瀬戸市蔵所町
明治10年代に入って、瀬戸御蔵会所跡に「瀬戸陶器館」を建設しようとする機運が挙がった。明治13(1880)年9月に陶器館設立発起人会が誕生、「陶器館設立趣意書」が残されている(『瀬戸市史・資料編六』)。これによれば、オーストリア万博(明治6年)、フィラデルフィア万博(同9年)、第3回パリ万博などで声望を高めた瀬戸陶磁器製品の近代化と発展のためには同業者組合の組織化と「改良進歩の道を求め」、参考館設立が必須というものであった。明治15年に正式に県令国貞廉平に設立と補助金申請が提出され、補助金1500円と有志者の寄付3500円でもって同16(1883)年1月に起工、同10月10日に盛大な落成式が行われた。
総建坪108坪、階上42坪余、これを「舜陶館」と命名されたが一般には「陶磁器館」または「陶器館」と呼ばれた。階下には瀬戸・赤津・品野の陶磁器を陳列するとともに販売も行われた。階上には内外の参考品や古陶磁類を展観して自由に縦覧することができた。毎年春には、製作品協議会・図案会などを開催した。産業文化のセンターとして明治初期から大正時代にかけて重要な役割を果たした。
(『瀬戸ところどころ今昔物語』)
カテゴリー: 文化・文化財
穴田古窯跡群
あなだこようせきぐん
瀬戸市穴田町
穴田古窯跡群は旧上水野釜ノ洞に所在する。水野川の左岸(南側)の丘陵で西に開析された小支谷を利用して築窯された4基の連房式登窯によって構成されている。その内、第1号窯(昭和53年)・第2号窯(同54年)が瀬戸市史編纂のために発掘調査された。この調査で出土した遺物には、天目茶碗や丸碗、志野皿などの製品のほか、定光寺源敬公廟の焼香殿敷瓦や名古屋城二の丸庭園跡出土の花壇仕切り瓦などと類似のものが含まれており、尾張藩との関係の深さを示している。
第1号窯は約24度の北斜面を利用して築窯、残存する窯の全長(水平投影)は14.7m、10段連房の登窯である。燃焼室に続く第1室は幅1.5×奥行0.9m、第10室は幅2.5×奥行1.6mと上段程窯室が拡大する。窯詰め、窯出しなどの出入り口は向かって左側に設けられており、右側壁は恒久施設となっていた。さらに第5室から上段には左右に天井壁を支える支柱が建てられた。各焼成室は有段連房の縦狭間構造となっている。最上段の第11室は稜線で床面が奥行85cmを残して流失して煙り出し施設(本業窯ではコクドと呼ぶ)の構造は不明であった。
第2号窯は1号窯の西約30m離れて扇状に築かれていて、前庭部に続く物原を共有している。予備調査の段階から床面が露出してかなり破壊が進んでいたが、自然風化と共に、戦中・戦後の物不足時代に窯材を利用するために人為的にも破壊されたようである。2号窯の燃焼室および壁面が石積みで、しかも巨大な分炎柱を有するなど大窯様式を残す特異な構造である。少なくとも3~4回の改造が行われ、一次窯は全長18m、12の焼成室からなる床面傾斜20度前後の無段連房斜め狭間で、各焼成室の幅3.0×奥行1.6m前後、6~8本の狭間柱を有した。
これらの窯は寛文七年(1667)前後に御林方奉行所の役人屋敷を設けるにあたり、4軒の窯屋を他に移転させたとの地方文書が残されている。操業下限を知る貴重な窯跡でもある。
大正館
たいしょうかん
瀬戸市末広町
大正2(1913)年8月に瀬戸町字薬師(宮川町)に大正館が演芸場として落成した。5年後に火災で焼失したが、同12(1923)年に「中央館」として再建され戦後も映画専門館として活動した。また大正12年には、キネマ株式会社が2万円を投じて字大廻戸に活動写真専門館「末広館」を建設した。「蒲田映画」を上映するようになった。トーキー時代の幕開けであった。
尾呂古窯跡群
おろこようせきぐん
瀬戸市下半田川町
尾呂窯は瀬戸市下半田川町の北端丘陵地に在る。その創業に関する記録が全く無いことから、戦前加藤唐九郎氏により「隠れ窯」と喧伝され、戦後の「尾呂茶碗」「尾呂徳利」などを求めた盗掘で大破壊を受けてしまった。
昭和59年7月、ゴルフ場造成に伴う大規模な緊急発掘調査が実施されることになり、中世山茶碗窯である半ノ木古窯跡群(約17基)中の2基、近世連房式登窯である尾呂古窯跡群(6基)が昭和61年12月まで3次にわたって調査が行われた。
比較的遺構がよく残っていた1号窯は6基中の東端に位置し、標高126~129m、30度前後の傾斜地の南斜面に立地する。全長18.2m、焼成室の最大幅170(1室)~380cm(11室)、奥行40(1室)~110cm(12室)、燃焼室(胴木間)と14連房の焼成室をもつ登窯であった。天井壁・側壁・奥壁など地上部の窯体は全て消滅していたが、狭間は粘土を詰めた匣鉢を重ねて周りを粘土で貼り付けており、狭間孔は各室6~9個で全て縦狭間構造で作られていた。出入り口は左側(6室のみ右側)であった。3回にわたって改造(4時期)された跡があった。
尾呂窯初期の焼造品(天目茶碗・銭甕・香炉など)には瀬戸系要素(赤津瓶子窯などとの類似性)が認められ、その後の焼成品の特徴は笠原鉢など隣接する美濃窯との類似性が強くなっている。創業年代は器種構成、型式上の特徴から17世紀第4四半期から18世紀前葉あたりにかけて創業したものと考えられ、その最盛期は18世紀初頭に求めることができる。
窯跡は調査終了後埋め戻され、現在は9番ホールティグランド横の斜面に保存されている。
(瀬戸市埋蔵文化財センター 「尾呂」)
地下軍需工場跡
ちかぐんじゅこうじょうあと
瀬戸市小田妻町2・上本町
太平洋戦争末期になると太平洋防空網が破綻し、本土の空襲が次第に激しくなっていった。内地では空襲や本土決戦にそなえて軍事関連施設の疎開による分散化が進んだ。愛知航空機の瀬戸地下工場もその一つだった。愛知航空機は名古屋市船方で航空機の製造を行っていた民間の軍需工場であった。当時は九九式艦上爆撃機の彗星・瑞雲・電光などの機種を生産していた。
愛知航空機は昭和20(1945)年2月以降、本土決戦を控えた疎開方針により、大垣・美濃・養老そして特に地下工場の建設を企図して設置したのが瀬戸工場で水野村内に置かれた。アメリカ国立公文書館には「米国戦略爆撃調査団報告書」が残されていて、地下工場の概要が記録されている。すでに完成した部分と計画中であった部分を併せて10万平方フィートの用地が隣り合う五つの丘陵の地下に5区画が掘られていた。地下工場では彗星の最終組み立てを除いた全部品を製造するため、800台分の製造用機械が運びこまれた。昭和20年8月15日の終戦当時にはほんのわずかの翼桁が作られたにすぎないものであった。(『瀬戸市史・通史編下』
地下工場は出入り口の一部を除いて崩落しているが、今日瀬戸市域に残る貴重な戦争遺跡であり、市民団体によって保存活動が続けられている。
かみた古窯跡群
かみたこようせきぐん
瀬戸市下半田川町
かつての国道248号線は蛇ヶ洞川に沿って山峡を通っていたが、昭和49年に上半田川地区と下半田川を直線状に結ぶバイパス工事が計画された。事前調査でかみた(上田)の丘陵中腹(標高150m)の地点2ヶ所に窯跡が確認され発掘調査が実施された。
1号窯は窯体下部がすでに流失していたが、上部の7室が残存した。残存する窯室の長さは約10m、幅は下方で4.6m、最上室で5.4mと上方に拡大する。縦狭間構造を持ち、粘土の円柱やエンゴロを用いた狭間柱は広いところで14本が確認された。窯室への出入り口は右側にあった。
2号窯はその西約30mの南西斜面に構築されていたが、煙道部(残存長約3.5×幅5.8m)が残存、エンゴロ積みによる狭間柱は15本確認されたにすぎない。
出土遺物は、1号窯では丸碗・柳茶碗・鉄釉湯呑・灯明皿・徳利類などがあり、2号窯は1号窯に連続する陶器類が下層に、中・上層からは広東茶碗・丸碗・染付皿・染付鉢・湯呑などの染付製品が主体であった。このことから、操業期間は1号窯が18世紀後半代、2号窯は19世紀前・中葉と推定される。
竹露庵
ちくろあん
瀬戸市藤四郎町
夕日窯跡の碑が立つ坂道を登ると、草葺きの瀟洒な茶室が建つ。陶祖公園茶室「竹露庵」である。
この茶室は元名古屋幅下の某家に在ったが、明治初年に道路拡幅のため取り壊されるところを新居の彦惣家に移築、さらに明治19年に瀬戸の加藤蘭法医・山陶屋加藤景登らが相談して瀬戸公園(当時の藤四郎山)に移築したという。この時有栖川宮を迎えた際に「竹露庵」と命名された。
爾来、会員の月掛金を持って維持されてきたが、当時の使用規則が残されている。
一、 会員たる者は一ヶ月金五銭づつを差し出すべし、さすれば毎日登庵するも妨げなし。
一、 会員たらざる者は登庵の際一名につき謝儀として金弐銭づつ差し出すべし。
一、 本庵に於ては歌舞弦鼓勝負の類を禁ず。
(『瀬戸ところどころ今昔物語』)
朝日窯
あさひがま
『尾張名所図会』や『をはりの花』の中に瀬戸古窯の名称として記載されている。名所図会には、「古窯跡 同(瀬戸)村の山林馬ケ城をはじめ所々にあり、其の内藤四郎窯といひ傳ふるは、椿窯、峯出が根窯、守宮窯、朝日窯(以下略) 又源氏窯にて飛鳥川の茶入を焼き、朝日窯にて焼きし茶入を朝日春慶と称す」とある。
瀬戸は瀬戸川の谷に成立した町だが、左岸(南側)は谷奥から洞・郷・南新谷と順次シマが開けた。郷の中心に小高い山があり、古くは経塚山・城見山と呼ばれ、大正時代に八十八ヵ所霊場が開かれて弘法山とも愛称されるようになった。この山稜東斜面に北から経塚山東・朝日下・朝日古窯跡と3基が分布している。この内朝日・朝日下窯跡はいずれも窯跡は滅失するが15~16世紀代の施釉陶器が出土する。経塚山東窯はその西に位置する経塚山西古窯跡とともに、明和七年(1770)に川本治兵衛・同半助らによって再興された地方文書が残された窯跡である。
夕日窯
ゆうひがま
『をはりの花』の瀬戸古窯の名称の中に朝日窯、夕日窯など30あまりの窯名が記載されているが、その他の詳しい説明はない。
瀬戸の郷シマの経塚山に瀬戸川を挟んで相対する庚申山(幕末に春慶翁碑が建設されて藤四郎山、藤四郎公園と呼称されるようになった)があり、いつの頃からか、経塚山の朝日窯に対し夕日窯と呼ばれるようになった。ここには春慶が退隠して住んだ禅長庵が在ったということで、藤四郎窯跡ともいわれてきた。
瀬戸市の遺跡詳細分布調査によれば、この藤四郎公園(瀬戸公園)内には石段登り口左に、夕日窯2基その上段に日影窯、上段の東斜面に夕日3号・同4号窯が分布している。窯跡はいずれも滅失しているが、夕日窯は16世紀代、夕日3・4号窯はいずれも19世紀代の施釉陶の物原を残している。
瀬戸六作・十作
せとろくさく・じゅっさく
瀬戸六作とは、永禄六(1563)年に織田信長によって選ばれた瀬戸の名工6名のこと。瀬戸十作とは、天正十三(1585)年に古田織部によって選ばれた瀬戸の名工10名のこと。
『をはりの花』に世人の瀬戸六作と称するは永禄六年(1563)織田信長瀬戸に来りて六人の名工を撰ししものにして、各製品には左の印款を刻すとして記載する。
加藤宗右衛門 春永と号す (鍵印) 加藤長十 (松葉印)
俊白 一に宗伯 (丸印) 新兵衛 (丁印)
加藤市左衛門 春厚と号す (角印) 加藤茂右衛門 徳庵と号す (十印)
さらに、世人の瀬戸十作と称すは天正十三年(1585)古田織部正重然(一に重勝)瀬戸に来りて十人の名工を撰ししものにして各製品に左の印款せり
元蔵 (一) 丈八 (イ) 友十(丸一) 六兵衛(セ) 佐助(蕨)
半七 (七) 金九郎(丸十) 治兵衛(サ) 八郎次(カ) 吉右衛門(山)
また、『尾張名所図会』中の六作十作の事に、「永禄六年信長公国中巡覧の節、瀬戸名家六作といえるを定めたまう。また天正十三年古田織部正重勝名家十作といえるを定められる。其名印ども左の如し。六作のうち市左衛門の子孫、今の加藤清助なり、吉左衛門・民吉・唐左衛門等みな清助の別家なり」とある。