屋戸町

やとちょう


昭和56年3月31日、大字名を廃止し町名を設定。もとは山口の一部。江戸期の村絵図には「屋頭島」と記す。山口八幡社の警固祭りに使用される9本の銀鷹の矢のまといだしは、武田信玄の武将山田信濃守の物見ヶ嶺の大蛇退治の言い伝えが馬標となっている。町の西境には大坪町に続く条里遺構があり、集落が嚆矢の誇りにこの字をあてたという。

水無瀬町

みなせちょう


昭和18年8月9日、大字名を廃止し町名を設定。もとは今の一部。大雨が降らぬ限り水の流れがほとんどないところから、水無瀬川と呼ばれるようになったといわれる。町名設定の際、この水無瀬川北岸地区がこの川の名をとって町名にした。

緑町

みどりまち


昭和38年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは菱野の一部。昭和60年からはⅠ~2丁目がある。菱野団地の南西に隣接し、今は住宅地域となっているが昔は小松がうっそうと茂り、溜池(青池)などもあり、緑地であったそうで、そこから緑町と名付けられたと伝わる。一部が昭和53年原山台1~8丁目、同55年八幡台1~9丁目、同60年白山町1~2丁目となり、同年赤重町・幡野町・山口と境界変更。
→古窯・釜ヶ洞古窯跡群

柳ヶ坪町

やながつぼちょう


昭和56年3月31日、大字名を廃止し町名を設定。もとは山口の一部。当地を含め山口川右岸の若宮町から石田町までと、左岸の大坪町地区は古代条理制の遺構をもち、碁盤目状の地割・用水路網がよく残されていたが、戦後の土地改良で消失した。

余床町

よどこちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは上水野のいちぶ。古くは夜床・与床と称したようで、『尾張徇行記』には上水野村の項で「夜床ハ本郷ヨリ丑寅ノ方ニ当リ、一里十町程ヘダチ下品野村沓掛村ヨリノ山隅ニアリ、二区ニ分レ家ハ二十戸ホトアリ」とある。昭和56年曽野町の一部を編入。

宮里町

みやざとちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字池田の一部。1915年(大正4年)頃、深川神社の東側に道路ができてこの一帯を新開地と呼んだが、その後宮裏と呼ばれるようになった。町名設定の際、住民が〝裏〟を嫌ったので、宮里町と名付けたと伝えられている。

吉野町

よしのちょう


昭和56年3月31日、大字名を廃止し町名を設定。もとは山口の一部。当地は、古くから吉田洞、吉田島と呼ばれた。
→広久手第30号窯跡・瀬戸市指定史跡
→吉野遺跡
→古墳・吉田・吉田奥古墳群
→古窯・広久手古窯跡群

宮脇町

みやわきちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字宮脇の一部。深川神社の東で大変に古く500年ほど前から人が住んだ様で文献にも宮脇五軒島と出ている。