所在地 瀬戸市上品野町
品野は古く「科野」と表し、山間傾斜地の地形状の特徴から起こった地名のようである。3州国境三国峠に近い高地から、順次上・中・下と3科野村があった。上品野は信州街道沿いに在ったが、その面影は氏神稲荷神社前の旧道によく残されている。この稲荷神社裏山の秋葉山頂が品野(科野)城跡である。東西20間、南北8間余、土塁・曲輪・堀切跡を残す山城で「秋葉山城」の別称がある。麓近くに「中屋敷・廓屋敷・御殿・的場」などの地名が残る。
城の創始は建保・承久年間(13世紀初頭)の頃、水野地域から進出してきた豪族大金重高とされ、享禄品野合戦(1529)以降は松平内膳正家重が城主、永禄元年(1558)3月には織田軍勢との間で永禄品野合戦があったことが伝えられている。
品野城跡の北側で集落を挟んだ向かい側に桑下城跡があり、桑下城は平時住まいの館城、品野城は緊急時の詰め城であったのではないかという説もある。
カテゴリー: 城跡
瀬戸城址(鯨見城)
せとじょうあと(くじらみじょう)
所在地 瀬戸市古瀬戸町~馬ケ城町あたり
瀬戸城は「鯨見の城」ともいい、古瀬戸小学校正門登り口の北東一帯の丘陵地にその跡があり、城主は加藤光泰で城構えは東西六十五間・南北八十間、三方掻揚げ堀、東大手門は字垣内という田畑になり、西桑原、東窯下という。北は高塚という。(「日本城郭全集」)
江戸時代の村絵図にはその古城跡の記載は無く、今日工場・民家が密集して古城跡を確認することはできない。
塔山城址
とうやまじょうあと
所在地 瀬戸市広久手町
塔山(とうやま)城は堂山城・相坂城ともいう。山口谷奥の通称「おごりんさん」と地元の人から呼ばれる室町期の五輪塔の並ぶ小高い山がある。「山口村古記」には城主は森河下総守が居城し、後大和国多武峰に移るとある。山口川右岸から取水する「森河用水」は今も活用されている。
「おごりんさん」から南に下った地点に東西約20メートル、南北約48メートルの本丸跡があり、三方に附属の曲輪が見られる。江戸時代の村絵図には「古城跡、武田信玄番持」の記述があるが、武田氏との関係は明らかではない。