旧尾張瀬戸駅

きゅうおわりせとえき


明治35年(1902)3月15日瀬戸自動鉄道株式会社が設立され、明治38年(1905)4月2日瀬戸~矢田間が開業され、セルポレー式蒸気原動車を運転したが故障が多く、明治39年(1906)に電車に切り替え、会社名も瀬戸電気鉄道株式会社と改称された。昭和14年(1939)9月1日名鉄と合併、名古屋鉄道瀬戸線として発足。昭和53年(1978)8月20日から栄町駅へ乗入れされた。
明治38年(1905)、瀬戸自動鉄違が開通したときの駅は木造であったが、大正14年(1925)に2代目の尾張瀬戸駅に改築。当時としてはモダンな洋風建築で、瀬戸のシンボル的存在となった。駅の2階には食堂が設けられ、社交場としても親しまれていた。この駅舎は、平成13年(2001)に取り壊されましたが、瀬戸の20世紀を象徴する建物として多くの人に記憶されており、現在はミュージアムに再現されている。

瀬戸市コミュニティバス

せとしこみゅにてぃばす


相次ぐ市内路線バスの廃止に伴い、市民の足を確保するための方策が検討された中で、コミュニティバスの出発式が平成18年12月16日に行われ、12月23日から市内4路線で運用が始まった。現在の運航状況は、こうはん線・片草線・上半田川線・岩屋堂線・下半田川線・曽野線・本地線・上之山線が運行している。

コミュニティバス 運賃
一乗車  100円

瀬戸市コミュニティバス(下半田川線)

 

省営バス

しょうえいばす


岡崎と多治見とを鉄道で結ぶ構想が古くからあった。大正末期に「地域開発のために」と沿線1市6町7村が立ち上がって建設促進運動が始まり、昭和2年(1927)には「愛知県岡崎ヨリ挙母ヲ経テ岐阜県多治見二至ル鉄道」(岡多線)として、鉄道敷設法で規定された予定線のひとつに掲げられた。ところが、鉄道の建設には多額の費用を要することから、当時の鉄道省は発達しつつあった自動車に着目。全国の予定線を選定し、鉄道を一時的に代行するバス路線の設置を計画した。
そのトップを切って実施されたのが岡崎~多治見間、瀬戸記念橋~高蔵寺間で、全国初の省営バスが昭和5年(1930)12月から運行が開始された。
 省営バスは、岡崎~挙母~伊保~保見~八草を通って幡山村にはいり、南山口―北山口の2停留所のあと、瀬戸町へ。そこで、殿川町~瀬戸記念橋~瀬戸公園の各停留所を通り、品野町では品野口~品野坂上~品野本町~品野~上半田川口~下半田川を通過し岐阜県に入った。記念橋は省営バス発祥の地とされている。
省営バスは、その後国鉄バス、JR東海バスへと変遷をたどる。ちなみに、この路線を走った「第1号車」は国産車で、名古屋市の「リニア・鉄道館」に現存する最古のバスとして大切に保管、展示がされている。

せとでん

せとでん


明治38年(1905)4月、瀬戸~矢田間14.6kmの単線路線をフランス製のセルボレー式蒸気原動車3両が走りはじめ、翌年の明治39年(1906)1月には矢田~大曽根間が開業し全線が開通した。
明治時代、国鉄中央線の敷設が計画されたことから、瀬戸への誘致運動が行われたが残念なことに結実せず、次善の策として考えられたのが瀬戸とつながりの深い大曽根への駅設置であった。駅設置の請願に対し、国からの条件の中に、駅設置費用の負担と、瀬戸と大曽根を結ぶ鉄道の敷設が含まれていた。これを受けて、瀬戸と大曽根の有力者が集まり設立されたのが「瀬戸自動鉄道株式会社」であった。明治35年(1902)に発足したこの会社には、役員として加藤杢左衛門ら瀬戸の窯業家たちが名を連ね大きな役割を果たした。
明治39年(1906)12月、社名が「.瀬戸電気鉄道株式会社」へと変更され、さらに明治40年(1907)3月から全線電化で運転を開始した。この社名が「せとでん」の愛称の由来ともなった。
明治44年(1911)10月には、名古屋城外堀線を含む大曽根~堀川間で全通した。この年、国鉄大営根駅も開業し、国鉄中央緑への乗入れも可能となったせとでんは大きな経済成長を遂げることになる。
昭和4年(1929)12月に全線複線化を完了したが、旅客運送は比較的安定していたものの、貨物輸送は徐々に低迷していく。そして私鉄統合という当時の国策に従い、昭和14年(1939)9月、名古屋鉄道と合併し「名鉄瀬戸線」となった。
以降、名古屋の中心地・栄への地下化乗入れ、お堀電車の廃止、市街地整線の高架化などざまざまなできことを経ながら、平成17年(2005)、100周年を迎えた年には、この地で万国博覧会 愛地球博が開催され、多くの人々を乗せて走った。

名鉄瀬戸線

尾三策道

びさんさくどう


大正13年(1924)につくられた西加茂郡藤岡村(現在は豊田市藤岡町)から戸越峠を越えて瀬戸町東部の西拝戸に至る、総延長14kmの空中ケーブルによる輸送手段。瀬戸自動車鉄道(瀬戸電)の創設者、加藤杢左衛門により設立されている。索道により石粉・原石・亜炭などを運んでいた。索道ができる前は馬などによって運んでいたが、索道開通により大量にかつ早く運搬することが可能となった。しかし、自動車輸送の普及と共に道路の改修が進むと、輸送手段は次第にトラックに代わられ、昭和5、6年(1930、31)頃をピークに、索道の取扱量は減少していったため、昭和9年(1934)に営業は休止されている。

愛知環状鉄道

あいちかんじょうてつどう


愛知環状鉄道株式会社は、昭和61年(1986)9月19日に資本金25億円で設立、平成24年(2012)7月現在の資本金は94億7530万円(公共団体74億7010万円、民間20億円520万円)で、昭和63年(1988)1月31日に開業している。現在、岡崎~高蔵寺間45.3㎞に23駅(両端駅も含む)あり、瀬戸市内には水野、瀬戸市、瀬戸口、山口の4つの駅がある。所要時間は、岡崎~高蔵寺間を66分である。また、JR中央本線名古屋から岡崎までの直通乗入列車も走る。
旧国鉄赤字ローカル線の岡多・瀬戸線を愛知県及び岡崎、瀬戸、春日井、豊田の沿線4市が中心となって、第3セクターで引継いだ路線である。岡崎~新豊田間19.5㎞は旧国鉄の岡多線、新豊田~瀬戸市内19.6㎞は新線区間の岡多線、瀬戸市~高蔵寺間6.2㎞は瀬戸線の一部区間として建設されたものである。この愛知環状鉄道の沿線は工業団地、住宅団地、大学、高校が数多く立地しており、名古屋東部の中核都市を結ぶ大都市近郊路線としての性格が強く、年間を通じて多くの通勤、通学の足となっている。
とりわけ、愛知万博の開催中は名古屋地区からの輸送対策として、JR中央本線からの直通列車エキスポシャトルを運転するなど、大量輸送としての大きな役割を果たした。万博終了後も輸送状況は順調に推移しており、都市型鉄道を目指し積極的な事業展開が図られている。

愛知環状鉄道

尾張瀬戸駅

おわりせとえき


尾張瀬戸駅地区市街地再開発事業と併せて尾張瀬戸駅の改善事業が行われた。旧運輸省の鉄道駅総合改善事業費補助を活用し、瀬戸市と名古屋鉄道㈱による第三セクター「尾張瀬戸駅整備㈱」(資本金1000万円)を設立し事業を実施した。
平成13年(2001)には、約160m東側に新駅舎が竣工し、4月14日から使用を開始した。同駅舎は再開発ビル横に移転・新築したもので、陶器の町にちなみ登り窯をイメージしたデザインの鉄骨2階建て。駅のプラットホーム、瀬戸川プロムナード線と再開発ビルがフラットでバリアーフリーとなっているほか、環境モデル駅として、太陽光発電システムを実験的に導入したほか、ホームの仕上げに瀬戸産残土(珪砂)を原材料の一部とするブロック、乗車券や定期券をリサイクルしたベンチ、雨水を利用したトイレ洗浄などを導入している。

尾張瀬戸駅