瀬戸小唄

せとこうた


作詞:野口雨情
作曲:藤井清水
振付:藤間久枝
1. 瀬戸へおいでよ くよくよせずに ソレ チャラリコセ
山の土まで ササ 金となる 
『ジッ来る日をわたしゃ待つセノセ』※(繰り返し)
2.瀬戸ぢゃ朝から けむりがたえぬ ソレ チャラリコセ
木節蛙目 ササ 根がたえぬ
3.瀬戸へ来たときゃ 思案はおよし ソレ チャラリコセ
どうせ一夜ぢゃ ササ 帰しゃせぬ
4.川の水さへ 夜昼なしに ソレ チャラリコセ
瀬戸ぢゃ陶上の ササ 金流す
5.瀬戸へ古瀬戸へ 藤四郎山の ソレ チャラリコセ
咲いて桜の ササ 花が降る
6.瀬戸の清水田 わたしゃほととぎす ソレ チャラリコセ
見捨てられたら ササ 血でも吐く
7.月がぼんと出た 猿投の山に ソレ チャラリコセ
瀬戸も夜長の ササ 秋となる
8.秋の七草 七ツの一ツ ソレ チャラリコセ
瀬戸の名所は ササ 萩の花
9.いやで袖ふる わたしゃぢゃないよ ソレ チャラリコセ
雪も鹿の子に ササ 瀬戸ぢゃふる
10.瀬戸の瀬戸物か 瀬戸物の瀬戸か ソレ チャラリコセ
瀬戸の瀬戸物ア ササ 世界一

昭和4年(1929)の市制施行を祝って生まれたものに「瀬戸小唄」がある。これは、瀬戸陶栄連芸妓置屋組合(組合員31店、芸妓131人)組合長喜楽などが中心となり、作詞野口雨情、作曲藤井清水、振り付け藤間久枝、鳴物牧田牧師、舞踊小寺融吉に依頼し完成したのが、新作「瀬戸小唄」となり、組合ではその当時では六千円という巨額を投じて完成したもので、華々しく中央館で発表会が行われた。名古屋の萬松寺黄花園の菊人形の舞台などに招かれて出演したこともあった。
また、お座敷で芸妓が唄うだけではなく、レコードに吹き込み広く宣伝しなければと、当時東京のビクターレコード会社に交渉しレコード吹き込みが行われた。
 野口雨情は明治後期から昭和初期にかけて詩人、作詞家として活躍、代表作に「赤い靴」などがある。大正期から、民謡の復興や普及を目指し各地を訪ね歩き、地域の情景や風情をつづった詩を多数作っている。雨情の手がけた地方民謡は400曲を越えるとされる。愛知県では「織姫音頭」(一宮市)、「桃太郎音頭」(犬山市)、「津島小唄」(津島市)など15曲を残している。

瀬戸音頭

せとおんど


昭和24年(1949)9月選定
作詞:壷井ふゆじ
作曲:米山正夫
1.なびくナア  なびく煙を繻子(じゅず)帯に
 しめてやさしい 藤四郎山の
 花もほんのり 花もほんのり 春姿
 ※(繰り返し)ほんにセトセトよいところ 
 瀬戸は火の街土の街 チョイト土の街
2.なんでナア  なんで忘りょか 
 お陶祖様を 絵付せっせと 筆持ちゃちらと
 遠い昔が 遠い昔が 偲ばれる
3.瀬戸のナア 瀬戸の娘は 窯場の炎 
 燃えりゃ思いに わが身を灼いて
 千三百度の 千三百度の 恋もする
4.皿にナァ 皿にしようか 茶わんにしようか 
 廻すろくろに 心がはずみゃ
 窓に燕が 窓に燕が ちょいとのぞく
5.瀬戸のナア 瀬戸の瀬戸物 だてには焼かぬ 
 どんと積み出しゃ 七つの海に
 招く世界の 招く世界の 夢が呼ぶ

瀬戸市が市制20周年記念事業の一つとして瀬戸市歌と共に全国から広く募集し中日新聞、中日CK関係者及び市長の予審の上、コロンビア藤浦洸、野村俊太郎、米山正夫氏の審査と西条八十の校閲を得て下記の諸氏が入選し米山正夫が作曲し、祝賀式典後に発表された。
1等 壺井ふゆじ 小牧町、2等 住江京二 小牧町、3等 原のぶよし 半田市 
また、記念事業の一環として昭和24年(1949)11月7日深川館において、市歌音頭発表会が「コロンビヤ秋の歌謡祭」と併せて豪華な出演者を迎え盛大に行われた。市歌を歌手の霧島昇、音頭を小唄の赤坂小梅が発表したほか、歌謡の部で安西愛子、二葉あき子、伊藤久男、黒木曜子、岡本敦郎などが、舞踊では西川鯉三郎師振付の西川里喜康、西川里喜勲が出演した。
当時、「瀬戸市歌」「瀬戸音頭」がコロンビアレコードで制作されている。「瀬戸音頭」は青木光一・花村菊江、コロンビア合唱団、三味線豊藤、コロンビア・オーケストラで吹き込まれている。
昭和46年(1971)、新たに日本コロンビアで制作され、「瀬戸音頭」は都はるみに、コロンビア合唱団、コロンビア・オーケストラで吹き込まれている。

瀬戸市歌

せとしか


昭和24年(1949)9月選定
作詞:芝田博史
作曲:米山正夫
1.千古に聖(きよ)き 猿投山  朝に夕に 仰ぎつつ
  歴史に栄えて 陶業の  輝くその名 かくれなく
   ああ 大瀬戸市 光あり
2.渦巻くそらの 窯けむり  地には轆轤(ろくろ)の 玉の業
  生命をこめて 焼く窯に  伸びゆく意気は 火ともえる
   ああ 大瀬戸市 力あり
3.陶祖と磁祖の ますところ  その名四海に 燦然(さんぜん)と
  工業かおり 人和して  無限の土と 伸び進む
   ああ 大瀬戸市 希望あり
4.華咲く文化 産業の  ここに輝く 土の幸
  世界の海の 果てまでも  讃えよ誇れ 高らかに
   ああ 大瀬戸市 誉あり

瀬戸市が市制20周年記念事業の一つとして瀬戸音頭と共に全国から広く募集し中日新聞、中日CK関係者及び市長の予審の上、コロンビア藤浦洸、野村俊太郎、米山正夫各氏の審査と西条八十の校閲を得て下記の諸氏が入選し米山正夫が作曲し、祝賀式典後に発表された。
1等 芝田博史 品野町、2等 大城節子 静岡市、3等 岡田 道 碧南桜井村
また、記念事業の一環として昭和24年(1949)11月7日深川館において、市歌音頭発表会が「コロンビヤ秋の歌謡祭」と併せて豪華な出演者を迎え盛大に行われた。市歌を歌手の霧島昇、音頭を小唄の赤坂小梅が発表したほか、歌謡の部で安西愛子、二葉あき子、伊藤久男、黒木曜子、岡本敦郎などが、舞踊では西川鯉三郎師振付の西川里喜康、西川里喜勲が出演した。
当時、「瀬戸市歌」「瀬戸音頭」がコロンビアレコードで制作されている。「瀬戸市歌」は岡本敦郎に、コロンビア合唱団、コロンビア・オーケストラで吹き込まれている。
昭和46年(1971)、新たに日本コロンビアで制作され、「瀬戸市歌」は三鷹淳に、コロンビア合唱団、コロンビア・オーケストラで吹き込まれている。
ちなみに作詞者の芝田博史の本名は柴田博で、上品野小学校や祖母懐小学校などの教員を務め、上品野小学校の校歌や品野音頭を作詞したほか、瀬戸市史編纂委員としても活躍された。

暴力追放都市宣言

ぼうりょくついほうとしせんげん


平成12年(2000)3月24日議決
瀬戸市は、「せともののまち」として輝かしい歴史をもち、発展してきました。
このわたしたちのまちが住みよい社会であるために、平穏な日常生活や経済活動に重大な脅威を及ぼす暴力を追放することは、わたしたち市民の願いです。
よって、すべての市民が一丸となって暴力を追放する姿勢を堅持し、安全で住みよいまちづくりをめざし、ここに瀬戸市を「暴力追放都市」とすることを宣言します。

我が国の法律上初めて暴力団を反社会的団体として明確に位置付けた「暴力団対策法」が平成4年3月1日から施行され、これを契機に国民的な暴力団排除の機運が飛躍的に盛り上がりをみせ、全国で暴力団排除活動の中核である都道府県センターが発足し業務を開始したほか、國・地方公共団体において暴力団排除の施策が講じられるとともに、地域での活動が推進された。
こうしたなかで、平成5年の12月議会において「暴力追放に関する決議」が行われ、さらに市民の暴力追放に対する意識を高め、安全で住みよいまちづくりを推進するため、暴力追放都市宣言をおこなった。
また、愛知県暴力団排除条例が平成23年4月1日から施行され、瀬戸市においても瀬戸市暴力団排除条例が10月1日から施行となった。施行の日を前に、暴力追放瀬戸市民会議(平成○○年設立)総会を文化センターで開催し、市内の企業や関係機関・団体が参加した。総会では(「暴力団を恐れない」「暴力団に金を出さない」「暴力団を利用しない」の「暴力追放三ない運動」を実践し、暴力追放宣言都市「瀬戸」の実現に、まい進することを力強く宣言しました。
瀬戸市と瀬戸警察署は、平成19年に「瀬戸市が行う契約などからの暴力団排除」、23年には「公共施設使用や事業参入など行政事務、事業からの暴力団排除」をするための合意書を交わしている。

交通安全都市宣言

こうつうあんぜんとしせんげん


平成4年(1992)3月18日議決
わたしたちのまちは、「せともののまち」として輝かしい歴史と伝統をもち、文化と産業の調和のなかで発展してきました。
しかしながら近年の交通情勢は、産業経済の成長を背景に大量交通時代をむかえ、交通事故の発生要因を拡大しています。
一瞬にして平和な家庭と暮らしを破壊する交通事故の絶滅は、市民共通の願いです。
よって、すべての市民が一丸となって交通安全の基本ルールとマナーを守り、交通事故のない安全で快適なまちづくりをめざし、ここに瀬戸市を「交通安全都市」とすることを宣言します。

交通事故は近年特に増加傾向を示しており、瀬戸市においても平成3年16名の方が交通事故の犠牲となり、過去20年間で最悪の記録となった。悲惨な交通事故を引き起こす原因は、スピードの出しすぎ、信号無視、道路への急な飛び出しなど、交通マナーとモラルの低下が大きな原因となっている。このような状況をふまえ、安全で快適なまちづくりのため、交通関係者はもとより、市と市民が一丸となって交通安全意識の向上を積極的に推進し、交通事故絶滅の願いをこめて、「交通安全都市」の宣言をすることとした。
 交通事故のない安全で快適なまちづくりの推進をめざして、4月15日市民会館で宣言の発表と記念式典が行われた。

健康都市宣言

けんこうとしせんげん


平成元年(1989)9月19日議決
わたしたちのまちは「せともののせと」として知られ、輝かしい伝統にひとりひとりが誇りをもち、郷土を愛しつづけてきました。
わたしたちは、人と自然と文化と産業の調和のなかで、希望に満ちた「いきいき健康都市瀬戸」の実現に向け、
心ゆたかに生活できるよろこびを
元気に生活できるよろこびを
明るいまちで生活できるよろこびを
を合言葉に努力することを宣言します。

市民が健康で明るい生活がおくれるようにと願い、行政各分野で健康づくりについての事業を全市的に進めるとともに、市民一人ひとりが健康について一緒になって考え、活動して意識の向上をめざし、健康の輪を広め、生き生きとした心ふれあう街づくりを進めていくもの。
健康都市宣言をするにあたり、その記念事業の一つとして作文・標語・健康づくりへの提言(小論文)が募集された。また11月23日、文化センターで健康都市宣言記念「健康フェスティバル」が盛大に行われた。水無瀬中学校の生徒三人による健康都市宣言があった後、色とりどりのユニホームを身につけた市民健康グループの皆さんによるエアロビックなどが発表された。

 半世紀以上も以前の瀬戸市には「結核の都」などという有難くない名が冠せられた歴史があった。昭和25年(1950)市役所発行『瀬戸市』の結核対策に載る。それによれば、ここ5ヶ年の結核死亡者は年平均120人、人口1万人当たり28人で全国平均(昭和22年(1947))の1.47倍、愛知県の1.55倍であった。内、21歳から30歳の青年期の占める割合が40%にも当たり、同年齢の70%にもなるのである。その原因は本市の環境にあり、①媒煙や粉塵の多い生活環境 ②住宅と工場が混在し ③住宅の周囲に空地や緑が少ないことなどをあげている。
 そこで瀬戸市が取り組んだのが「青年健康調査」であった。昭和25年(1950)に市青年健康調査条例を制定し、20歳の男子と18歳の女子全員が公立陶生病院で健康診断できるようにした。この年は10月18日から26日まで実施、男女928名が受診(受診率80.5%)した。そこで結核を含む病気の早期発見が狙いであった。このような全員公費による健診方式は、当時富山県下の事例に次ぐ全国二例目であったが、昭和44年(1969)まで毎年続けられたのである(翌年からは40歳以上の成人病検査に切り替え)。粋なところは、健康優良者男女40名を選び、教養テストを行った後に「ミスター健康」と「ミス健康」を選抜、翌年の成年祭(後成人式)に各10名を顕彰していることである。
 昭和25(1950)年度に厚生省は全国2万ベッドの結核療養施設の建設事業を実施した。結核都市の汚名が幸いして瀬戸市に100ベッドが割り当てられ、結核治療に取り組んでいた陶生病院にこの療養施設が建設された。瀬戸の町から結核を追放する全市的取り組みは確実に成果を生み、その後結核患者数は激減したのである。
 その後の医療機関は児童の体位向上やじん肺への取り組みにも努力している。市民がいつでも病院にかけつけることができる「当直医制度」を全国にさきがけて実施したのも瀬戸の医師会であった。戦後の健康保険制度の普及により医療需要が増大、昼夜・休日を問わず来院する患者と一方で医師自身の健康管理のためにとった対策だった。昭和28年(1953)11月より、週日・休日問わず全日と通して内科・外科・小児科・産婦人科の医療機関各一ヶ所で診察する。公立陶生病院は各科を問わず医師1名常置するというものであった。昭和34年(1959)には旭町(尾張旭市)も地区1名の当直医師を配置、後に両地域一体化の制度として今日まで継続している。(参考『瀬戸市史・通史編下』)
市民の「安心」と「安全」を保障すること、市政の基本条件である。

瀬戸市民憲章

せとしみんけんしょう


昭和54年(1979)10月1日制定
わたくしたちは、「やきもののまち」として発展してきた輝かしい歴史と、限りない未来を持つ瀬戸市民です。
わたくしたちは、いっそう心ゆたかな住みよいまちづくりをめざし、ここに市民憲章を定めます。
わたくしたち瀬戸市民は
1 自然を大切にし、産業をのばし、豊かなまちをつくりましょう。
1 きまりを守り、心のかようまちをつくりましょう。
1 元気に働き、明るく幸せなまちをつくりましょう。
1 若い力を育て、希望とやすらぎのあるまちをつくりましょう。
1 スポーツに親しみ、教養を高め、すぐれた文化のまちをつくりましょう。

市民憲章の制定は、瀬戸市制50周年記念事業の中でもきわめて意義深いものの一つにあげられ、市民の代表28人で構成された「市民憲章制定委員会(加藤晃委員長)」で成文化された。成文にあたっては、広報せとの呼びかけでお寄せいただいたアイデアやご意見もとりあげられている。
市民憲章は、前文と5項目の本文からなり、昭和54年(1979)10月1日の市制施行50周年記念式で発表、正式に制定された。

瀬戸いきいきビジョン21

せといきいきびじょんにじゅういち


瀬戸いきいきビジョン21、1988年(昭和63年)策定。1987年(昭和62年)瀬戸活性化ビジョン策定調査要綱を制定。その後市民・学識経験者・議会関係者・行政関係者・担当市議員により意向調査・ヒアリング等を行い。「出あい・語らい・みんなの手」瀬戸いきいきビジョンを策定し、活性化への5つの課題を提言、それを5大プロジェクトへと発展させた。
まず地場産業都市の新展開として、情報センターとデザインセンターを核とする「産業センター」を整備し陶磁器産業と観光を始めとするサービス業・商業との融合を図り各種情報をセンターへフィードバックする総合的な産業情報機能の充実を図る『産業センター構想』が生まれた。次に、伝統文化の継承と活用という課題で赤津地区に、世界窯業博物館・陶芸の里・やきものレジャーランドを整備し、イベントの開催や各国の陶芸文化のネットワーク化を図り陶磁器を中心とした世界的な文化情報の交流拠点とする『世界陶芸の森構想』へと発展した。また、感性豊かなまちなみの創出という課題より、新瀬戸駅から尾張瀬戸駅を経て陶祖公園に至る地域に瀬戸川をシンボルとし、それを軸に快適なプロムナードを設け周辺の市街地改造や公共施設を整備し瀬戸らしいさわやかな、潤いのあるまちなみを創出する『瀬戸川文化プロムナード構想』へと発展した。そして、豊かな自然とレクリエーション機能の調和という課題から、定光寺周辺の丘陵地帯をさらに開発し、めいそうの森・くつろぎの広場・宿泊施設・スポーツゾーンなどを整備し、より魅力的で質の高いリゾート施設を作る、『定光寺フォレスト構想』へと発展した。最後に産業技術の集積という課題より「あいち学術研究開発ゾーン」を拠点とし、大学・公的試験研究機関・デザイン教育機関・次世代先端産業等の誘致に努め産業の多角化を図る『瀬戸リサーチパーク構想』へと発展した。
以上5大プロジェクトを西暦2000年を一応のめどに、市民主導のもとこのビジョンを展開している。

産学官連携

さんがくかんれんけい


共同研究などの交流を通じて大学や研究機関等において生み出された技術やノウハウを民間企業において産業化へ結びつける営みであり、産学官連携を推進することにより資金、設備、技術開発の方法など、研究開発資源に不安がある企業においても、外部資源を活用した効率的な研究開発を進めることが可能になります。また、大学や研究機関等においても産業界のニーズを的確に反映した研究を行うことができるメリットがあります。名古屋工業大学と産学官連携を進めています。

公設民営保育園

こうせつみんえいほいくえん


建物や土地は町の財産としたまま、保育園の運営を社会福祉法人に委託することです。保護者の多様化するニーズに、柔軟かつ速やかに対応することが可能な社会福祉法人などへ運営を委託して保育事業を行ってもらう方法が良いと考えています。
 また、行政改革を進めるなかで、住民サービスにおける公営サービスと民間サービスの役割分担を進めることになります。一方では、双方が競い合うことで、本町の保育レベルが向上することも期待しています。