一里塚本業窯

いちりづかほんぎょうがま


瀬戸市指定建造物 1基
昭和50年7月21日指定 所在地 瀬戸市一里塚町
所有者 水野雅之
文化財 全長16メートル・最大幅9メートル
時代 昭和25年再建

「本業窯」は連房式登窯の一種で、江戸時代以降専ら陶器本業製品を焼成する窯として使用され、磁器製品を焼成した「丸窯」と共に瀬戸を代表する窯炉であった。
本窯は昭和25年に東洞町に在った13連房の奥洞窯の窯材を使用して再築したもので、胴木間・捨間・四の間までの焼成室、煙室(コクド)など以前の構造をよく残している。昭和50年に文化財指定を受けるまで、火鉢・水甕・擂鉢などを年3回ほど焼成していたが、擂鉢だけなら約1万個を焼成することができたという。昭和63年に、窯鞘(屋根)の葺替工事を実施している。付属するツク・タナ板などの窯道具類も指定に含まれている。

一里塚本業窯

直入橋

ちょくにゅうばし


瀬戸市指定建造物 1橋
昭和58年6月1日指定 所在地 瀬戸市定光寺町
所有者 定光寺
文化財 石造、長さ9.4メートル、幅 2.6メートル
時代 江戸時代前期(承応二年)

応夢山定光寺の参道入口の池に架かる橋で、「直入橋」という。『尾張名所図会』の中では「下馬橋」と記されている。この橋は尾張藩二代藩主徳川光友が、時の奉行熊谷政実に命じて架設させた石橋で、承応二年(1653)2月に着工し、同年5月に完成している。
直入橋は全て花崗岩製で、その構造は池両岸の石積みに長さ6m以上もある3本の橋桁を渡し、その橋桁に主な橋部を組み合わせている。江戸時代には、池に蓮を植えたり、参道に桜並木を作るなど、橋と良く調和した風景であったため、定光寺における優れた景勝である「応夢山十境」の一つとされていた。

直入橋

石燈籠(神明社)

いしどうろう


瀬戸市指定建造物 1基
平成4年2月21日指定 所在地 瀬戸市落合町
所有者 神明社(境内)
文化財 総高196センチ
時代 江戸時代前期(明暦四年)

神明社は旧下品野村の氏神であり、その由緒には「社伝明らかならずも、本朝元中七年(1390)後亀山天皇の御世創設」とある。
長い石段を登った本殿前にある六角円柱型の石燈籠(花崗岩製)は、瀬戸市内に在るものの中で最古の記年銘をもつ。総高196センチ、宝珠と笠の部分が一体化し、特別な装飾をもたないシンプルなものとなっており、保存状態も良好である。竿の銘文に「奉壽進御寶前 明暦四年戊戌林鐘吉日 下品野村村上長次郎寄進」とある。村上長次郎は、品野窯を再興した加藤新右衛門系譜にある人である。そのため、藩政時代の下品野村における窯屋の由来を知る歴史性も有している。

石燈籠(神明社)

石燈籠(八幡社)

いしどうろう


瀬戸市指定建造物 1基
平成5年2月19日指定 所在地 瀬戸市八幡町
所有者 八幡社(境内)
文化財 総高178センチ
時代 江戸時代前期(延宝七年)

八幡社は江戸時代には山口村及び近隣村の総氏神として崇敬されていた。明治5年に郷社に列挌され、幡山地区及び長久手上郷地区24ヵ村の総社となった。
瀬戸市内最古の石燈籠は旧下品野村神明社の石燈籠(明暦四年銘)で、本件はそれに次いで古いものである。石燈籠は花崗岩製で、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基礎の6部分に別れ、笠には六つの太い蕨手が付く。三味線胴型にふくらんだ六角火袋、力強い竿は大振りで堂々としており、均整がとれている。「延宝七己未九月十五日」の記年銘がある。境内にある石造鳥居も同時期に築造されていることから、この頃に大規模な神社の再建が行われたようである。

石燈籠(八幡社)

石造鳥居(八幡社)

せきぞうとりい


瀬戸市指定建造物 1基
平成5年2月19日指定 所在地 瀬戸市八幡町
所有者 八幡社(境内)
文化財 高さ308センチ、幅386センチ
時代 江戸時代前期(延宝五年)

延喜式神名帳の山田郡19座の中の「小口神社」は山口神社とされ、地域の総氏神として崇敬されてきた。境内には多くの末社が合祀され、棟札も多数残されている。
神社鳥居は近世以前その殆どが木造であり、明治以降順次石造鳥居に造り替えられてきた。瀬戸市内38基(平成4年現在)の石造鳥居の内、近世以前に建立されたものは、本件と赤津の大目神社(宝暦五年銘)の2基のみである。
鳥居は、花崗岩製・明神鳥居で、やや小型ではあるが均整がとれていて姿は美しい。「延宝五年丁巳閏十二月吉日 尾州愛智郡山田庄山口村氏子(以下判読不明)」とあり、瀬戸市内最古の鳥居である。

石造鳥居(八幡社)

洞本業窯

ほらほんぎょうがま


瀬戸市指定建造物 1基
平成7年2月13日指定 所在地 瀬戸市東洞町
所有者 水野半次郎
文化財 全長14メートル、最大幅7メートル
時代 昭和24年再建

本窯も一里塚町の本業窯と同じ構造の連房式登窯である。この本業窯2基は奇しくも「奥洞本業窯」として活動していたが、昭和23年に解体された。同24年に本窯(半次郎窯)、同25年に一里塚窯(義郎窯)として同じ窯グレ(炉材)を使用して移築された。そのため、同じ構造とほぼ同様規模を持っている。本窯も昭和54年5月の焼成を最後に現在まで使用されていないが、次の焼成のための松割木(燃料)や窯道具のツク・タナ板などが準備されており、それらも一括指定されている。
奥洞窯は代々水野半次郎家の本業窯で、明治・大正・昭和と稼働した。最盛期には13連房の焼成室を有していた。

洞本業窯(胴木間)
洞本業窯(焼成室)

石造鳥居(大目神社)

せきぞうとりい


瀬戸市指定建造物 1基
平成8年2月9日指定 所在地 瀬戸市巡間町
所有者 大目神社(境内)
文化財 高さ387センチ、幅570センチ
時代 江戸時代中期(宝暦五年)

大目神社は猿投山の裾野の鎮守の森に座し、赤津地区の氏神として敬われており、祭神は八柱王子。明細帳に「当初勧請年月不詳と雖も延喜神名帳に大目神社、本国帳に従三位大目神社と載せる処の神社」とあり、建立年月は定かでないが、平安時代初期の延喜神名帳に載る古い神社である。境内に古墳も有する。
鳥居の形式は明神鳥居で、笠木が二重になり、反りをもち、柱が内側に傾く(ころぶ)。柱に「宝暦五年乙亥九月吉日」の記年銘があり、瀬戸市内の石造鳥居では山口八幡社の石造鳥居(延宝五年銘)に次いで古いものである。規模が大きく威風堂々とした風格を感じさせる。

石造鳥居(大目神社)

古窯

こがま


瀬戸市指定建造物 1基
平成9年2月14日指定 所在地 瀬戸市西郷町
所有者 瀬戸市
文化財 全長6.4メートル、最大幅4メートル
時代 昭和22年再建

古窯は、本業窯・丸窯と共に近代に活躍した代表的登窯の一種である。一般的に  は小型で急勾配、縦狭間構造であり、小型磁器製品を焼成する窯として使用された。現在、瀬戸市内に完全な姿で残されている最後の古窯である。
所有者であった伊藤伊平氏は代々古陶園竹鳳を号した5代目の染付窯屋である。元の窯は現在地より南東の経塚山の山麓斜面に位置し、5連房で現在のものよりかなり大型の窯炉であった。第2次大戦中の企業合同を経て、昭和22年に現在地に同窯材を使用して再築した。本業窯の胴木間にあたる焚口は2個、3連房の登窯で昭和39年暮の最終焼成まで、年間6~7回使用された。現在は瀬戸染付工芸館の保存・展示施設として活用されている。

古窯