尾呂古窯跡群

おろこようせきぐん


瀬戸市下半田川町
 尾呂窯は瀬戸市下半田川町の北端丘陵地に在る。その創業に関する記録が全く無いことから、戦前加藤唐九郎氏により「隠れ窯」と喧伝され、戦後の「尾呂茶碗」「尾呂徳利」などを求めた盗掘で大破壊を受けてしまった。
 昭和59年7月、ゴルフ場造成に伴う大規模な緊急発掘調査が実施されることになり、中世山茶碗窯である半ノ木古窯跡群(約17基)中の2基、近世連房式登窯である尾呂古窯跡群(6基)が昭和61年12月まで3次にわたって調査が行われた。
 比較的遺構がよく残っていた1号窯は6基中の東端に位置し、標高126~129m、30度前後の傾斜地の南斜面に立地する。全長18.2m、焼成室の最大幅170(1室)~380cm(11室)、奥行40(1室)~110cm(12室)、燃焼室(胴木間)と14連房の焼成室をもつ登窯であった。天井壁・側壁・奥壁など地上部の窯体は全て消滅していたが、狭間は粘土を詰めた匣鉢を重ねて周りを粘土で貼り付けており、狭間孔は各室6~9個で全て縦狭間構造で作られていた。出入り口は左側(6室のみ右側)であった。3回にわたって改造(4時期)された跡があった。
 尾呂窯初期の焼造品(天目茶碗・銭甕・香炉など)には瀬戸系要素(赤津瓶子窯などとの類似性)が認められ、その後の焼成品の特徴は笠原鉢など隣接する美濃窯との類似性が強くなっている。創業年代は器種構成、型式上の特徴から17世紀第4四半期から18世紀前葉あたりにかけて創業したものと考えられ、その最盛期は18世紀初頭に求めることができる。
 窯跡は調査終了後埋め戻され、現在は9番ホールティグランド横の斜面に保存されている。
(瀬戸市埋蔵文化財センター 「尾呂」)