水野準工団地

みずのじゅんこうぎょうだんち


水野準工業団地は、かつて東京大学農学部が演習林として活用したところである。水野川及び瀬戸川の間を東から西にかけて連なる丘陵台地の大部分を占めており、瀬戸市既成市街地とその北部に位置する旧水野村(昭和26年(1951)5月合併)を分断し、両地区の連携を阻害してきた。瀬戸市は地域開発計画作成に当たり、演習林の他地区への移転を期待し、昭和30年(1955)頃から文部省、東京大学等に対し活発に陳情を行った結果、文部省並びに東京大学は、演習林の移転先を上品野・赤津に求め昭和38年(1963)、387万㎡を農林省から有償所管換えを受けた。かくて、代替演習林の取得もできたので愛知演習林はこれを用途廃止し、昭和39年(1964)3月31日大蔵省(普通財産)へ引き継がれたものである。
この時の利用計画は、瀬戸市は住宅団地造成用地、瀬戸市学校給食センター、水野小学校用地、水野準工業団地造成用地、瀬戸市民公園用地として、財団法人瀬戸市開発公社は租鉱権設定を、愛知県は企業団地造成用地としている。

菱野団地

ひしのだんち


愛知県住宅供給公社により、昭和41(1966)年度から計画面積173.5ha、住宅建設戸数7,032戸、人口30,000人の開発計画ですすめられた。基本設計は、建築家黒川紀章が行っている。
全体を原山台・萩山台・八幡台の住区に分け、中心地区(サービス施設)公共施設を緑地ゾーンにより分離している。各住区は自然の起伏を利用して計画し、住区内の各道路も原則として等高線沿いに走り、自然の地形を保存しながら変化のある景観が得られるよう計画され、住区内中央部に自然緑地を保存し、主幹線と住区内幹線との間のスペースは、修景緑地を配している。また、教育施設は通学上の安全のため、主幹線をこえない住区周辺の緑地ゾーンに配置されている。
計画の主眼点として、①良い環境、②交通安全、③便利な生活の3つの観点から開発は計画された。良い環境とは、住宅の日照条件をよくする、通過交通のない道路計画、変化のある住宅配置と静かな空間の構成、各住区の中央部にある自然を極力保存することである。次に交通安全とは、順次道路の巾員をせばめながら、各戸に近づくにつれ、交通量を大巾に減少させる、交差点はすべて優先順位が明確にされたT差路として車のスムーズな流れをはかる。また便利な生活とはワンセンター方式により、サービス施設の合理的な配置、危険な主幹線道路をこえない安全な教育施設の配置することである。
面積176ha、6440戸(県営・分譲)の計画で、昭和42年(1967)6月15日に起工式を行い、昭和45年(1970)3月27日初の入居が原山台で始まった。

菱野団地

瀬戸幡野東土地区画整理事業

せとはたのひがしとちくかくせいりじぎょう


組合施行による土地区画整理事業で、平成5年(1993)3月に認可をうけ、現在施行中である。
本地区は瀬戸市の南方に位置し、市の中心部より約1.3kmの位置にあり、地区外北部に隣接して県道瀬戸・大府線が通っている。また、本地区の南側は県により整備された菱野団地外周道路で、西側は民間により整備されている。
事業の目的としては、瀬戸市は名古屋都市圏の住宅都市としての性格を強めつつあり、今後もこの傾向は続くと予想されること、本地区の整備課題として土地の有効利用、居住環境の向上及びスプロール化の防止が挙げられ、健全な市街地の育成を図るためのものである。
設計の概要は、地区外都市計画道路を根幹とし、土地利用計画及び地区外道路等の関連を考慮して安全かつ効率的な区画道路を配置し、さらに歩行者等の安全と利便を確保するため歩行者専用道路を計画する。公園・緑地は街区公園及び緑地を配置し良好な生活空間を確保する。
施行面積   4.5ha
事業費    1,304,500千円
公共用地率  前27.50%  後36.76%
減歩率    公共用地12.64%  保留地27.19%
権利者    105人

瀬戸南部土地区画整理事業

せとなんぶとちくかくせいりじぎょう


組合施行による土地区画整理事業で、昭和50年(1975)2月に認可をうけ、昭和62年(1987)3月に施行済である。
本地区は、瀬戸市の南部に位置し、東には菱野団地、西には井林川、南には国鉄岡多線(愛知環状鉄道)とに挟まれた丘陵地であった。昭和50年(1975)頃の本地区は、周辺の発展に伴い、瀬戸市南玄関としての役割を求められるとともに無秩序な開発をさけ、公共施設が整った健康的で住みよい街づくりをと考え、区画整理事業で地区の整備をめざした。
組合設立までの準備期間が9年余が経過するなかで、昭和50年(1975)2月に組合が設立され、瀬戸市では戦後最初の組合施行による土地区画整理事業が第一歩を踏み出した。本市の土地区画整理事業のモデルとして注目を集め、12年の歳月を経て事業完成の運びとなった。
施行面積   52.6ha
事業費    4,984,600千円
公共用地率  前7.97%  後24.15%
減歩率    公共用地17.40%  保留地15.75%
権利者    405人

瀬戸品野西土地区画整理事業

せとしなのにしとちくかくせいりじぎょう


組合施行による土地区画整理事業で、平成3年(1991)1月に認可をうけ、平成23年(2011)3月に施行済である。
本地区は、農地が約50%、山林が約20%を占める中にミニ開発による住宅が点在し、スプロール化傾向がみられる農地である。一方、地区東へ0.2kmに国道248号線、南へ0.2kmには県道中水野品野線が通っており、地区北西部には、東海環状自動車適へのアクセス道路となり、瀬戸市の道路網計画の骨格となる都市計画道路(予定)瀬戸環状線も計画されている。このような幹線道路へのアクセス度も高く、品野市街地に隣接した住宅地としての環境に恵まれた本地区を土地区画整理事業にて施行することにより、補助幹線道路をはじめとする公共施設の整備された健全な市街地形成を図るものである。
昭和55年(1980)4月に組合設立準備委員会を発足して以来10有余年の準備期間、平成3年(1991)1月の組合設立からは約20年の歳月を経て、事業完成を見るに至った。バブル経済期における計画立上げであったことから、バブル崩壊は大きな試練となり、「土地神話の崩壊」、「失われた10年」、「リーマンショック」など経済が低迷する時代を乗り越えての完工となった。
施行面積   18.9ha
事業費    3,043,000千円
公共用地率  前6.19%  後26.21%
減歩率    公共用地21.10%  保留地12.92%
権利者    325人
計画人口   約1,800人  戸数550戸

瀬戸品野西土地区画整理事業

瀬戸塩草土地区画整理事業

せとしおくさとちくかくせいりじぎょう


組合施行による土地区画整理事業で、平成14年(2002)8月に認可をうけ、現在施行中である。
本地区は瀬戸市の中心市街地より南東約2.3kmに位置し、都市計画道路瀬戸環状東部線の整備等、広域的な都市基盤の整備も予定される地区である。
事業の目的は、広域的な都市基盤整備の要請である東海環状自動車道、瀬戸環状東部線等の幹線道蕗網整備の影響を受けること、また、平成10(1998)年度に市街化区域に編入されたことにより開発ポテンシャルが今後上昇する地区と位置付けられることから、今後予想される無秩序な市街化形成を防止し、かつ既設の工場立地および幹線道路沿道の土地利用を考慮した計画的な街づくりを推進すべく、土地区画整理事業の施行により安全でゆとりある都市基盤の整備を行うものである。
設計の概要は、地区南部を東西に横断する瀬戸環状東部線及び地区南東部から北西部にS字形に通過する補助幹線道路を骨格とし、土地の有効利用をはじめ、排水施設の整備、土地の区画形質の変更を行い安全性の高いまちづくりを基本とする。また、住宅地のゆとり及び工業系の産業活動を支える都市基盤として、可能な限り広幅員の道路を配置する。  
施行面積   43.4ha
事業費    7,430,000千円
公共用地率  前4.54%  後37.07%
減歩率    公共用地34.05%  保留地14.35%
権利者    251人

尾張瀬戸駅地区再開発事業

おわりせとえきさいかいはつじぎょう


市施行による再開発事業で、平成  年月に事業認可をうけ、平成17年(2005) 月事業完了。再開発ビルの名称は市民公募により「パルティせと」と決定、平成17年(2005)2月19日にオープンした。
昭和53年(1978)に栄町乗り入れを行ったことにより便利になったことから一時的には乗降客も伸びたものの、駅前広場の未整備や周辺の道路状況の悪さから年々その数も減少していった。周辺地区はこうした都市基盤の未整備と商店街の衰退化、居住環境の悪化、高齢化等から、地区外移転等のドーナツ化現象を起こし、地域活力の低下が進んでいた。
昭和55年(1980)地元研究委員会ができ市街地再開発事業の試案がまとまり、昭和59年(1984)には連絡協議会ができ活発な活動が始まったが、権利関係等でうまくいかず一時中断となった。しかし、駅周辺の整備の必要性は非常に高くなってきたことにより当面整備手法にこだわることなく、駐車場・駐輪場の整備を目的として、昭和62年(1987)から用地の確保を行い暫定的に整備してきた。
一方、計画策定においては、「瀬戸川文化プロムナード計画」の中で中心市街地のまちづくりの基本構想をたて、諸整備計画を策定するなかで特に尾張瀬戸駅地区は、公共施設の整備が主体となっていることやこの地区のまちづくりの先導的役割を担うことから市施行の第二種再開発事業として再度出発することになった。さらに、「2005年日本国際博覧会」の開催が決定したことにより、重点整備地区の中でも骨格的な事業である瀬戸川河川整備、瀬戸川プロムナード線及び瀬戸大府線についても愛知県において整備の方針が決まった。
当地区は、本市の顔として、駅前広場の整備、道路、駐車場等の公共施設整備の緊急度が高く、これらの整備を契機とした施設建築物の早期建設による拠点形成が求められていることから、「街区整備計画」で商業・サービスゾーンとして位置付け、施行区域約1haの中に駅前広場の整備とホテル、店舗・業務施設等の設置を一体的に行うことが計画されたが、ホテル誘致が不調となり計画の見直しがされた。再開発事業を市民参加で再検討するため、ワーキンググループを発足し、公開検討会議と市民フォーラムが実施され、市民から寄せられた要望、意見を踏まえた提言を受けた。提言内容は、駅ビルの基本コンセプトと、下層階には飲食物販を核とする商業フロア、中層階は公共公益フロアからなる各階の機能提案であった。提案をもとに、公益施設整備に重点を置いた低容積型の再開発事業を選択した。
面積  約1.0ha
道路  瀬戸川プロムナード線  幅員24m  延長約90m
 瀬戸大府線       幅員24m  延長約115m
 駅前広場        面積約3,700㎡
再開発ビル    地下駐車場、商業施設、市民交流センター

穴田企業団地

あなだきぎょうだんち


瀬戸市の産業構造は、陶磁器中心の単一産業であり、陶磁器業界の好不況は直ちに地域全体に大きな影響を与え、本市の経済を大きく左右してきた。このような産業構造からくる弊害を除去し、尾張東部地域の拠点都市にふさわしい地域社会を形成するためには、地場産業の振興をはかりつつ、他産業の導入をなし、市の経済基盤の一層の充実が必要であり、職住近接の大規模企業団地の造成が計画されたものである。
計画地はかつて東京大学農学部が演習林として活用したところであったが、愛知演習林の用途廃止し昭和39年(1964)3月31日大蔵省(普通財団)へ引き継がれたものである。計画の事業主体には県企業局があたり、昭和43(1968)年度から大蔵省(東海財務局)より土地取得を開始、 昭和45(1970)年度~47(1972)年度にかけて総面積58ha、工場用地16区画の計画での穴田企業団地が造成されたものである。

穴田企業団地

暁西工業団地

あかつきせいぶこうぎょうだんち


瀬戸市は、窯業を地場産業とする単一産業都市として発展してきた。しかし基幹産業である陶磁器産業は、近年産地をめぐる内外の環境変化で不振を強いられている。こうした状況を克服するために、愛知県企業局による工業団地等の造成を進め、陶磁器産業の合理化・近代化のほか、異業種企業の立地促進を図るように努めてきた。これまで穴田企業団地、暁企業団地の開発を進めてきたが、更に工業団地の造成計画を企て、国有地の払い下げを大蔵省(東海財務局)に働きかけてきた。

暁西工業団地