瀬戸市末広町2丁目 都市緑地 0.11ha
かつての宮川駐車場の一角に、周辺の末広商店街の活性化の一環として計画され、商店街の買物客及び市民の憩いの場として昭和57年(1982)3月に竣工し、広く利用されている。噴水池、時計塔、照明柱、水飲み場などが設置され、周囲は約750本の樹木により植栽がほどこされている。
瀬戸市の姉妹都市であるナブール市との友好のあかしとして、記念モニュメント「ナブールの庭」が2005年6月に設置された。

瀬戸市深川町 街区公園 0.36ha
大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められた。瀬戸橋もこの大洪水で流れたため、架け替えられた。かつては「瀬戸橋」と呼ばれ、橋の左岸側は「大橋町」の町名がみえる。
橋梁は「講和記念」(1951年サンフランシスコ平和条約)として再築され、鉄骨による補強されて現在に至る。
瀬戸川文化プロムナード線整備、瀬戸川河川整備事業に伴う橋梁改築により、交通機能の更新と「せともの文化」イメージを高める整備を図るものとして、橋長24m、全幅員48mの橋梁が平成26年度から整備されている。
塚原第一号墳は瀬戸市南部の幡山地域東部、標高150m前後の丘陵尾根に造られた円墳である。市内でも最大規模の石室を有する古墳で、昭和41年に石室、平成18年には道路工事に伴う発掘調査が行われ、直径18m、高さ2.3mの墳丘に全長7.3m、最大幅2.2m、高さ1.7mの石室が築造されていたことが判明した。石室からは鉄刀、須恵器の蓋坏、高坏などが出土し、墳丘から須恵器の器台、脚付坩などが出土している。須恵器の年代から6世紀後半に築造された古墳と推定される。
古墳の発掘調査の後に石室を解体し、瀬戸東部環状線脇に発掘当時の状況を復元して移築された。移築古墳は墳丘の上に登って石室内を見学することができ、周辺もケヤキやクロガネモチなどが植栽されている。2013年4月に完成記念植樹祭が行われ、歴史広場として一般に公開されている。


瀬戸公園が開園したころ、陶祖加藤藤四郎だけではなく磁器の製法を瀬戸に伝えた加藤民吉の顕彰を行おうという機運が高まり、大正天皇の大礼記念事業がきっかけとなって、記念碑建立に動き出した。愛知県では記念事業として県内の名所史跡に記念標柱を建立していった。その一環として、民吉の業績を顕彰するために記念碑を建立するとともに、毎年九月十六日に祭典を実施することを決議した。
大正11年(1922)11月16日窯神神社の社殿改築記念祭典が実施され、この日にあわせて瀬戸川に新しく窯神橋が竣工し、渡り初めの式典も挙行された。
橋梁は戦後再築され、さらに瀬戸川文化プロムナード線整備、瀬戸川河川整備事業に伴う橋梁改築により、交通機能の更新と「せともの文化」イメージを高める整備を図るものとして、橋長22.5m、全幅員41mの橋梁が3年かけて整備され、2005年日本国際博覧会開催時には瀬戸の玄関口としての役割を果たした。
平成27年1月、瀬戸染付焼が全体にあしらわれた親柱が完成した。染付による橋名板は柴田恵水が揮毫したもの。
瀬戸市は、窯業を地場産業とする単一産業都市として発展成長してきた。しかし、基幹産業である陶磁器産業は、近年、産地をめぐる外部、内部の環境が変化するなかで不振を強いられている。こうした状況を克服するため、愛知県企業局による穴田企業団地等の造成をすすめ陶磁器産業の合理化、近代化の他、異業種企業の立地促進をはかるよう努めてきた。こうした中、昭和48年(1973)のオイルショックによリ一時、企業の拡張意欲がうすれ、行政側も工業用地確保を見送ってきたが、昭和50年代中頃より、先端技術産業を中心とする企業の立地熱が急速に高まってきた。特に瀬戸市は、従来よりニューセラミックスを手がける企業が多く集中している地区であり、また景気の回復とともに、企業環境の改善、近代化・合理化による体質改善、より生産性の高い企業への脱皮といった企業の意欲も高まってきた。市では暁地区の開発を愛知県に要望した。
おりしも愛知県では、昭和46年(1971)以降、工業用地買収を行っておらず、売却できる内陸工業用のストックがなくなり、 2~3年前から活発化してきた企業の工場拡張意欲への対応に苦慮しており、昭和57年(1982)当初予算に、11年ぶりに内陸工業用地費を計上し、候補地を物色していた。昭和57年(1982)6月、愛知県は瀬戸市の要望を受け計画を発表、昭和58年(1983)には約31haの暁地区工業用地の造成を行った。
瀬戸市定光寺町~春日井市玉野町に架橋
定光寺は玉野川の景勝地で名古屋の嵐山と呼ばれた景勝地であった。初代城嶺橋は名古屋開府250年を記念し、明治42(1909)年3月に着工、翌年完成した木橋である。当時対岸には中央本線が開通していたが、高蔵寺―多治見間には駅舎はなかった。定光寺駅の開設は大正13(1924)年のことである。ところが、初代の木橋は完成の翌年に大水で流出してしまい、大正元(1912)年に吊橋で復旧した。昭和11(1936)年、2代目橋の下流側に併行して3代目の京都四条大橋を模してコンクリートアーチ橋建設に着工、翌年完成した。尾張徳川家19代義親氏による「城嶺橋」の揮毫を親柱に持つ。大正期の水平線。垂直線を強調する「セセッション」風デザインであった「まぼろしの四条大橋」の面影を残した橋は貴重である。(『愛知県の近代化遺産』)

大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められた。十三橋もこの大洪水で流れたため、架け替えられた。この橋は上流から順に刎田橋、藤四郎橋、公園橋、東橋、中橋、宮脇橋、神明橋、宮前橋、蔵所橋、窯神橋、南橋、瀬戸橋の次、十三本目の橋ということで「十三橋」と命名されたと云われているが定かではない(記念橋、山脇橋は十三橋より後で架けられた)。
その後、昭和27年(1952)12月に改築され、その後平成9年(1997)から3か年の継続事業で架け替え工事が行われ、平成12年(2000)3月21日に完成した。高欄はやきものではなくステンレス製で、デザインは住民参加によるワークショップで決定した。
