶が退隠して住んだ禅長庵が在ったということで、藤四郎窯跡ともいわれてきた。
 瀬戸市の遺跡詳細分布調査によれば、この藤四郎公園(瀬戸公園)内には石段登り口左に、夕日窯2基その上段に日影窯、上段の東斜面に夕日3号・同4号窯が分布している。窯跡はいずれも滅失しているが、夕日窯は16世紀代、夕日3・4号窯はいずれも19世紀代の施釉陶の物原を残している。

朝日窯

あさひがま


『尾張名所図会』や『をはりの花』の中に瀬戸古窯の名称として記載されている。名所図会には、「古窯跡 同(瀬戸)村の山林馬ケ城をはじめ所々にあり、其の内藤四郎窯といひ傳ふるは、椿窯、峯出が根窯、守宮窯、朝日窯(以下略) 又源氏窯にて飛鳥川の茶入を焼き、朝日窯にて焼きし茶入を朝日春慶と称す」とある。
 瀬戸は瀬戸川の谷に成立した町だが、左岸(南側)は谷奥から洞・郷・南新谷と順次シマが開けた。郷の中心に小高い山があり、古くは経塚山・城見山と呼ばれ、大正時代に八十八ヵ所霊場が開かれて弘法山とも愛称されるようになった。この山稜東斜面に北から経塚山東・朝日下・朝日古窯跡と3基が分布している。この内朝日・朝日下窯跡はいずれも窯跡は滅失するが15~16世紀代の施釉陶器が出土する。経塚山東窯はその西に位置する経塚山西古窯跡とともに、明和七年(1770)に川本治兵衛・同半助らによって再興された地方文書が残された窯跡である。

かみた古窯跡群

かみたこようせきぐん


瀬戸市下半田川町
 かつての国道248号線は蛇ヶ洞川に沿って山峡を通っていたが、昭和49年に上半田川地区と下半田川を直線状に結ぶバイパス工事が計画された。事前調査でかみた(上田)の丘陵中腹(標高150m)の地点2ヶ所に窯跡が確認され発掘調査が実施された。
 1号窯は窯体下部がすでに流失していたが、上部の7室が残存した。残存する窯室の長さは約10m、幅は下方で4.6m、最上室で5.4mと上方に拡大する。縦狭間構造を持ち、粘土の円柱やエンゴロを用いた狭間柱は広いところで14本が確認された。窯室への出入り口は右側にあった。
 2号窯はその西約30mの南西斜面に構築されていたが、煙道部(残存長約3.5×幅5.8m)が残存、エンゴロ積みによる狭間柱は15本確認されたにすぎない。
 出土遺物は、1号窯では丸碗・柳茶碗・鉄釉湯呑・灯明皿・徳利類などがあり、2号窯は1号窯に連続する陶器類が下層に、中・上層からは広東茶碗・丸碗・染付皿・染付鉢・湯呑などの染付製品が主体であった。このことから、操業期間は1号窯が18世紀後半代、2号窯は19世紀前・中葉と推定される。

尾呂古窯跡群

おろこようせきぐん


瀬戸市下半田川町
 尾呂窯は瀬戸市下半田川町の北端丘陵地に在る。その創業に関する記録が全く無いことから、戦前加藤唐九郎氏により「隠れ窯」と喧伝され、戦後の「尾呂茶碗」「尾呂徳利」などを求めた盗掘で大破壊を受けてしまった。
 昭和59年7月、ゴルフ場造成に伴う大規模な緊急発掘調査が実施されることになり、中世山茶碗窯である半ノ木古窯跡群(約17基)中の2基、近世連房式登窯である尾呂古窯跡群(6基)が昭和61年12月まで3次にわたって調査が行われた。
 比較的遺構がよく残っていた1号窯は6基中の東端に位置し、標高126~129m、30度前後の傾斜地の南斜面に立地する。全長18.2m、焼成室の最大幅170(1室)~380cm(11室)、奥行40(1室)~110cm(12室)、燃焼室(胴木間)と14連房の焼成室をもつ登窯であった。天井壁・側壁・奥壁など地上部の窯体は全て消滅していたが、狭間は粘土を詰めた匣鉢を重ねて周りを粘土で貼り付けており、狭間孔は各室6~9個で全て縦狭間構造で作られていた。出入り口は左側(6室のみ右側)であった。3回にわたって改造(4時期)された跡があった。
 尾呂窯初期の焼造品(天目茶碗・銭甕・香炉など)には瀬戸系要素(赤津瓶子窯などとの類似性)が認められ、その後の焼成品の特徴は笠原鉢など隣接する美濃窯との類似性が強くなっている。創業年代は器種構成、型式上の特徴から17世紀第4四半期から18世紀前葉あたりにかけて創業したものと考えられ、その最盛期は18世紀初頭に求めることができる。
 窯跡は調査終了後埋め戻され、現在は9番ホールティグランド横の斜面に保存されている。
(瀬戸市埋蔵文化財センター 「尾呂」)

穴田古窯跡群

あなだこようせきぐん


瀬戸市穴田町
 穴田古窯跡群は旧上水野釜ノ洞に所在する。水野川の左岸(南側)の丘陵で西に開析された小支谷を利用して築窯された4基の連房式登窯によって構成されている。その内、第1号窯(昭和53年)・第2号窯(同54年)が瀬戸市史編纂のために発掘調査された。この調査で出土した遺物には、天目茶碗や丸碗、志野皿などの製品のほか、定光寺源敬公廟の焼香殿敷瓦や名古屋城二の丸庭園跡出土の花壇仕切り瓦などと類似のものが含まれており、尾張藩との関係の深さを示している。
 第1号窯は約24度の北斜面を利用して築窯、残存する窯の全長(水平投影)は14.7m、10段連房の登窯である。燃焼室に続く第1室は幅1.5×奥行0.9m、第10室は幅2.5×奥行1.6mと上段程窯室が拡大する。窯詰め、窯出しなどの出入り口は向かって左側に設けられており、右側壁は恒久施設となっていた。さらに第5室から上段には左右に天井壁を支える支柱が建てられた。各焼成室は有段連房の縦狭間構造となっている。最上段の第11室は稜線で床面が奥行85cmを残して流失して煙り出し施設(本業窯ではコクドと呼ぶ)の構造は不明であった。
 第2号窯は1号窯の西約30m離れて扇状に築かれていて、前庭部に続く物原を共有している。予備調査の段階から床面が露出してかなり破壊が進んでいたが、自然風化と共に、戦中・戦後の物不足時代に窯材を利用するために人為的にも破壊されたようである。2号窯の燃焼室および壁面が石積みで、しかも巨大な分炎柱を有するなど大窯様式を残す特異な構造である。少なくとも3~4回の改造が行われ、一次窯は全長18m、12の焼成室からなる床面傾斜20度前後の無段連房斜め狭間で、各焼成室の幅3.0×奥行1.6m前後、6~8本の狭間柱を有した。
 これらの窯は寛文七年(1667)前後に御林方奉行所の役人屋敷を設けるにあたり、4軒の窯屋を他に移転させたとの地方文書が残されている。操業下限を知る貴重な窯跡でもある。

月山古窯跡

つきやまこようせき


瀬戸市定光寺町
 旧沓掛村の古刹定光寺の山門正面に標高167mの小丘陵「檜山」(江戸時代の村絵図には「筑山」とある)の南斜面に窯は在る。昭和58年に市史編纂のための発掘調査が行われた。昭和34年の伊勢湾台風により窯体の大部分が流出してしまい、58年の発掘調査では、焼成室床面の一部が残存するのみであった。残存する焼成室の床面の幅は下端で最大の3.3m、上端で最小の1.65mであった。床面の傾斜は35度前後とかなり急傾斜である。天井支柱の痕跡も2本認められた。
 灰原は極めて残りが良く、最大で2m厚の堆積が確認された。出土遺物には各種碗類、皿類、徳利、擂鉢、建水、水指などがあり、月山窯は16世紀後半に創業された大窯成熟期の窯であることが判明した。この時期の大窯製品の特色としては、天目茶碗・茶入・建水など茶陶類が卓越することで、月山窯でもこうした器種が大量に出土している。
(参考文献 「瀬戸市史・陶磁史篇四」)

昔田窯跡

むかしだかまあと


瀬戸市穴田町
 室町時代後半になると、瀬戸窯はそれまでの地下式の「窖窯」から半地上式の「大窯」へと窯構造が変化する。この大窯は窖窯と同じく焼成室が単室であるが、地上式になることのよって天井壁が高くなり、窖窯に比べて容積が大きくなる。現在、瀬戸市内に確認された大窯は24基にのぼる。
 昔田窯跡は上水野地区穴田町の水野川右岸(北側)丘陵地裾野に所在し、昭和43年に大窯としては最初の学術調査発掘された窯跡である。調査によって、窯体は全長8m、焚口と焼成室の間には分炎柱の奥に段を作り、その手前に小分炎柱を並べまさに「格子間」を設けている。さらに焼成室の高い天井を支える窯支柱が3本建てられ、床や焼成室下段には平らな石を使用している。これらは従来の窖窯には見られない大窯独特の構造であり、容量の増加に対応するためにより効率良く燃焼するなどの工夫や窯炉の改善であると考えられる。出土品は古瀬戸後期様式の器形に加え、丸碗・印花小皿・徳利・花入れなどが新たに焼かれ、さらに天目茶碗・擂鉢などは新しいタイプのものが出土している。本窯は、瀬戸・美濃を通じて最古の大窯といわれており、16世紀前葉に編年されている。出土品は天目茶碗・小皿類・擂鉢を中心に徳利や花入れなどがみられ、16世紀前葉に編年されている。
 この他、平成15年に行われた試掘調査では、新たに典型的な窖窯構造の窯体と、窖窯と大窯の過渡的な形態をもつ窯体が検出され、同一斜面で窖窯末期から大窯への変遷が確認できる貴重な事例となった。

小田妻古窯跡群

おだづまこようせきぐん


瀬戸市本郷町・はぎの台2
 中水野の本郷・小田妻地区は水野川左岸(南側)に在って標高100m前後のゆるやかな水野丘陵が展開している。昭和40年代に入って、東の穴田丘陵地の穴田企業団地造成、上水野南部丘陵地の水野準工業団地造成などが発表され、小田妻地区でも大規模な住宅団地(面積約90万㎡)の造成が始まった。地域内には小田妻古窯跡群の所在が確認されており、昭和42年7月より瀬戸市教職員考土サークルによる緊急調査発掘が行われた。第1号窯(13世紀・山茶碗窯)・3号窯(山茶碗窯・滅失)・6号窯(12世紀・均質手)と山茶碗・四耳壺・銭貨などが出土した中世の祭祀遺跡が明らかにされた。
 さらに、昭和58年に水野団地の西側の丘陵地約46haに住宅都市整備公団による水野特定土地区画整備事業が計画され、愛知県埋蔵文化財センターによる確認調査と平成元年からの事前発掘調査が実施された。その結果、山茶碗などを焼成した窯体6基(小田妻2・4・5・7~9号窯)、掘りかけの窯2基、工房跡1ヶ所、炭焼き窯1基を検出した。全体に窯体の残存状況は良好で、いずれも分炎柱を有する窖窯で長さは10m前後であるが、焼成室の最大幅は3mを超える大型のものが多かった。何故か2基の掘りかけの窯が検出されたがその築窯方法を知る手がかりに、楕円形プランの炭焼き窯や工房跡のカマド・ロクロピットなどは生活を知る資料となった。遺物は山茶碗が中心であったが、それらに混じって陶錘や陶丸、施釉陶器である灰釉四耳壺が出土している。焼成品は全て13世紀代のものであるが、灰層の最下層からは12世紀にさかのぼる可能性のある胎土の清良な山茶碗や火舎形香炉も出土している。生産品以外では窯体の前庭部や工房跡などから土師器鍋・釜がかなり出土している。
(県埋蔵文化財センター「小田妻古窯跡群」)