所在地 瀬戸市鹿乗町
旧下水野村は中世の頃は「水野下郷」と呼称された。水野川が東門滝・目鼻石などの景勝地を流れ下り玉野川に合流する最下流部が、下水野村の枝村の「入尾(いりお)島」である。江戸時代の村絵図に八幡社東辺に「城山」が描かれている。これが入尾城跡である。『張州府史』には「下水野村にあって、水野備中守が之に居す」とあり、また『張州雑志』には玉野川の南岸に木立と石垣を描き「東西三十二間、南北三十一間、四方一重堀」などの付記がみられ、編集当時は堀跡などの遺構があったようである。
保元・平治の戦乱の世、尾張山田荘水野郷に移り住んだ平氏の一門があって、これが後水野姓を称したという。水野四郎と称した景俊の父景貞が始めて水野郷入尾に城を築いた。景俊の子高家も水野三郎を称し、治承・寿永の頃に八条院領志田見郷(守山区志段味)の郷司職に補されて志田見・水野周辺の地を管理したという。
(「日本城郭全集」)
カテゴリー: 城跡
物見山城址
ものみやまじょうあと
所在地 瀬戸市海上町
江戸時代の旧山口村絵図には枝郷海上(かいしょ)集落の南東山上に「山田佐右衛門物見ヶ岩」の記載がある。地誌『尾張徇行記』には甲斐武田信玄が築いた砦跡の言い伝えが記載されている。海抜327メートルの物見山の山頂は尾張・三河を望む位置であるが、それ以上の城跡の痕跡は無い。
(以上参考文献 『日本城郭全集』・『日本城郭大系』・『瀬戸古城史談』・『瀬戸市史・村絵図編』他)
馬ヶ城址
うまがじょうあと
所在地 瀬戸市馬ヶ城町
現在の瀬戸市街地を西に流れる瀬戸川(矢田川上流)に流入する支流の一つが赤津境を水源とする馬ヶ城川である。昭和初年にここに上水道を建設するための馬ヶ城貯水池が建設された。この水源地内には著名な古窯跡である馬城窯・椿窯・小屋峰窯・松留窯など11窯が『尾張徇行記』に記載されるが、最近の調査では約60基の古窯跡が分布する。
天保年間の村絵図には馬ヶ城川に沿って馬城道が描かれ、「銭カメ」(銭甕窯)のさらに上流の位置に「馬ヶ城」が記載される。古城跡研究者であった戸田修二氏は「瀬戸古城史談」で「城跡今は太郎左池」と記し、郷土史を引きながら「城構えは土塁の内側東西150メートル、南北100メートルほどの平坦地で、周りは巾着様に丘陵に囲まれ、西方わずかに開いた要衝の地である」としている。城主は加藤太郎左衛門で室町末期の頃まで居住し、長久手城主加藤太郎左(または右)衛門との関連性を指摘している。