節句の鯉のぼり

せっくのこいのぼり


伝承地 瀬戸市宮脇町
時代背景 天正12年(1584)の小牧長久手の戦い
五月には、男の子が強く、たくましく育つようにという願いをこめた端午(たんご)の節句があります。だから、昔から男の子がいる家では、のぼりを立てたり、武者人形を座敷(ざしき)にかざったり、お餅をついたりしてお祝いをします。しかし、深川神社のそばの宮脇町あたりでは、不思議(ふしぎ)に五月の節句になってものぼりを立てる家はありません。それには、こんなわけがあるからです。
四百年ほど前(千六百年ごろ)、豊臣(とよとみ)方(かた)と徳川方の軍勢(ぐんぜい)が長久手(ながくて)村でいくさをしました※1。このいくさでは、はげしくやりで腹を刺されたり、刀で背中を切られたりして、両方の侍(さむらい)がたくさん命を失(うしな)いました。負けた豊臣方の一人の侍が、傷(きず)つきながらも逃げてきました。その侍の体はやりや刀の傷で血だらけで、よろいは破れ、傷ついた足を引きずり、つるの切れた弓をつえにして、ようやく一軒(いっけん)の農家の前までたどり着(つ)きました。
そこは、ちょうど瀬戸の宮脇あたりでした。侍は、百姓の家の戸をドンドンドンドン、ドンドンドンドンとたたき、
「おたのみ申(もう)す。何か食べものをくだされ。腹がへって倒(たお)れそうじゃ。」。
戸を開けた百姓は、血だらけで、髪の毛をふり乱(みだ)し、ギラギラと光るするどい目つきの侍が立っていたので、思わず震えあがってしまいました。
百姓は、とっさに考えました。
「もし、この侍を助けたら、あとで私たちが敵の侍にどんな仕返しをされるかわからない」とおもい、
「食べるようなものは、何もありゃせん。」
と、どなり返しました。すると、侍は刀をぬいて家の中へ入ろうとしたので、
「出ていけっ。おーい、ぬすっとだあ。ぬすっとだあ。」
と、大声でまわりの家々にふれ回りました。
時は、ちょうど五月の節句の前、のぼりを立てるために用意してあった竹を持って、近くの人たちが走り出てきました。そうして、侍を追って行き、竹でたたいたり、突き刺したりして、とうとう殺してしまいました。
それからというものは、この宮前あたりでは、五月の節句にのぼりを立てると、立てた家の子どもが、次々に死んでしまうという不幸が続きました。
これは、きっとのぼり竿(ざお)で殺された侍のたたりだということになり、それからは節句にのぼりを立てる家がなくなったということです。
その後、村人たちは死んだ侍のためにお墓をつくり、花などをそなえてお参りをしているそうです。
※1 「四三〇年ほど前」 
天正12年(1584)の小牧長久手の戦い

せともの祭に雨が降る

せとものまつりにあめがふる


瀬戸地域に伝わる伝承。事実とは異なるものである。
伝承地 瀬戸市窯神町
時代背景 民吉が、磁器の製法技術を身につけるため九州へ旅立ち、平戸の佐々で福本仁左衛門の窯場で働き、技術を学んで文化4年(1807)に瀬戸に帰った。
「そなたたち、ここで、焼き物作ってみないか。」
 熱田奉行あつたぶぎょう、津金文左衛門つがねぶんざえもんの思いがけない言葉に民吉と父吉右衛門きちえもんは、うれしくなって涙がこぼれそうになった。
「わしが、南京焼という清国しんこく中国)の焼き物を書物で学んだ。それをそなたたちに教えようと思うがどうじゃ。」
「なんとありがたいお話でございましょう。どうか、ぜひお願いいたします。」
 父吉右衛門と民吉は、夢でも見ているような心地で、額を地面にすりつけた。
文左衛門は、翌日、民吉たちに「陶説」という本を見せた。
「これが南京焼じゃ。よく見るがいい。」
民吉たちは眼を見張った。清国の陶工たちの焼き物をつくる様子が挿し絵入りで詳しく描(えが)かれていたのだ。二人は、文左衛門の繰っていくページを隅から隅まで食い入るように見つめた。
「これが、あの有田焼と同じ磁器と呼ばれる焼き物なのだ。」
 民吉親子は、瀬戸村で、ずっと焼き物を作ってきた。ところが、瀬戸の焼き物は、九州有田の磁器と呼ばれる焼き物に押されて売れなくなり、ひどい不景気となった。吉左衛門は仕方なく、焼き物作りを長男に任せて、大勢の農民を募る熱田前新田(名古屋市港区)へ、二男の民吉と働きに来たのだった。新田を取り仕切る文左衛門は、二人のあまりに不慣れな百姓ぶりを見かねて、「ここで焼き物を」と声をかけたのだった。
「今日からまた焼き物作りができる。」
 民吉の心の中に、明るい光が広がっていった。
 文左衛門に教えられて、盃や小皿やはし立てなどを次々に焼きあげていった。しかし、あの固くてつやのあるみごとな細工の有田焼には、かなわなかった。
 その年の暮れ、文左衛門が病でなくなり、二人はその後、息子の津金庄七しょうしちの世話になって焼き物を作り続けた。
 (早く有田焼のような焼き物が作りたい。)
 二人は、借金をして磁器を焼くための丸窯(登り窯)を築いた。しかし、思うようにうまくいかなかった。
「やはり、有田へ行くしかない。」
 津金庄七や瀬戸村の庄屋・加藤唐左衛門とうざえもんらと相談して、とうとう民吉が有田へ行き、技法を学んで来ることになった。しかし、有田ではその頃、技法は秘密でよそ者に教えることを固く禁じていた。秘密を知った者は、生きて帰れないと言われていた。下品野村で、村人にこっそり秘法を伝えていた有田の陶工副島勇七そえじまゆうしちは、連れ戻されてうち首にあっていた。
 (命がけの旅だ。だが、瀬戸村の焼き物のために役立つなら・・・)
 文化元年(一八〇四)二月、民吉は、ついに九州へと旅立った。
 九州・天草島(熊本県)には、さいわい菱野村(瀬戸市菱野町)出身の天中てんちゅう和尚がいた。和尚の計らいで、高浜村の窯場に住み込み、毎日、慣れない蹴ろくろで茶碗を作った。茶碗を作りながら、密かに土や釉薬や窯のことを探った。
 半年後、民吉は平戸の三河内山みかわちやま(長崎県)の窯場に変わったが、働き始めて十日後「よそ者は留めおくことならぬ。」ときびしいお触れが届いて、すぐにそこを離れなければならなかった。
 十二月も暮れになって、やっと平戸ひらど佐々浦さざうら福本仁左衛門ふくもとにざえもんの窯場で働くことになった。
 (よかった。ようやく落ち着いて働ける。早くいろいろ覚えねば・・・)
 民吉は夢中で働いた。
 仁左衛門には、「さき」という娘がいた。さきは働き者で窯場をよく手伝った。
「民吉さんもお茶にしましょうよ。」
 さきは、いつもやさしく声をかけてくれた。さきの入れてくれたお茶を飲みながら、民吉はよく格子窓の向こうの空をながめた。さきも、そっと民吉の横に座って、空を見つめた。
「よう働いてくれる。それにお前さんなかなか腕がいい。ちょうど人手が足りなくて困っておったところだ。本当に助かる。」
 仁左衛門は、しだいに民吉を頼りにするようになった。
 夏になって、仁左衛門は息子の小助こすけとお伊勢参りに行くことになり、民吉に言った。
「留守中、窯場はお前さんに任せる。わからぬことはさきに聞いてくだされ。よろしく頼みますぞ。」
 民吉はうれしかった。さきならきっといろいろと教えてくれるにちがいない。
「さきさん、土に混ぜている白い粉は石の粉だね。」
「そうよ。固い磁器を作るために、天草の陶石を混ぜるのよ。」
「色やつやを出すために、どんな釉薬をかけているんだい。」
「いす灰という灰よ。鮮やかなきれいな色がでるわ。」
 民吉は、さきと一緒に調合した。それから二人で、たくさんの作品を窯詰めした。
 いよいよ窯焚きの日がきた。
 民吉は、さきや手伝いの人たちと薪を燃やし続けてついに、固くつやのある見事な磁器を焼きあげた。仁左衛門は大喜びだった。
「ようやった。今夜はみんなで祝おう。」
 庭にござを敷いて、賑やかに飲んで歌い、踊った。月明りのきれいな夜だった。
「民吉さん、早くいっしょに踊りましょうよ。」
さきに誘われ、見よう見まねで手を上げ足を上げ・・・・。
 星もきらきら輝いていた。
 夢のように二年が過ぎて、民吉は、もう瀬戸村に帰らねばならなかった。
 (さようなら。恩は一生忘れない。)
 民吉の去って行った方を、さきはいつまでも見つめていた。
 民吉は瀬戸村に帰り、学んできたことをみんなに伝えて、さらに工夫をと忙しい毎日を送っていた。いつしか十二年の歳月が流れた。
 ある秋の夕暮れ、民吉の家の前に、一人の女の人と子どもが立っていた。
「あのー、おたのみ申します。ここに民吉さんという人はおられますか。平戸の佐々浦から参りましたさきと申します。
「そ、そんな人ここにおらんでよう。はよ帰りゃあ。」
 家の人は決して民吉に会わせようとしなかった。それは、民吉が佐々浦へ連れ戻され、殺されるのではと恐れたからだった。
 さきは、仕方なく、子どもを抱き寄せると、すがるような目で、振り返り振り返りしては、冷たい風の吹く中を去って行った。
 瀬戸の「白と青との色鮮やかな染付焼」は、民吉たちによって完成され、日本中に評判が広まって、注文がたくさんくるようになった。瀬戸の人々は民吉を磁祖と敬い、毎年九月にせともの祭を催す。けれどきまって、祭りにはよく雨が降る。雨は佐々浦のさきの
「悲しみの涙が雨となって、せともの祭に降るそうだ。」
 いつの頃からか、瀬戸の人々は、そう言うようになった。

曽野のお稲荷さん

そののおいなりさん


伝承地 瀬戸市曽野町
 時代背景 文化14年(1817)、盛淳上人が城州深草の里、荒神ヶ峰田中ノ社より分身を賜い曽野稲荷を勧請した。
 お稲荷さんといえば、初午。初午といえば曽野のお稲荷さんと、昔からお参りする人が絶えません。
江戸時代の終わりごろ(一八一七年ごろ)のある春の夕暮れのことです※1。
 上水野村の曽野の山道を、一人のお坊さんがつかれた足取りで歩いていました。この坊さんは、盛(じょう)淳(じゅん)上人(じょうにん)(稲荷総本山宮、愛染寺別当盛淳上人)といい、山城の国の愛染寺(あいぜんじ)というお寺の身分の高いお坊さんで、修行のため全国を旅している途中でした。春になったとはいっても、日が沈むと寒さがまだ身にしみます。あたりには、人の住む家らしい家もなく、今夜の宿をどこにしようかと困っていると、荒れはてた田んぼの中に、ふと一軒(いっけん)の粗末(そまつ)な小屋らしいものが目にとまりました。そこからは、かすかに明りらしいものがもれています。
 さっそく、むしろ戸(わらで編(あ)んだむしろが入口の戸のかわりに付けてあることをいう。貧しい家の様子を表す。)をたたき、泊(と)めてくれるようにたのむと、その家の主人はこころよく引き受けてくれました。そして、主人といろいろ世の中の話をしていると、となりの部屋から女の人のすすり泣く声が聞こえてきました。上人は不思議に思って、
「あの泣き声は?」と、たずねると、主人は、
「よく聞いてくださいました。実(じつ)は、ずい分前からこの里に年とった白いきつねがあらわれ、村人を苦しめて困っております。そのため、くるい死にする人がでたり、きつねのたたりを恐れて、村を離れる人が多く、里がさびれてしまいました。家のかみさんもそのきつねにつかれて苦しんでいるのでございます。わたしも、どうしたらよいのか分からず、困っているところです。何とか助けていただけないものでしょうか。」
と、涙を流してたのみました。それを聞いて、
「そうでしたか。それならば、わたしが日ごろ尊敬している神様のお力によって、助けてあげましょう。」
と、言って西の方を向き、両手の指をむすんでじゅ文をとなえました。
 すると、不思議なことに、それまで苦しんでいたおかみさんは、悪い夢からさめたようにおだやかな顔になり、安心して眠りにつきました。
それを見て、主人は大変喜び、
「ああ、ありがたいことです。ぜひ、あなた様の守り神をわたしどもの里へも、おまつりさせてください。」
と、たのんで、上人がおつかえしていた山城の国の田中の社から、神様を分けてもらい、曽野の山の上にまつりました。
 それからというもの、白いきつねも、ぱったりと出なくなり、里の人たちも安心して暮らせるようになりました。
 このお宮さんが「曽野のお稲荷さん」で、毎年旧暦の二月の初午の日には、このあたりの人々をはじめ、遠くからも大ぜいの人がお参りに集まり、盛大なおまつりが行われています。
※1 文化14年(1817)、盛淳が城州深草の里、荒神ヶ峰田中ノ社より分身を賜い曽野稲荷を勧請した。梶田義賢著「曽野稲荷大明神縁起記」

立石

たていし


伝承地 瀬戸市?町
 時代背景 慶長年間(1596-1615)、名古屋築城は慶長15年(1610)。
 水野立石(あるいは、屹立石(きりついし)ともいいます)という石が、むかし、中水野の感応寺の近くにありました。
 この石は、もと小金山(おがねさん)のほら穴の中にあり、高さ一??余り(三・三メートル)のみごとなものでした。
 慶長年間(四〇〇年前)※1、名古屋所城をつくるときに、石だたみ用として、役人や村人が、ほら穴から持ち出しました。
 この石を、中水野村まで運んできたとき、不思議にもにわかに重くなり、びくとも動かなくなりました。役人や、村人たちは困ってしまい、みんなでいろいろ話し合いました。
「これは、感応寺の観音さまが、石を持ち出すのを、おしまれたからじゃろう。」とい声があがりました。これには、
「なるほど。そうかもしれん。」と、うなずく者も多く、とうとうそこに置くことになりました。
 しかし、宝暦(ほうれき)のはじめ(二二〇年前※2)、大洪水がおこり、この石は倒れ、山崩れで土の中に埋まってしまいました。
 今では、名前こそ残っていますが、もうこの石を見ることはできません。
※1 「(四〇〇年前)」
慶長年間(1596-1615)、名古屋築城は慶長15年(1610)。
※2 「二六〇年前」
宝暦の洪水 宝暦3年(1753)の木曽三川の洪水

ちゃぼ

ちゃぼ


伝承地 瀬戸市三沢町
時代背景 戦国時代には織田信長の家臣であった磯村左近が一色山城に居城するが、天文年間(16世紀中)に品野城の松平家重らの軍勢と余床町の「勝負ヶ沢」で戦い左近は戦死したと伝えられる。
 金鶏伝説(きんけいでんせつ)は、山や塚に埋められた金鶏が、多くは元旦に鳴くという伝説で、このような伝説は日本全国各地に数多く伝えられている。

 むかし、水野村の一色(いっしき)山に立派(りっぱ)な、美しいお城がありました。このお城の名前は、一色城と言い、またの名を城ヶ(しろが)嶺(ね)城とも、五万石(ごまんごく)城とも言って、村人たちの自慢(じまん)の城でした。この城は、左近(さこん)という殿様(とのさま)のお城でした。
殿様は、朝と夕方になると、お城の庭(にわ)に出て、東谷山(とうごくさん)や水野川の両わきに広がる田んぼをながめ、農家の人たちの働(はたら)く姿(すがた)を見るのをとても楽しみにしておりました。そして碁(ご)がとても好(す)きでした。今日も、近くの感応寺(かんのうてら)へ行って、お尚(しょう)さんとのんびり碁をうっておりました。
 春の日差しが部屋まで入り込み、とても気持ちのよい昼下がりで、むすめの倶姫(ともひめ)のことやいろいろ話をしながら碁を楽しんでいる最中に、家来(けらい)の者があわててかけ込み、
「お殿様、大変(たいへん)でございます。今、お城が攻(せ)められております。お急(いそ)ぎください。」と知らせました。でも、殿様はゆうゆうとして、
「何を言う。白は、こちらが先手(せんて)じゃ。」と、少しもあわてませんでした。碁に熱中のあまりお城のことなど、頭にありませんでした。碁が終わってから、城に帰ってみると大変でした。品野の落合城の侍(さむらい)たちが城を攻(せ)め落とした後でした。殿様は、
「ひきょう者め、わしが留守(るす)の間に城を攻め落とすとは、わしが追っかけて逆(ぎゃく)に滅ぼしてやる。」というなり、一人で追いかけました。余(よ)床(どこ)まで追って、敵に追いつきました。
「わしは、一色城主 左近だ。」と、名のり、勇(いさ)ましく戦(たたか)いましたが、相手は大変(だいへん)な数で、ついになすすべもなく敗(やぶ)れてしまいました。
 この悲しい知らせを聞いた一人娘の倶姫は、大変悲しみました。姫は、日ごろお父さんをしたっていたので、自分ももう生きてはおれないと小さな胸を痛(いた)めました。殿様が大切にして床の間にかざっていたちゃぼをしっかり抱(だ)いて火でくすぶっている城のうらに出ました。そして、姫はちゃぼを抱いたまま、井戸(いど)へ若い身を投げて死んでしまいました。その日は、一月一日の明け方でした。
 その後、一月一日になると不思議なことに一色山の頂上から、姫をなぐさめるかのように、「コケコッコー」というちゃぼの美しい声が周辺の山々に、そして村々に聞こえるようになったそうです。
⇒ 「一色山城(水野城)」の項参照

長命井

ちょうめいせい


伝承地 瀬戸市本地地区?
 時代背景 清州城と信長 弘治元年(1555)、信秀の後を継いでいた信長は、一族の織田信友を滅ぼして那古野城から清州城に移った。信長は桶狭間の戦い(永禄3年(1560))に出陣したのは清州城からである。
 むかし、本地の植田に尼寺(あまでら)があり、この寺の水は、尼さんがいつも水をくんで使い、代々長生きをしたそうです。その中で、隋円(ずいえん)という尼さんは、一三六歳まで生きたということです。そのようなわけで、だれ言うともなく、この井戸の水を飲む者は必ず長生きをするということで、長命井と名付けられたそうです。
 この井戸のことを、このあたりのお年寄りに聞いてみたら、次のような言い伝えを話してくれました。
 今からおよそ四〇〇年ほど前※1、この長命井のうわさを耳にした清州(きよす)のお殿様は、長く生きようとおもったのでしょうか、
「本地というところへ行けば、長命を保つという井戸があるそうだ。そのいわれのある水をくんでまいれ。」と、言いつけました。
 家来はさっそく、その水をくみに出かけて行きました。
 こんこんとわき出る水をひょうたんにくみ、腰にぶら下げて急いで帰りました。何のはずみか、早く届けようとして、そそうし、その水をこぼしてしまいました。
 皮肉なことに、この水はとうとう清州城へ届かず、信長の口には入らなかったということです。
 なお、この隋円の用いた茶釜や、その当時祀ってあったという薬師如来(やくしにょらい)は、本地の海雲山正覚寺(かいうんざんしょうかくじ)にあると、言い伝えられていたが、今ははっきりしていません。
 長命井の跡がなくて残念ですが、もし、昔のままであったなら、興味深いものです。しかし、つくりかえられた井戸が、今でも水をたたえています。
※1 「今からおよそ四五〇年前」

妻の神

さいのかみ


伝承地 瀬戸市下半田川町
むかし、下半田川しもはだがわ村に小治呂こじろ稗多古ひたこという兄と妹が住んでいました。こんな山奥の村では、想像そうぞうもできないほどの、それはそれは美しい兄と妹でした。
二人はだんだん年ごろになり、結婚けっこんしたいと思うようになりました。しかし、近くに住む若者たちは、とても兄と妹の美しさにはかなわず、なかなかよい相手が見つかりませんでした。兄は、
「せめて、自分の妹ほどの、むすめがこの世にいたらなあ。」
と思っていました。妹は妹で、
「せめて、自分のお兄さんほどの、若者がこの世にいたらなあ。」
と、思っていました。
ある日、兄は妹に、
「いくら二人がこうしていても、このままでは思うような相手が見つかりそうもない。日本の国は広い。きっと、どこかにすばらしい人がいるだろうから、いっそ思い切ってこの村から旅立とう。二人が別れるのはつらいけど、おたがいに思う相手が見つかるまでは、別々に旅にでかけよう。」
と、言いました。
二人は、別れるのがつらくて涙を流しながら、それぞれの相手をさがすために、ある夜こっそり村人に気付かれないように、別々に旅立って行きました。
人のうわさも七十五日(世の中の評判は長く続かない。七十五日もすれば忘れられてしまうということ。)といわれるように、月日がたつにつれて、村人たちは小治呂と稗多古のことをすっかり忘れてしまいました。
ある日のこと、この村に夫婦ふうふかと思われるような二人づれの旅人がつかれた様子で歩いていました。そして、その夜、数年前美しい兄と妹が住んでいた家に久しぶりにあかりがともり、夜おそくなるまで、すすり泣く声が聞こえてきたということです。
あくる朝、不思議ふしぎに思った村人たちがこの家の中をのぞくと、どうでしょう。きのう見かけたあの旅人二人が、いきえではありませんか。男の方は、それでも苦しい息の下から、
「わたしたちは、この世で思うような相手を見つけることはできません。日本国中くまなく探し求めて、やっと見つけた美しい人は、実は何年か前に別れた自分の妹でした・・・。とうていこの世では、おたがいに相手になる人はいない。もう生きる望みもなくなった・・・。わたしたちは不幸に探せなかったが、神になって今後の若い人のために縁結えんむすびの役にたちたい・・・。」と、言って息がえました。
村人たちは、あまりの悲しいできごとに、涙を流しながら、二人を手厚くほうむりました。そして、一体の石に二人の姿を刻み、そこにやしろを建ててまつりました。
これが縁結びの神として知られる「妻の神」です

出典 瀬戸・尾張旭郷土史研究同好会『せと・あさひのむかしばなし1 おしょうさんにしかられた龍』(1999年)

お五輪さん

おごりんさん


伝承地 瀬戸市吉野町
 山口の屋戸(やと)というところに、観音(かんのん)山と念仏(ねんぶつ)山とがあります。この二つの山を、昔から「おごりんさん」と、言っていました。
 観音山には、五輪の塔(とう)が三体ならんでいます。その中で、一番高いのが、松原下総守(しもふさのかみ)の墓だと言われています。それとならんで、小さな塔が二体あります。
 この他に、一体が念仏山の南にあり、家来(けらい)の墓だと言われています。また、このあたりには、多くの家来の墓もあるだろうと言われています。
 念仏山のふもとの人々は、その当時、下総守やその家来たちが安らかに眠るのを願って、念仏をとなえ、供養してきました。それで、念仏山と言われるようになったのだろうと言うことです。
 時代が移り変わるにつれ、下総守や家来たちの供養がうすらぎ、いつとはなく地元の人たちへの供養と変わっていきました。
 立秋がすぎ、旧盆が近づいてくると、村の子どもたちは、
「初盆(はつぼん)の家は、どこだか知っているか。」
「山田さんの家だ。ようけ、お供えがあるのでいいぞ。」
「はよう、お盆がくるといいなぁ。」などと、お盆のくるのを指折り数えて、楽しみにしていました。
 旧盆の八月一三日
「きょうは、おしょろいさんがお客においでるでな。」と、どこの家でも仏壇や家の中をきれいにし、ご馳走をつくって迎えの準備で大忙しです。そして、夕方近くになると、あちらこちらの家の庭先で、迎え火のあかりが見え始めます。
 初盆の家では、
「ことしは、念仏山で村の人たちがお経をあげておくれるで、はよう迎えに行かないかんぞな。」と、花、線香、ろうそく、たい松など取り揃えて、家の人をはじめ、親戚一同がそれってお墓へお参りに行きます。そのあと、百八のたい松に火をつけて、お墓から家まで歩きます。
 念仏山では、村の人たちがたい松を燃やし、おしょろいさんおくるのを待っています。日がくれて、あたりが暗くなると、やがて初盆の家の人がお供えを持って、山へ上って行きます。そして、たい松のあかりを囲み、戒名(かいみょう)を言って、チンチンかねをたたきながら、
「ナムアミダブツ。ナミアミダブツ。」と、声高らかにお経をあげます。お経が終わると、家の人がお礼のあいさつを言って、お供えの菓子や酒をふるまい、しばらくいろいろな話をしながら、食べたり、飲んだりします。
 このようにして、初盆の供養をしています。これは、村の行事の一つです。
 この念仏山は、信仰(しんこう)の山として、供養の行事が引き継がれ、そのうえ、「お五輪さん」という愛称(あいしょう)をもらって、今日にいたっています。

てんぐの弾蔵さん

てんぐのぜんぞうさん


伝承地 瀬戸市若宮町
時代背景 常夜灯が奉納された寛政十一年(1799)
私は山口村に住んでおり、名前は弾蔵(だんぞう)と申し、父の名は猶(ます)七(じち)、母の名はおたけ、兄弟は九人あり、私は末っ子で別居しており、妻(つま)おすきとの間に五人の子があります。
さて、寛政十一年十二月七日、用事があって海上(かいしょ)へ行き、多度(たど)権現(ごんげん)の鳥居先(とりいさき)を通ろうと社(やしろ)の方を見ると、社の片すみに一人の老人がヒョッコリ現(あらわ)れました。不思議(ふしぎ)に思いながら行き過ぎようとすると、その老人が、
「お前さんはどこへ行かれるのか。その方に頼(たの)みたいことがある。」と言いました。
「私はこの海上の松(まつ)右衛門(えもん)さんに、用事があって参(まい)ります。」
と言ってその場を立ち去ろうとすると、
「では、しばらく待っていよう。私には、このごろ供(とも)の者がいない。三年の間、お前が供をしてくれないか。」
と申されるので、
「私には、妻や子もあります。それに、もう六十歳にもなりますから、どうぞお許(ゆる)し願います。ともかく、海上の用事をすませとうございます。」と言うと、
「では、その間ここで待とう。」
と申されたので、いそいで松右衛門さんの家へ行き、用事をすませたあとで、さきほどのことをこと細かく話しました。
松右衛門さんは
「そりゃ、化(ば)け物のしわざじゃないか。」とびっくりされました。
そこで私は、
「じゃあ、お前さんも一緒(いっしょ)に来てみてください。」
と言って、みんなで先ほどの森の鳥居のそばへ行ってみますと、例の老人は元のところに待っていました。
私は前へ進み、手をついてお断(ことわ)りしましたが、私以外の人には声は聞こえても老人の姿を見ることはできませんでした。
老人から、
「私は、高い山を巡(めぐ)り歩く天狗(てんぐ)だ。さきほどから申すとおりぜひ供をしてくれよ。」
と、強く頼まれましたので、何回もお断りしたのですが、とうとう私は供をすることにしました。
そこで、松右衛門さんに
「お供をすることにしたので、このことを妻や子に伝えてください。」と言って、社の前で手を洗(あら)い、口を清(きよ)めました。こうする間に、松右衛門さんたちには私の姿が見えなくなってしまったそうです。
さて、私はその時、大木に登るにも、大地を行くように身が軽くなりましたが、高いこずえの細いところでハッと目まいがして、何もかも分からなくなってしまいました。
気がついたとき、
「ここはどこでしょうか。」
と、お尋(たず)ねしてみたら、
「上州(群馬県)筑波山(つくばやま)だ。」
とのことでした。
男体(なんたい)権現(ごんげん)、女体(にょたい)権現をおがみ伊勢(いせ)の浅間山から讃岐(さぬき)の国の象(ぞう)頭(ず)山へ飛んで、金毘羅(こんぴら)大(だい)権現をおがみました。
それからどこの国の高山か分かりませんが、あちらこちらと飛び回りました。
そして、どこか大きな森のあるところに下りました。
「ここはどこのやまですか。」
と天狗(てんぐ)さまにお尋ねしたら、
「善光寺(ぜんこうじ)の山だ。」と申されました。
私は急に故郷のことを思い出して、
「帰りたい。」
とお願いしたら、すぐに聞いてくだされ、膏薬(こうやく)の作り方や、のどに物がささったのを取る方法や、馬や牛の病気をまじなう方法なども教わりました。
はじめて自由の体になって、山を下り身につけていたぼろぼろの着物を着替(きが)えて、その年の十二月七日、ちょうど三年前の同じ日に帰り着きました。
そうして、天狗さまから教わった膏薬を練り、試してみましたら、よく効くことてきめん、近くの村はもちろん遠いところからも、われもわれもと、たくさんの人が訪(たず)ねて来られ、小さな私の家はいっぱいで、行列(ぎょうれつ)ができたほどでした。とてもだめだと言われた病気もこの膏薬を塗ると不思議や不思議、たちまち治ってしまいました。
弾蔵さんは、その後お金をもうけて、本泉寺(ほんせんじ)の一隅(ひとすみ)を借り、「奉納(ほうのう)諸山(しょざん)」の碑と常夜燈(じょうやとう)を奉納(ほうのう)されました。

奉納諸山碑と弾蔵の常夜燈

おしょうさんにしかられた龍

おしょうさんにしかられたりゅう


伝承地 瀬戸市定光寺町
定光寺の本堂(ほんどう)裏(うら)の小高い丘に、尾張藩(おわりはん)の殿様であった徳川(とくがわ)義(よし)直(なお)公(こう)(徳川家康の第九子)のお墓があります。その入口に龍門(りゅうもん)と呼ばれる門があります。その門の天井に、狩(かり)野(の)元信(もとのぶ)が描いたと伝えられている龍の絵があります。この龍は、人が寝静(ねしず)まると、門から百メートルほど坂を下ったところにある池に、毎晩のように水を飲(の)みに行くということです。
 真夜中になると、嵐(あらし)のようなざわめきに続いて、玉を転(ころ)がすようなとてもきれいな声の歌が聞こえてきました。いつも不思議(ふしぎ)に思っていたお尚(しょう)さんは、ある晩、雨戸を少し開けてすき間からじっと息をころして、外の様子(ようす)をうかがっていました。すると、どうでしょう。龍門の天井におさまっているはずの龍が、
「ああ、今晩も退屈(たいくつ)じゃ。どれ、のども渇(かわ)いたことだし、ちょいと水でも飲んでこよう。」と言いながら、山を揺(ゆ)るがし、嵐(あらし)のように池のふちまで行き、ぐびぐびと水を飲みはじめました。池の水がそんなにおいしいのでしょうか。目をつり上げ牙(きば)をむき出したいつもの恐ろしい顔とはうって変わって、龍は目じりを下げ、いかにも穏(おだ)やかな表情で、
「ひと口飲んではコオロ。ふた口飲んではコオロ、コロ。み口飲んでは、コオロ、コロコロ・・・。」と、気持ち良さそうに歌っています。お尚さんは、すっかり驚いてしまいました。そこで、さっそく、この池を龍吟(りゅうぎん)水(すい)と名づけました。
 ところが、ちょうどそのあと、
「どうも、近(ちか)ごろ、うちの田畑(たはた)が荒(あ)らされて困(こま)っとるが、おまあさんとこは、どおやな。」
「うん…。ほう言われや、おれんとこも、きんのう、なすがぎょうさん、ちぎられとったが、悪うやつがおるもんやな。」
「ほうや。うちのおっかぁもこの前、「いもを洗って、いかけに干しとったら、ひと晩のうちに全部のうなっとった。」と、怒(おこ)っとったがや。」と言う村人の声がお尚さんの耳に入りました。そういえば、龍は水を飲んだ後、ときどき上機嫌(じょうきげん)で村里へ下りて行くことを知っていたお尚さんは、
「これはきっとあの龍のしわざにちがいない。ことが大きくならないうちに、なんとか手をうたねばならない」と考えました。
 そして、あくる日、お尚さんは心を決(き)めて、龍門の龍に、
「やい、おまえ、そもそも源(げん)敬(けい)公(こう)(義直公の別名)の御霊(みたま)を守る役目にありながら、よくも役目を怠(おこた)ったな。そればかりか、村里の田畑を荒らすとは、もってのほか。覚悟(かくご)せい。」と言うが早いか、ふところに隠(かく)し持っていたのみを龍の目にうちこんで、龍が天井から降りられないようにしました。すると龍は、
「わたしが悪うございました。これからは、一歩たりともここを離れず源敬公の御霊をお守りしますから、これまでのことはどうぞお許(ゆる)しください。」と、大粒(おおつぶ)の涙(なみだ)を流しながら、すなおにお尚さんにあやまりました。
 それ以来、龍が龍門の天井を離れたという話は聞かれなくなりましたが、あの美しい龍の歌声も聞かれなくなりました。きっとこの龍は、お尚さんの言いつけ通り、今も龍門の天井から源敬公の御霊を守り続けていることでしょう。