萩山小学校

はぎやましょうがっこう


昭和48年4月1日創立。瀬戸市で18番目の小学校として開校、当初全校児童数144名、教職員11名であった。平成22年4月に瀬戸特別支援学校が併設される。

萩山小学校

幡山西小学校

はたやまにししょうがっこう


明治6年10月21日に、「全道学校」という名で、当時の菱野村の西光寺内に創立された。校区は、本地学校や山口学校を吸収したり、また分校にしたりして、明治25年には、幡山東小学校(当時の山口尋常小学校)を分離して現在に至っている。この間、菱野村が本地村・山口村と合併して幡山村となり、瀬戸市と合併したりして、何度かの校区変更があった。

幡山西小学校

幡山東小学校

はたやまひがししょうがっこう


明治6年9月創立。昭和22年愛知郡幡山村立幡山東小学校と改称。昭和30年2月瀬戸市との町村合併により瀬戸市立幡山東小学校と改称。昭和40年後半に宅地造成や愛環鉄道の建設が進むにつれて児童数が急増し、今までに山口川畔あった旧校舎では収容不可能になり、昭和49年、現在の国道155号線の東、四方を豊かな緑に囲まれた精閑な高台に移転した。

幡山東小学校

八幡小学校

はちまんしょうがっこう


昭和49年9月1日創立。本市第19番目の小学校として開校した。当時は、2つの学年が一つの教室で学習する複式の3学級で、児童数も27名と最も小さな学校だった。

八幡小学校

原山小学校

はらやましょうがっこう


昭和45年4月1日創立。創立初年度、教師9名児童88名で発足。平成16年度に幡山西小学校区であった白山町、東赤重町、緑町が学区に編入。

原山小学校

東山小学校

ひがしやましょうがっこう


昭和47年4月1日創立。創立初年度、児童数347名、效範小学校の分校として創設された。瀬戸市の最も西に位置した学校で鴨ヶ池を埋め立てて建設された。

深川小学校

ふかがわしょうがっこう


明治36年4月1日創立。明治36年4月に開校し、瀬戸第二尋常小学校と称していたが、大正14年8月、町村合併により深川尋常小学校と改称。学区は、地理的にも瀬戸市のほぼ中心部にあたり、最も古くから市街化したところで、商店街・公共施設・銀行が集まっていて、かつてはかなりの賑わいをみせた。児童数は昭和10年代には、2,000人を越えるほどであったが、年々減少の傾向をたどっている。

深川小学校

掛川小学校

かけがわしょうがっこう


明治25年10月1日創立。掛川小学校は下半田川町と定光寺町を校区とする。世帯数が少ない数だけに、本校に通学してくる児童数も減っている。

掛川小学校

上品野小学校

かみしなのしょうがっこう


明治6年10月祥雲寺を仮校舎として開かれた回帰小学校に始まる。学校は、上半田川、白岩、片草、中品野、下品野の6ケ村の組合立だった。1明治40年3月に、上品野尋常小学校となる。昭和50年に品野台小学校と改称され、場所も変更された。旧校跡は広場として利用されている。

旧上品野小学校

效範小学校

こうはんしょうがっこう


明治6年5月9日創立。明治6年に效範学校として創設され、その後、明治9年に今村学校、狩宿学校として改称、明治40年3月旭第一尋常小学校と改称。大正14年分村し瀬戸町に入り、效範尋常小学校となる。大正14年に「效範」の名に復し、翌年、陶土の「土」を錨に「效」を帆綱に図案化し、海外発展と進取の精神を表す校章が制定された。校区は市の西部に位置し、瀬戸市の西玄関口として発展し、尾張旭市に接している昭和41年に南部が長根小学校、昭和47年には北部が東山小学校として2校が分離独立し開校している。昭和47年に公立陶生病院内に「つくし学級」が開設され、本校の特殊学級として、長期療養で入院中の病虚弱児、障害児の学習指導にあたっている。

效範小学校