歌舞伎座

かぶきざ


瀬戸市滝之湯町
大正15(1926)年に瀬戸町の西郊の滝之湯に歌舞伎座が誕生した。こけら落としに中村吉衛門が来瀬した。2階はマス席、1階は椅子席であった。昭和に入って「瀬戸劇場」と改称したが、戦時中に終業した。

記念橋交番

きねんばしこうばん


瀬戸市南仲之切町
 昭和14(1929)町3月に旧瀬戸市役所に併置されていた瀬戸警察署が東吉田町に新庁舎を建設移転した。そのため新たに陶磁器陳列館東に「蔵所派出所」として設置(同年4月)した。やき物の町にふさわしい神明造りの屋根瓦は織部焼で葺き(同時期に建設された名古屋市役所の屋根瓦に使用された同じ瀬戸瓦といわれる)、警察署の表札マークは黄瀬戸焼きで作成された。

久米邸

くめてい


瀬戸市朝日町
 近代瀬戸窯業を代表する川本枡吉家旧別邸で、建造年代は固定資産台帳には居宅・倉庫が明治41(1908)年とあり、建築的にみて現存する主家と土蔵が相応するものであろう。年代的に2代川本枡吉に当たり、初代の養子に入り明治19(1886)年に2代を襲名した。初代に続き磁器改良に取り組み、瀬戸で有数の窯元に成長させるとともに、瀬戸町長、瀬戸陶磁工商工業組合長などを勤め大正8(1919)年に没した。
 陶生病院勤務の眼科医久米逸郎氏は、戦後この別邸を購入して昭和23年に眼科医を開業する。昭和55年に閉院、平成13年に居住者が逝去したが、町おこしの観点から建物を残すべく平成16年に土蔵を雑貨店、主屋を飲食店として再利用することになり旧久米邸と称して現在に至る。
 敷地は南に下る急傾斜地にあって、東側に門を構え、敷地中央に南面して主屋が建つ。主屋は木造2階建、寄棟造、桟瓦葺の建物で1階6間、2階2間であるが診療所時代の改築がなされている。旧久米邸は、平坦な土地の少ない瀬戸における近代の居宅の屋敷構えをよく残す。主屋は間取りや東半のツシ2階の構成に近世の、座敷部分の本2階の構成に近代の特徴を示す。瀬戸の近代和風建住宅の年代的な指標となる遺構である。
(『愛知県の近代和風建築』)

栄座

さかえざ


瀬戸市東本町2
 明治28(1895)年に瀬戸演劇株式会社が資本金7000円で南新谷に栄座が誕生した。大正時代には様々な興行が行われた。無声映画の時代になり、当時の新聞は「活動大写真会を催したが、すこぶる盛会であった」(「新愛知」1922年7月13日付)と伝えている。栄座は昭和12(1937)年頃まで営業した。

城嶺橋

しろがねばし


瀬戸市定光寺町~春日井市玉野町に架橋
定光寺は玉野川の景勝地で名古屋の嵐山と呼ばれた景勝地であった。初代城嶺橋は名古屋開府250年を記念し、明治42(1909)年3月に着工、翌年完成した木橋である。当時対岸には中央本線が開通していたが、高蔵寺―多治見間には駅舎はなかった。定光寺駅の開設は大正13(1924)年のことである。ところが、初代の木橋は完成の翌年に大水で流出してしまい、大正元(1912)年に吊橋で復旧した。昭和11(1936)年、2代目橋の下流側に併行して3代目の京都四条大橋を模してコンクリートアーチ橋建設に着工、翌年完成した。尾張徳川家19代義親氏による「城嶺橋」の揮毫を親柱に持つ。大正期の水平線。垂直線を強調する「セセッション」風デザインであった「まぼろしの四条大橋」の面影を残した橋は貴重である。
(『愛知県の近代化遺産』)

城嶺橋

昔田窯跡

むかしだかまあと


瀬戸市穴田町
 室町時代後半になると、瀬戸窯はそれまでの地下式の「窖窯」から半地上式の「大窯」へと窯構造が変化する。この大窯は窖窯と同じく焼成室が単室であるが、地上式になることのよって天井壁が高くなり、窖窯に比べて容積が大きくなる。現在、瀬戸市内に確認された大窯は24基にのぼる。
 昔田窯跡は上水野地区穴田町の水野川右岸(北側)丘陵地裾野に所在し、昭和43年に大窯としては最初の学術調査発掘された窯跡である。調査によって、窯体は全長8m、焚口と焼成室の間には分炎柱の奥に段を作り、その手前に小分炎柱を並べまさに「格子間」を設けている。さらに焼成室の高い天井を支える窯支柱が3本建てられ、床や焼成室下段には平らな石を使用している。これらは従来の窖窯には見られない大窯独特の構造であり、容量の増加に対応するためにより効率良く燃焼するなどの工夫や窯炉の改善であると考えられる。出土品は古瀬戸後期様式の器形に加え、丸碗・印花小皿・徳利・花入れなどが新たに焼かれ、さらに天目茶碗・擂鉢などは新しいタイプのものが出土している。本窯は、瀬戸・美濃を通じて最古の大窯といわれており、16世紀前葉に編年されている。出土品は天目茶碗・小皿類・擂鉢を中心に徳利や花入れなどがみられ、16世紀前葉に編年されている。
 この他、平成15年に行われた試掘調査では、新たに典型的な窖窯構造の窯体と、窖窯と大窯の過渡的な形態をもつ窯体が検出され、同一斜面で窖窯末期から大窯への変遷が確認できる貴重な事例となった。

瀬戸陶磁器会館

せととうじきかいかん


瀬戸市陶原町
瀬戸陶磁器会館は、南東に突出したL字型平面の建物の一部(北東部分)が昭和10年3月に完成した旧瀬戸陶磁器工業協同組合の「総合協同販売所見本陳列場」である。陶磁器の計画的な生産と共同販売を目的に、大正15(1926)年瀬戸陶磁器工業協同組合が設立、以後4回にわたる改組を経て現在の愛知県陶磁器工業協同組合に至る。昭和9年3月7日付けの「丹羽設計事務所」の起工届が残されていて旧状の詳細が明らかである。建築当初は1階に事務所・役員室・応接室、2階に見本陳列室と会議室、3階に大ホールが設けられていた。
瀬戸川に面した北玄関のある中央部分が当初の建物で、外部扉は失われているものの、外部を門型に飾るテラコッタ装飾は華やかで、腰をタイル張りとし陶板の装飾を張る内装とともに旧状を残している。3階の理事長室は床を寄木とし、壁面は腰板張り、外套掛けや机など当初の調度品も残る。また大ホールも、クロス張りや内装、演台脇の陶製照明、梁型を露出した構成に旧状を伝える。
瀬戸を見渡すこの建物の屋上から昭和21年の行幸時に天皇が視察しており、瀬戸の近代を伝える史跡でもある。
(『愛知県の近代化遺産』)

月山古窯跡

つきやまこようせき


瀬戸市定光寺町
 旧沓掛村の古刹定光寺の山門正面に標高167mの小丘陵「檜山」(江戸時代の村絵図には「筑山」とある)の南斜面に窯は在る。昭和58年に市史編纂のための発掘調査が行われた。昭和34年の伊勢湾台風により窯体の大部分が流出してしまい、58年の発掘調査では、焼成室床面の一部が残存するのみであった。残存する焼成室の床面の幅は下端で最大の3.3m、上端で最小の1.65mであった。床面の傾斜は35度前後とかなり急傾斜である。天井支柱の痕跡も2本認められた。
 灰原は極めて残りが良く、最大で2m厚の堆積が確認された。出土遺物には各種碗類、皿類、徳利、擂鉢、建水、水指などがあり、月山窯は16世紀後半に創業された大窯成熟期の窯であることが判明した。この時期の大窯製品の特色としては、天目茶碗・茶入・建水など茶陶類が卓越することで、月山窯でもこうした器種が大量に出土している。
(参考文献 「瀬戸市史・陶磁史篇四」)

瀬戸陶器館(舜陶館)

せととうきかん(しゅんとうかん)


瀬戸市蔵所町
明治10年代に入って、瀬戸御蔵会所跡に「瀬戸陶器館」を建設しようとする機運が挙がった。明治13(1880)年9月に陶器館設立発起人会が誕生、「陶器館設立趣意書」が残されている(『瀬戸市史・資料編六』)。これによれば、オーストリア万博(明治6年)、フィラデルフィア万博(同9年)、第3回パリ万博などで声望を高めた瀬戸陶磁器製品の近代化と発展のためには同業者組合の組織化と「改良進歩の道を求め」、参考館設立が必須というものであった。明治15年に正式に県令国貞廉平に設立と補助金申請が提出され、補助金1500円と有志者の寄付3500円でもって同16(1883)年1月に起工、同10月10日に盛大な落成式が行われた。
総建坪108坪、階上42坪余、これを「舜陶館」と命名されたが一般には「陶磁器館」または「陶器館」と呼ばれた。階下には瀬戸・赤津・品野の陶磁器を陳列するとともに販売も行われた。階上には内外の参考品や古陶磁類を展観して自由に縦覧することができた。毎年春には、製作品協議会・図案会などを開催した。産業文化のセンターとして明治初期から大正時代にかけて重要な役割を果たした。
(『瀬戸ところどころ今昔物語』)

穴田古窯跡群

あなだこようせきぐん


瀬戸市穴田町
 穴田古窯跡群は旧上水野釜ノ洞に所在する。水野川の左岸(南側)の丘陵で西に開析された小支谷を利用して築窯された4基の連房式登窯によって構成されている。その内、第1号窯(昭和53年)・第2号窯(同54年)が瀬戸市史編纂のために発掘調査された。この調査で出土した遺物には、天目茶碗や丸碗、志野皿などの製品のほか、定光寺源敬公廟の焼香殿敷瓦や名古屋城二の丸庭園跡出土の花壇仕切り瓦などと類似のものが含まれており、尾張藩との関係の深さを示している。
 第1号窯は約24度の北斜面を利用して築窯、残存する窯の全長(水平投影)は14.7m、10段連房の登窯である。燃焼室に続く第1室は幅1.5×奥行0.9m、第10室は幅2.5×奥行1.6mと上段程窯室が拡大する。窯詰め、窯出しなどの出入り口は向かって左側に設けられており、右側壁は恒久施設となっていた。さらに第5室から上段には左右に天井壁を支える支柱が建てられた。各焼成室は有段連房の縦狭間構造となっている。最上段の第11室は稜線で床面が奥行85cmを残して流失して煙り出し施設(本業窯ではコクドと呼ぶ)の構造は不明であった。
 第2号窯は1号窯の西約30m離れて扇状に築かれていて、前庭部に続く物原を共有している。予備調査の段階から床面が露出してかなり破壊が進んでいたが、自然風化と共に、戦中・戦後の物不足時代に窯材を利用するために人為的にも破壊されたようである。2号窯の燃焼室および壁面が石積みで、しかも巨大な分炎柱を有するなど大窯様式を残す特異な構造である。少なくとも3~4回の改造が行われ、一次窯は全長18m、12の焼成室からなる床面傾斜20度前後の無段連房斜め狭間で、各焼成室の幅3.0×奥行1.6m前後、6~8本の狭間柱を有した。
 これらの窯は寛文七年(1667)前後に御林方奉行所の役人屋敷を設けるにあたり、4軒の窯屋を他に移転させたとの地方文書が残されている。操業下限を知る貴重な窯跡でもある。