自衛隊愛知地方協力本部瀬戸地域事務所

じえいたいあいちちほうきょうりょくほんぶせとちいきじむしょ


瀬戸市汗干町68番地(長江ビル2階)
愛知地方協力本部は名古屋市中川区松重町3丁目41番地に所在し、国民と自衛隊を結ぶ窓口として、「自衛官募集」「国民保護措置・災害派遣などにおける県市町村との調整」「地方における渉外及び広報」「隊員の就職援護」「予備自衛官等の採用・管理」業務を行っている。県下に12か所の地域事務所を設置しており、自衛官等採用試験、制度説明会等の諸業務を実施している。
瀬戸地域事務所は、瀬戸市、尾張旭市、日進市、豊明市、長久手市、東郷町を担当している。

自衛隊愛知地方協力本部瀬戸地域事務所

産業技術総合研究所中部センター瀬戸サイト(名古屋工業試験場瀬戸分室)

さんぎょうぎじゅつそうごうけんきゅうじょちゅうぶせんたーせとさいと(なごやこうぎょうしけんじょうせとぶんしつ)


昭和7年(1932)に瀬戸市立窯業試験場として設立。昭和8年(1933)国に移管され陶磁器試験場となり、昭和27年(1952)通産省の試験所の再編に伴い名古屋工業技術試験所が設立され、その瀬戸分室となった。平成5年(1993)には名古屋工業技術研究所と改称され、さらに平成13年(2001)独立行政法人産業技術総合研究所(産総研)として発足、中部センター瀬戸サイトとなった。業務内容としてはセラミック応用部があり、陶磁器の原料、製造技術、意匠(デザイン)等の研究、試作、提案等を行い、陶磁器研究や人材育成に大きな業績を残してきたが、平成24年(2012)7月に閉所した。
瀬戸市は瀬戸サイトの跡地の譲渡を受け、地域の持つ創造力、提案力、革新力、技術力をこの施設に集積することによって、瀬戸の産業の活力創造を担う拠点としての機能を果たす施設へと転換し、地場産業振興ビジョンの目標として掲げた陶都瀬戸の産地力向上を実現する取り組みを進めていく。

産業技術総合研究所中部センター瀬戸サイト(名古屋工業試験場瀬戸分室)

尾張瀬戸税務署

おわりせとぜいむしょ


瀬戸市熊野町76番地の1
昭和46年(1971)現庁舎を新築、現在に至る。
国税庁には、国税庁本庁のほか、全国に11の国税局、沖縄国税事務所、524の税務署が設置されている。税務署は、国税庁や国税局の指導監督の下に、国税の賦課徴収を行う第一線の執行機関であり、納税者と最も密接なつながりを持つ行政機関である。
開庁時間は、月曜日から金曜日までの午前8時30分から午後5時(土日・祝祭日を除く)までとなっている。尾張瀬戸税務署の管轄区域は瀬戸市、尾張旭市の2市である。

瀬戸尾張税務署

 

労災リハビリテーション愛知作業所(労働者福祉機構)

ろうさいりはびりてーしょんあいちさぎょうしょ(ろうどうしゃふくしきこう)


労災リハビリテーション作業所は、労働災害(業務災害、通勤災害)により外傷性せき髄損傷の障害を受けた方や両下肢に重度の障害を受けた方に対して、社会復帰に必要な生活、健康、作業などの管理を行い、自立更生を援助し、社会復帰の促進を図るための施設で、全国に8か所設置されていたが現在は宮城・長野・福岡作業所の3か所で、愛知作業所は平成25年(2013)2月28日で廃止となっている。

労災サポートセンター愛知労災特別介護施設 ケアプラザ瀬戸

ろうさいさぽーとせんたーあいちろうさいとくべつかいごしせつ けあぷらざせと


瀬戸市山手町294番地の5
周りを静かな住宅地に囲まれた緑豊かな広い敷地をもった丘陵地に、平成5年(1993)に開設された。ケアプラザは、産業の発展に貢献するなかで被災し、労災年金を受給することになった方々に安心していきいきとした生活を営んでいただくために厚生労働省が全国に8か所設置し、一般財団法人労災サポートセンターが委託を受けて運営している施設で、労災特有の傷病・障害に応じた専門的な介護サービスを提供している。
当施設は、障害を持ち高齢化していく入居者が「快適で生き甲斐のある生活」をおくれるよう配慮した終身介護施設で、家庭内での介護に困難な重度被災労働者の方々のために、その状態に応じた介護サービスを提供する施設として厚生労働省が設置したものである。

尾三策道

びさんさくどう


大正13年(1924)につくられた西加茂郡藤岡村(現在は豊田市藤岡町)から戸越峠を越えて瀬戸町東部の西拝戸に至る、総延長14kmの空中ケーブルによる輸送手段。瀬戸自動車鉄道(瀬戸電)の創設者、加藤杢左衛門により設立されている。索道により石粉・原石・亜炭などを運んでいた。索道ができる前は馬などによって運んでいたが、索道開通により大量にかつ早く運搬することが可能となった。しかし、自動車輸送の普及と共に道路の改修が進むと、輸送手段は次第にトラックに代わられ、昭和5、6年(1930、31)頃をピークに、索道の取扱量は減少していったため、昭和9年(1934)に営業は休止されている。

せとでん

せとでん


明治38年(1905)4月、瀬戸~矢田間14.6kmの単線路線をフランス製のセルボレー式蒸気原動車3両が走りはじめ、翌年の明治39年(1906)1月には矢田~大曽根間が開業し全線が開通した。
明治時代、国鉄中央線の敷設が計画されたことから、瀬戸への誘致運動が行われたが残念なことに結実せず、次善の策として考えられたのが瀬戸とつながりの深い大曽根への駅設置であった。駅設置の請願に対し、国からの条件の中に、駅設置費用の負担と、瀬戸と大曽根を結ぶ鉄道の敷設が含まれていた。これを受けて、瀬戸と大曽根の有力者が集まり設立されたのが「瀬戸自動鉄道株式会社」であった。明治35年(1902)に発足したこの会社には、役員として加藤杢左衛門ら瀬戸の窯業家たちが名を連ね大きな役割を果たした。
明治39年(1906)12月、社名が「.瀬戸電気鉄道株式会社」へと変更され、さらに明治40年(1907)3月から全線電化で運転を開始した。この社名が「せとでん」の愛称の由来ともなった。
明治44年(1911)10月には、名古屋城外堀線を含む大曽根~堀川間で全通した。この年、国鉄大営根駅も開業し、国鉄中央緑への乗入れも可能となったせとでんは大きな経済成長を遂げることになる。
昭和4年(1929)12月に全線複線化を完了したが、旅客運送は比較的安定していたものの、貨物輸送は徐々に低迷していく。そして私鉄統合という当時の国策に従い、昭和14年(1939)9月、名古屋鉄道と合併し「名鉄瀬戸線」となった。
以降、名古屋の中心地・栄への地下化乗入れ、お堀電車の廃止、市街地整線の高架化などざまざまなできことを経ながら、平成17年(2005)、100周年を迎えた年には、この地で万国博覧会 愛地球博が開催され、多くの人々を乗せて走った。

名鉄瀬戸線

省営バス

しょうえいばす


岡崎と多治見とを鉄道で結ぶ構想が古くからあった。大正末期に「地域開発のために」と沿線1市6町7村が立ち上がって建設促進運動が始まり、昭和2年(1927)には「愛知県岡崎ヨリ挙母ヲ経テ岐阜県多治見二至ル鉄道」(岡多線)として、鉄道敷設法で規定された予定線のひとつに掲げられた。ところが、鉄道の建設には多額の費用を要することから、当時の鉄道省は発達しつつあった自動車に着目。全国の予定線を選定し、鉄道を一時的に代行するバス路線の設置を計画した。
そのトップを切って実施されたのが岡崎~多治見間、瀬戸記念橋~高蔵寺間で、全国初の省営バスが昭和5年(1930)12月から運行が開始された。
 省営バスは、岡崎~挙母~伊保~保見~八草を通って幡山村にはいり、南山口―北山口の2停留所のあと、瀬戸町へ。そこで、殿川町~瀬戸記念橋~瀬戸公園の各停留所を通り、品野町では品野口~品野坂上~品野本町~品野~上半田川口~下半田川を通過し岐阜県に入った。記念橋は省営バス発祥の地とされている。
省営バスは、その後国鉄バス、JR東海バスへと変遷をたどる。ちなみに、この路線を走った「第1号車」は国産車で、名古屋市の「リニア・鉄道館」に現存する最古のバスとして大切に保管、展示がされている。

瀬戸市コミュニティバス

せとしこみゅにてぃばす


相次ぐ市内路線バスの廃止に伴い、市民の足を確保するための方策が検討された中で、コミュニティバスの出発式が平成18年12月16日に行われ、12月23日から市内4路線で運用が始まった。現在の運航状況は、こうはん線・片草線・上半田川線・岩屋堂線・下半田川線・曽野線・本地線・上之山線が運行している。

コミュニティバス 運賃
一乗車  100円

瀬戸市コミュニティバス(下半田川線)

 

旧尾張瀬戸駅

きゅうおわりせとえき


明治35年(1902)3月15日瀬戸自動鉄道株式会社が設立され、明治38年(1905)4月2日瀬戸~矢田間が開業され、セルポレー式蒸気原動車を運転したが故障が多く、明治39年(1906)に電車に切り替え、会社名も瀬戸電気鉄道株式会社と改称された。昭和14年(1939)9月1日名鉄と合併、名古屋鉄道瀬戸線として発足。昭和53年(1978)8月20日から栄町駅へ乗入れされた。
明治38年(1905)、瀬戸自動鉄違が開通したときの駅は木造であったが、大正14年(1925)に2代目の尾張瀬戸駅に改築。当時としてはモダンな洋風建築で、瀬戸のシンボル的存在となった。駅の2階には食堂が設けられ、社交場としても親しまれていた。この駅舎は、平成13年(2001)に取り壊されましたが、瀬戸の20世紀を象徴する建物として多くの人に記憶されており、現在はミュージアムに再現されている。