南山城址

みなみやまじょうあと


所在地 瀬戸市南山口町
 「日本城郭全集」には旧山口村字南山の山上に城跡があるとしている。「城坂の上にかまえ跡あり、山の上四方越堀、樫垣(かしがき)を付置、今跡あり、山田伊豆守この中に屋敷二十四間構えに居住なり。大川つきあて崩れ、南山薬師西、欠の上に殿を造る」とある。山田伊豆守とは承久の乱(1221)で戦死した山田重忠の子重継のことで、父と共に嵯峨野で戦死している。明確な城跡の痕跡は不明である。

今村城址

いまむらじょうあと


所在地 瀬戸市共栄通
 旧今村は現在の瀬戸市域の西端にある。江戸時代の『張州雑志』には「此村、古へ横山ト云、後改之」とあり、古くは「横山」と呼称したようである。今村は4区に別れ、瀬戸川左岸に寺山嶋と市場嶋でここが本郷、北の右岸側が川西島・北脇島が在って名古屋から飯田に結ぶ信州飯田街道が通る。
 今村城(松原城ともいう)は市場嶋に在り、氏神八王子社の西の池は当時の堀跡である。周囲には城屋敷・廓屋敷・出口・矢下などの地名を残している。文明年間の頃の城主は松原広長で、城は東西六十間、南北六十間、四方一重堀、南面のみ二重堀であったとされる。平成25年には、住宅建設工事に先立ち発掘調査が行われ、南面二重堀のうち、内堀の一部が確認されている。松原氏は広長の父吉之丞の頃は三河の今村(安城市)に在ったが、その後越戸(豊田市)城主を経て、飽津(赤津)へ移った。広長の頃には今村の隣村本地・赤津を併領して勢力を張ったが、品野城の長江(永井)民部との戦いで敗れた。

本城ヶ根城址

ほんしろがねじょうあと


所在地 瀬戸市城ヶ根町
 江戸時代の美濃野池村は現瀬戸市域の18カ村中面積も戸数も最小の村であった。寛政年間の村絵図には北の今村境に「城カネ山」が描かれ、「古城跡ト申傳之場所御座候得共誰之城跡とも相知不申候」と記載するがそれ以上は不明である。