中心市街地の活性化を目的とした「瀬戸川文化プロムナード」計画のなかで、瀬戸川(瀬戸大橋~記念橋)・瀬戸川プロムナード線の整備とともに橋梁の整備が進められており、瀬戸記念橋人道橋が完成し平成21年(2009)9月11日に渡り初め式が行われた。
記念橋人道橋は、やきもの装飾が施されている。瀬戸市制80周年に合わせて瀬戸ロータリークラブが寄贈した。同会員の陶芸家亀井勝、加藤令吉、加藤唐三郎、森脇文直、加藤孝爾が手掛け、親柱台座の上部は炎をイメージしたモニュメント、欄干には陶板が設置されている。また、親柱には栗木伎茶夫が揮毫した橋の名前入りの銘板がはめ込まれ、欄干上部にはガラスの展示ケースが設置されており、瀬戸陶芸協会会員の作品が展示されている。
カテゴリー: 橋・公園・開発
バカ道路
戦時中に市民の家屋を強制的に立ち退かせて建設した防火帯、宮前南北道はその強引さとバカ広さから「バカ道路」と呼ばれた。
共栄橋
きょうえいばし
大正14年(1925)の大水害で、県道名古屋瀬戸線の瀬戸駅付近と今村付近の瀬戸川南岸堤防がくずれ、この災害によって新しい道路の建設運動が今村でおこり、耕地整理で計画されたのが八間道路で、昭和のはじめには、まず現在の市役所前付近から共栄橋までの間が完成した。昭和14年(1939)頃から隣りの旭町で、県道名古屋・瀬戸線の改修のための土地買収がはじまり、昭和12年(1937)末には共栄橋が改築され、昭和18年(1943)末に名古屋・瀬戸線の路線変更が行われ、共栄橋~八間道路が県道となった。
昭和12年(1937)に架橋されたもので老朽化により、平成7年(1995)10月から工事がはじまり平成9年(1997)9月17日に完成をみた。
中馬街道
ちゅうまかいどう
中馬は、江戸時代に信州の駄賃馬稼ぎ人たちがつくっていた同業者の組合で、「賃馬」(ちんば)などの語源と言われる。五街道などの伝馬と異なり、宿場ごとに馬を替える必要のない「付通し」あるいは「通し馬」と呼ばれる仕組みで行われた。
瀬戸街道も、馬による輸送業者の信州中馬が陶器や生活物資を運ぶのに利用した産業道路である。
蔵所橋
くらしょばし
「蔵所」という地名は江戸時代、尾張藩がやきものの生産販売を統制し藩の財源を確保するため、この地に御蔵会所という役所を置いたことに由来している。明治以降も、官庁などがここに集中し当時としては立派な木橋が架けられていた。大正末期の大水害のあと、コンクリート橋が架設され、戦後再築されて平成の時代に至っていた。
中心市街地の活性化を目的とした「瀬戸川文化プロムナード」計画のなかで、瀬戸川(瀬戸大橋~記念橋)・瀬戸川プロムナード線の整備とともに橋梁が検討され、蔵所橋と南橋は道路橋としての役割を終えることになり、平成21年(2009)11月初旬取り壊され、長い歴史を見つめてきた橋が姿を消した。
殿様街道(定光寺街道)
とのさまかいどう(じょうこうじかいどう)
尾張藩の藩祖、徳川義直の廟所がおかれている定光寺と名古屋城下を結ぶのが定光寺街道で、歴代の藩主が参拝する時に利用したことから俗に「殿様街道」と呼ばれていた。
この街道は、名古屋大曽根から信州飯田街道で東進し、現在の尾張旭市の「砂川」の交差点から少し東の「つんぼ石」で左へ折れ、城山公園の前を通って、濁池、森林公園の乗馬場から瀬戸市水野団地、水野の東光寺、そして寺の東を北へ祠堂山の麓にそって山道を進んで定光寺へと続く道である。江戸時代、街道筋の村々に対しては、村ごとに人足を出させるなど街道の整備にも力を入れていた。坂の急な丘陵上のルートを避けて庄内川沿いから正伝山の南の沢から定光寺へ抜ける道もあり、「姫街道」とも称したという。
殿様街道は定光寺からさらに東に延び、下半田川を通り美濃笠原村へとつながっており、下街道脇道とも呼ばれ、ここから下街道を経て中山道に通じており、祖廟参詣のための街道だけの街道ではなく、生活道路でもあった。
公園橋
こうえんばし
大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められ、公園橋も昭和2年(1927)にできた。その昔、この橋はお猿橋と呼ばれていた。
「やきものを使った街づくり事業」の一つとして整備されたもので、平成6年(1994)8月30日に13番目の橋として完成をみた。鳥のノベルティを貼り付けた透かしの磁器板を高欄にはめ込んでいる。歩道も、地場産品である煉瓦タイルが舗装されている。
三州街道
(三州小原道・八草道・広見道)
さんしゅうかいどう
今村東端の追分で飯田街道から分かれ、三河に通じる街道は三州街道と言われていた。三州街道は瀬戸村の十三塚を通り、瀬戸川沿いを東進すると東本町付近で東行きと南行きに分岐する。東向きのルートは、祖母懐・今坂を抜け赤津村に入り、赤津盆地の北側を通って白坂雲興寺門前を過ぎ、戸越峠を越えて戸越村飯野(現豊田市藤岡)に通じていた。飯野の先に小原村や足助村に通じていたため、三州小原道あるいは三州小原足助道と呼ばれていた。
南向きのルートは、瀬戸坂を越えて山口村に入り、大坪あたりで山口道と合流し、その南で南進する三州八草道と南東尾根筋に向かう三州広見通とに分かれている。三州八草道は挙母(現豊田市)を経て岡崎に、三州広見通は力石(現豊田市)を経て足助村に通じており、中でも後者は猿投神社への参詣道でもあった。
十三橋
じゅうさんばし
大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められた。十三橋もこの大洪水で流れたため、架け替えられた。この橋は上流から順に刎田橋、藤四郎橋、公園橋、東橋、中橋、宮脇橋、神明橋、宮前橋、蔵所橋、窯神橋、南橋、瀬戸橋の次、十三本目の橋ということで「十三橋」と命名されたと云われているが定かではない(記念橋、山脇橋は十三橋より後で架けられた)。
その後、昭和27年(1952)12月に改築され、その後平成9年(1997)から3か年の継続事業で架け替え工事が行われ、平成12年(2000)3月21日に完成した。高欄はやきものではなくステンレス製で、デザインは住民参加によるワークショップで決定した。
笠原道
かさはらみち
定光寺街道(殿様街道)は定光寺からさらに東に延び、下半田川を通り美濃笠原村へとつながっており、下街道脇道とも呼ばれ、美濃側では下街道を経て中山道に通じていた。この道は笠原道と呼ばれ、古くは南側丘陵のより上方を通り、沓掛村・下半田川村の集落もこちらを中心に分布していたとも伝えられる。