片草城址

かたくさじょうあと


所在地 瀬戸市片草町
 旧片草村は尾張の東端に在り、三国山(海抜701メートル)は文字通り、尾張・美濃・三河3州境となっている。名古屋城下から木曽山系の山間を縫って信州街道がここを通る。
 片草の氏神八幡神社の西に独立した小丘陵(海抜350メートル)に片草城跡が在る。山腹を削って二段構えとし、掘割で鶴翼形をした平山城の遺構を残している。このあたりの地名を「坂井ヶ根」という。片草城は「享禄二年(1529)上品野秋葉山城で松平勢と戦って敗走した織田方の坂井氏の族人が隠れた」伝承がある。また定光寺祠堂帳に寄進の記録が残る「坂井十郎」の城であったようでもある。地域には坂井姓の人達も居る。江戸時代の村絵図では「城主名不詳の古城跡」として記載されている。

桑下城址

くわしたじょうあと


所在地 瀬戸市上品野町
桑下城は旧中馬街道「城前」バス停の水野川を挟んだ対岸「桑下島」の丘陵地「城根」にある平山城で、「尾張志」には「城構えは東西30間・南北42間、永井民部少輔の居城なりし由」と伝え、石垣や井戸跡を残している。「永井民部は松平家重・その子家次に仕え、後に織田家に属してその位牌は祥雲寺に残る」と載せている。
桑下城跡は平成16年度(1次)、同19年度(2次)に国道363号線改良工事に伴う事前調査が行われた。愛知県埋蔵文化センターなどによる瀬戸市域における最初の発掘調査であった。道路予定地の限られた調査区ではあったが、本丸部分の掘立柱建物や基礎、土塁や井戸、本丸を囲む東西の薬研堀と北の箱堀構造、そして出土遺物として和鏡などの金属製品や什器などの木製品、多くの陶磁器製品が検出した。当時の土木技術が判明したのみならず、現在の城跡は在地領主である長江(永井)氏時代のものでなく、今川氏が関与した改築された時代のものという知見が示された。

品野城址

しなのじょうあと


所在地 瀬戸市上品野町
品野は古く「科野」と表し、山間傾斜地の地形状の特徴から起こった地名のようである。3州国境三国峠に近い高地から、順次上・中・下と3科野村があった。上品野は信州街道沿いに在ったが、その面影は氏神稲荷神社前の旧道によく残されている。この稲荷神社裏山の秋葉山頂が品野(科野)城跡である。東西20間、南北8間余、土塁・曲輪・堀切跡を残す山城で「秋葉山城」の別称がある。麓近くに「中屋敷・廓屋敷・御殿・的場」などの地名が残る。
城の創始は建保・承久年間(13世紀初頭)の頃、水野地域から進出してきた豪族大金重高とされ、享禄品野合戦(1529)以降は松平内膳正家重が城主、永禄元年(1558)3月には織田軍勢との間で永禄品野合戦があったことが伝えられている。
品野城跡の北側で集落を挟んだ向かい側に桑下城跡があり、桑下城は平時住まいの館城、品野城は緊急時の詰め城であったのではないかという説もある。