一色山城(水野城)址

いっしきやまじょう(みずのじょう)あと


所在地 瀬戸市川平町
 水野川が形成した水野谷は豊穣な地で早くから開け、中世の頃この水野上・中・下各郷にはそれぞれ一色・大平・入尾の城があった。この地域に深いかかわりをもつ水野氏が築城・城主となっている。
 一色山城は標高242メートルの山頂に在った典型的な山城で「水野城」「五万石の城」とも呼ばれた。寛政年間の村絵図には感応寺(臨済宗・定光寺末)から沓掛道を登る城ガ嶺に城跡を描く。また『張州府志』には「天文八己亥年、同邑一色山城主磯邑左近」の記載がある。治承・寿永の頃(12世紀末)入尾城を築いて城主となったのは水野景貞・景俊父子であった。景俊の孫である高康とその子有高、後に品野城に移ったとされる大金重高らが鎌倉時代には居城した。戦国時代には織田信長の家臣であった磯村左近が居城するが、天文年間(16世紀中)に品野城の松平家重らの軍勢と余床町の「勝負ヶ沢」で戦い左近は戦死したと伝えられている。

阿弥陀ヶ峰城址

あみだがみねじょうあと


所在地 瀬戸市品野町2丁目(全宝寺境内)
 信州飯田街道が瀬戸村追分で三州小原道と分岐して安戸坂を登って下品野村八床に向かう。大松山全宝寺(曹洞宗・元阿弥陀堂と呼ばれ創建不詳)は信州飯田街道の入り口にあって、地蔵堂(江戸時代造の石地蔵祀る)や庚申堂(文化十年銘青面金銅像祀る)を持つ。
 文明十四年(1482)5月、応仁の乱の余波として細川方品野に勢力をもつ桑下城主・永井(長江)民部と山名方今村城主・松原広長との間で合戦が開かれた。品野勢は品野の南端阿弥陀ヶ峰に城砦を築いて陣取った。今村勢は松原広長を総大将に赤津・山口・本地・今村城などの兵力を集めて安戸坂を攻め上ってきた。この地を陣屋河原という。大槙山(全宝寺西の丘陵地帯)の戦いで今村勢は追い落とされ、若狭ヶ洞での戦いで品野方が大勝した。「広長戦死の地を殿死洞といひ、兜の落ちたる所を兜洞とよぶ」(「寛文記」)。阿弥陀ヶ峰城は武士の居城ではなく、砦としての一時的軍事拠点であったと考えられ、小高い全宝寺境内地がその故地である。

南山城址

みなみやまじょうあと


所在地 瀬戸市南山口町
 「日本城郭全集」には旧山口村字南山の山上に城跡があるとしている。「城坂の上にかまえ跡あり、山の上四方越堀、樫垣(かしがき)を付置、今跡あり、山田伊豆守この中に屋敷二十四間構えに居住なり。大川つきあて崩れ、南山薬師西、欠の上に殿を造る」とある。山田伊豆守とは承久の乱(1221)で戦死した山田重忠の子重継のことで、父と共に嵯峨野で戦死している。明確な城跡の痕跡は不明である。