大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる木橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められ、宮脇橋も昭和2年(1927)にできた。
昭和61年(1986)4月には、陶磁器産業振興の一環として、1000年余のやきものの歴史をもつ瀬戸市にふさわしい観光資源の整備と、陶磁器産地の誇りとしてのシンボルづくりを兼ねて進めている「やきものを使った街づくり事業」の一つとしての欄干改築工事が竣工した。改築概要は、上流側と下流側の欄干の小柱に十二支をあしらった、黄瀬戸に青織部のかかった陶板をそれぞれ12枚づつはめ込むもので、陶芸家山田朝春の得意とする陶彫によるものである。小柱は上端部が、地上面から70㎝のところで外側へ30度の角度で広がっており、開放感のあるデザインとするとともに陶板を見易くしている。小柱全体は、磁器質タイル仕上げである。陶板は、黄瀬戸に青織部をかけたものである。
カテゴリー: 橋・公園・開発
南公園
みなみこうえん
瀬戸市東茨町、西茨町、東権現町、原山町、萩殿町1丁目、同3丁目 16.40ha
南公園は、瀬戸市のほぼ中心に位置し、東部・北部は中心市街地、南は菱野団地をはじめ市街化が進展する地区に接した緑豊かな丘陵地である。自然環境を活かした整備を進めることにより、自然と調和のとれた全市民のいこいの場として、また芸術・文化に親しむにふさわしい場所として順次整備された。
文化都市にふさわしい文化の殿堂となる、文化ホール・展示ホール(現市美術館)・ふれあいホール(現文化交流館)をもつ「文化センター」が昭和57年(1982)10月14日にオープンした。また、昭和62年(1987)4月にはナイター付きの野球場がオープンした。
広い芝生広場と道具広場がある公園としても整備されている。道具はコンビ遊具と長いアミの遊具で、コンビ遊具には短いローラー滑り台もあり、小さい子どもたちも楽しむことができる。
公園内の東は小高い山になっており、散策しながら、治山工事の歴史や技術を学ぶことができる。この「萩殿の森」は、8haの雑木林を愛知県が平成16・17(2004・05)年度に整備したものである。
⇒萩御殿を参照


山脇橋
やまわきばし
宮川モール
みやがわもーる
吉田橋
よしだばし
宮前広場
みやまえひろば
瀬戸市深川町 街区公園 0.36ha
瀬戸大橋
せとおおはし
大正14年(1925)8月、瀬戸地方を襲った未曾有の集中豪雨で、瀬戸川にかかる橋はことごとく流されてしまった。それ以後、主要な橋のコンクリート橋化が進められた。瀬戸橋もこの大洪水で流れたため、架け替えられた。かつては「瀬戸橋」と呼ばれ、橋の左岸側は「大橋町」の町名がみえる。
橋梁は「講和記念」(1951年サンフランシスコ平和条約)として再築され、鉄骨による補強されて現在に至る。
瀬戸川文化プロムナード線整備、瀬戸川河川整備事業に伴う橋梁改築により、交通機能の更新と「せともの文化」イメージを高める整備を図るものとして、橋長24m、全幅員48mの橋梁が平成26年度から整備されている。
塚原第1号墳歴史広場
つかはらだいいちごうふんれきしひろば
塚原第一号墳は瀬戸市南部の幡山地域東部、標高150m前後の丘陵尾根に造られた円墳である。市内でも最大規模の石室を有する古墳で、昭和41年に石室、平成18年には道路工事に伴う発掘調査が行われ、直径18m、高さ2.3mの墳丘に全長7.3m、最大幅2.2m、高さ1.7mの石室が築造されていたことが判明した。石室からは鉄刀、須恵器の蓋坏、高坏などが出土し、墳丘から須恵器の器台、脚付坩などが出土している。須恵器の年代から6世紀後半に築造された古墳と推定される。
古墳の発掘調査の後に石室を解体し、瀬戸東部環状線脇に発掘当時の状況を復元して移築された。移築古墳は墳丘の上に登って石室内を見学することができ、周辺もケヤキやクロガネモチなどが植栽されている。2013年4月に完成記念植樹祭が行われ、歴史広場として一般に公開されている。


窯神橋
かまがみばし
瀬戸公園が開園したころ、陶祖加藤藤四郎だけではなく磁器の製法を瀬戸に伝えた加藤民吉の顕彰を行おうという機運が高まり、大正天皇の大礼記念事業がきっかけとなって、記念碑建立に動き出した。愛知県では記念事業として県内の名所史跡に記念標柱を建立していった。その一環として、民吉の業績を顕彰するために記念碑を建立するとともに、毎年九月十六日に祭典を実施することを決議した。
大正11年(1922)11月16日窯神神社の社殿改築記念祭典が実施され、この日にあわせて瀬戸川に新しく窯神橋が竣工し、渡り初めの式典も挙行された。
橋梁は戦後再築され、さらに瀬戸川文化プロムナード線整備、瀬戸川河川整備事業に伴う橋梁改築により、交通機能の更新と「せともの文化」イメージを高める整備を図るものとして、橋長22.5m、全幅員41mの橋梁が3年かけて整備され、2005年日本国際博覧会開催時には瀬戸の玄関口としての役割を果たした。
平成27年1月、瀬戸染付焼が全体にあしらわれた親柱が完成した。染付による橋名板は柴田恵水が揮毫したもの。
暁工業団地
あかつきこうぎょうだんち
瀬戸市は、窯業を地場産業とする単一産業都市として発展成長してきた。しかし、基幹産業である陶磁器産業は、近年、産地をめぐる外部、内部の環境が変化するなかで不振を強いられている。こうした状況を克服するため、愛知県企業局による穴田企業団地等の造成をすすめ陶磁器産業の合理化、近代化の他、異業種企業の立地促進をはかるよう努めてきた。こうした中、昭和48年(1973)のオイルショックによリ一時、企業の拡張意欲がうすれ、行政側も工業用地確保を見送ってきたが、昭和50年代中頃より、先端技術産業を中心とする企業の立地熱が急速に高まってきた。特に瀬戸市は、従来よりニューセラミックスを手がける企業が多く集中している地区であり、また景気の回復とともに、企業環境の改善、近代化・合理化による体質改善、より生産性の高い企業への脱皮といった企業の意欲も高まってきた。市では暁地区の開発を愛知県に要望した。
おりしも愛知県では、昭和46年(1971)以降、工業用地買収を行っておらず、売却できる内陸工業用のストックがなくなり、 2~3年前から活発化してきた企業の工場拡張意欲への対応に苦慮しており、昭和57年(1982)当初予算に、11年ぶりに内陸工業用地費を計上し、候補地を物色していた。昭和57年(1982)6月、愛知県は瀬戸市の要望を受け計画を発表、昭和58年(1983)には約31haの暁地区工業用地の造成を行った。