朝日窯

あさひがま


『尾張名所図会』や『をはりの花』の中に瀬戸古窯の名称として記載されている。名所図会には、「古窯跡 同(瀬戸)村の山林馬ケ城をはじめ所々にあり、其の内藤四郎窯といひ傳ふるは、椿窯、峯出が根窯、守宮窯、朝日窯(以下略) 又源氏窯にて飛鳥川の茶入を焼き、朝日窯にて焼きし茶入を朝日春慶と称す」とある。
 瀬戸は瀬戸川の谷に成立した町だが、左岸(南側)は谷奥から洞・郷・南新谷と順次シマが開けた。郷の中心に小高い山があり、古くは経塚山・城見山と呼ばれ、大正時代に八十八ヵ所霊場が開かれて弘法山とも愛称されるようになった。この山稜東斜面に北から経塚山東・朝日下・朝日古窯跡と3基が分布している。この内朝日・朝日下窯跡はいずれも窯跡は滅失するが15~16世紀代の施釉陶器が出土する。経塚山東窯はその西に位置する経塚山西古窯跡とともに、明和七年(1770)に川本治兵衛・同半助らによって再興された地方文書が残された窯跡である。

夕日窯

ゆうひがま


『をはりの花』の瀬戸古窯の名称の中に朝日窯、夕日窯など30あまりの窯名が記載されているが、その他の詳しい説明はない。
 瀬戸の郷シマの経塚山に瀬戸川を挟んで相対する庚申山(幕末に春慶翁碑が建設されて藤四郎山、藤四郎公園と呼称されるようになった)があり、いつの頃からか、経塚山の朝日窯に対し夕日窯と呼ばれるようになった。ここには春慶が退隠して住んだ禅長庵が在ったということで、藤四郎窯跡ともいわれてきた。
 瀬戸市の遺跡詳細分布調査によれば、この藤四郎公園(瀬戸公園)内には石段登り口左に、夕日窯2基その上段に日影窯、上段の東斜面に夕日3号・同4号窯が分布している。窯跡はいずれも滅失しているが、夕日窯は16世紀代、夕日3・4号窯はいずれも19世紀代の施釉陶の物原を残している。

瀬戸六作・十作

せとろくさく・じゅっさく


瀬戸六作とは、永禄六(1563)年に織田信長によって選ばれた瀬戸の名工6名のこと。瀬戸十作とは、天正十三(1585)年に古田織部によって選ばれた瀬戸の名工10名のこと。

『をはりの花』に世人の瀬戸六作と称するは永禄六年(1563)織田信長瀬戸に来りて六人の名工を撰ししものにして、各製品には左の印款を刻すとして記載する。
加藤宗右衛門 春永と号す (鍵印)  加藤長十 (松葉印)
俊白 一に宗伯      (丸印)  新兵衛  (丁印)
加藤市左衛門 春厚と号す (角印)  加藤茂右衛門 徳庵と号す (十印)
さらに、世人の瀬戸十作と称すは天正十三年(1585)古田織部正重然(一に重勝)瀬戸に来りて十人の名工を撰ししものにして各製品に左の印款せり
元蔵 (一) 丈八 (イ)  友十(丸一) 六兵衛(セ) 佐助(蕨)
半七 (七) 金九郎(丸十) 治兵衛(サ) 八郎次(カ) 吉右衛門(山)

 また、『尾張名所図会』中の六作十作の事に、「永禄六年信長公国中巡覧の節、瀬戸名家六作といえるを定めたまう。また天正十三年古田織部正重勝名家十作といえるを定められる。其名印ども左の如し。六作のうち市左衛門の子孫、今の加藤清助なり、吉左衛門・民吉・唐左衛門等みな清助の別家なり」とある。