瀬戸品野西土地区画整理事業

せとしなのにしとちくかくせいりじぎょう


組合施行による土地区画整理事業で、平成3年(1991)1月に認可をうけ、平成23年(2011)3月に施行済である。
本地区は、農地が約50%、山林が約20%を占める中にミニ開発による住宅が点在し、スプロール化傾向がみられる農地である。一方、地区東へ0.2kmに国道248号線、南へ0.2kmには県道中水野品野線が通っており、地区北西部には、東海環状自動車適へのアクセス道路となり、瀬戸市の道路網計画の骨格となる都市計画道路(予定)瀬戸環状線も計画されている。このような幹線道路へのアクセス度も高く、品野市街地に隣接した住宅地としての環境に恵まれた本地区を土地区画整理事業にて施行することにより、補助幹線道路をはじめとする公共施設の整備された健全な市街地形成を図るものである。
昭和55年(1980)4月に組合設立準備委員会を発足して以来10有余年の準備期間、平成3年(1991)1月の組合設立からは約20年の歳月を経て、事業完成を見るに至った。バブル経済期における計画立上げであったことから、バブル崩壊は大きな試練となり、「土地神話の崩壊」、「失われた10年」、「リーマンショック」など経済が低迷する時代を乗り越えての完工となった。
施行面積   18.9ha
事業費    3,043,000千円
公共用地率  前6.19%  後26.21%
減歩率    公共用地21.10%  保留地12.92%
権利者    325人
計画人口   約1,800人  戸数550戸

瀬戸品野西土地区画整理事業

瀬戸塩草土地区画整理事業

せとしおくさとちくかくせいりじぎょう


組合施行による土地区画整理事業で、平成14年(2002)8月に認可をうけ、現在施行中である。
本地区は瀬戸市の中心市街地より南東約2.3kmに位置し、都市計画道路瀬戸環状東部線の整備等、広域的な都市基盤の整備も予定される地区である。
事業の目的は、広域的な都市基盤整備の要請である東海環状自動車道、瀬戸環状東部線等の幹線道蕗網整備の影響を受けること、また、平成10(1998)年度に市街化区域に編入されたことにより開発ポテンシャルが今後上昇する地区と位置付けられることから、今後予想される無秩序な市街化形成を防止し、かつ既設の工場立地および幹線道路沿道の土地利用を考慮した計画的な街づくりを推進すべく、土地区画整理事業の施行により安全でゆとりある都市基盤の整備を行うものである。
設計の概要は、地区南部を東西に横断する瀬戸環状東部線及び地区南東部から北西部にS字形に通過する補助幹線道路を骨格とし、土地の有効利用をはじめ、排水施設の整備、土地の区画形質の変更を行い安全性の高いまちづくりを基本とする。また、住宅地のゆとり及び工業系の産業活動を支える都市基盤として、可能な限り広幅員の道路を配置する。  
施行面積   43.4ha
事業費    7,430,000千円
公共用地率  前4.54%  後37.07%
減歩率    公共用地34.05%  保留地14.35%
権利者    251人

尾張瀬戸駅地区再開発事業

おわりせとえきさいかいはつじぎょう


市施行による再開発事業で、平成  年月に事業認可をうけ、平成17年(2005) 月事業完了。再開発ビルの名称は市民公募により「パルティせと」と決定、平成17年(2005)2月19日にオープンした。
昭和53年(1978)に栄町乗り入れを行ったことにより便利になったことから一時的には乗降客も伸びたものの、駅前広場の未整備や周辺の道路状況の悪さから年々その数も減少していった。周辺地区はこうした都市基盤の未整備と商店街の衰退化、居住環境の悪化、高齢化等から、地区外移転等のドーナツ化現象を起こし、地域活力の低下が進んでいた。
昭和55年(1980)地元研究委員会ができ市街地再開発事業の試案がまとまり、昭和59年(1984)には連絡協議会ができ活発な活動が始まったが、権利関係等でうまくいかず一時中断となった。しかし、駅周辺の整備の必要性は非常に高くなってきたことにより当面整備手法にこだわることなく、駐車場・駐輪場の整備を目的として、昭和62年(1987)から用地の確保を行い暫定的に整備してきた。
一方、計画策定においては、「瀬戸川文化プロムナード計画」の中で中心市街地のまちづくりの基本構想をたて、諸整備計画を策定するなかで特に尾張瀬戸駅地区は、公共施設の整備が主体となっていることやこの地区のまちづくりの先導的役割を担うことから市施行の第二種再開発事業として再度出発することになった。さらに、「2005年日本国際博覧会」の開催が決定したことにより、重点整備地区の中でも骨格的な事業である瀬戸川河川整備、瀬戸川プロムナード線及び瀬戸大府線についても愛知県において整備の方針が決まった。
当地区は、本市の顔として、駅前広場の整備、道路、駐車場等の公共施設整備の緊急度が高く、これらの整備を契機とした施設建築物の早期建設による拠点形成が求められていることから、「街区整備計画」で商業・サービスゾーンとして位置付け、施行区域約1haの中に駅前広場の整備とホテル、店舗・業務施設等の設置を一体的に行うことが計画されたが、ホテル誘致が不調となり計画の見直しがされた。再開発事業を市民参加で再検討するため、ワーキンググループを発足し、公開検討会議と市民フォーラムが実施され、市民から寄せられた要望、意見を踏まえた提言を受けた。提言内容は、駅ビルの基本コンセプトと、下層階には飲食物販を核とする商業フロア、中層階は公共公益フロアからなる各階の機能提案であった。提案をもとに、公益施設整備に重点を置いた低容積型の再開発事業を選択した。
面積  約1.0ha
道路  瀬戸川プロムナード線  幅員24m  延長約90m
 瀬戸大府線       幅員24m  延長約115m
 駅前広場        面積約3,700㎡
再開発ビル    地下駐車場、商業施設、市民交流センター

穴田企業団地

あなだきぎょうだんち


瀬戸市の産業構造は、陶磁器中心の単一産業であり、陶磁器業界の好不況は直ちに地域全体に大きな影響を与え、本市の経済を大きく左右してきた。このような産業構造からくる弊害を除去し、尾張東部地域の拠点都市にふさわしい地域社会を形成するためには、地場産業の振興をはかりつつ、他産業の導入をなし、市の経済基盤の一層の充実が必要であり、職住近接の大規模企業団地の造成が計画されたものである。
計画地はかつて東京大学農学部が演習林として活用したところであったが、愛知演習林の用途廃止し昭和39年(1964)3月31日大蔵省(普通財団)へ引き継がれたものである。計画の事業主体には県企業局があたり、昭和43(1968)年度から大蔵省(東海財務局)より土地取得を開始、 昭和45(1970)年度~47(1972)年度にかけて総面積58ha、工場用地16区画の計画での穴田企業団地が造成されたものである。

穴田企業団地

暁西工業団地

あかつきせいぶこうぎょうだんち


瀬戸市は、窯業を地場産業とする単一産業都市として発展してきた。しかし基幹産業である陶磁器産業は、近年産地をめぐる内外の環境変化で不振を強いられている。こうした状況を克服するために、愛知県企業局による工業団地等の造成を進め、陶磁器産業の合理化・近代化のほか、異業種企業の立地促進を図るように努めてきた。これまで穴田企業団地、暁企業団地の開発を進めてきたが、更に工業団地の造成計画を企て、国有地の払い下げを大蔵省(東海財務局)に働きかけてきた。

暁西工業団地

暁工業団地

あかつきこうぎょうだんち


瀬戸市は、窯業を地場産業とする単一産業都市として発展成長してきた。しかし、基幹産業である陶磁器産業は、近年、産地をめぐる外部、内部の環境が変化するなかで不振を強いられている。こうした状況を克服するため、愛知県企業局による穴田企業団地等の造成をすすめ陶磁器産業の合理化、近代化の他、異業種企業の立地促進をはかるよう努めてきた。こうした中、昭和48年(1973)のオイルショックによリ一時、企業の拡張意欲がうすれ、行政側も工業用地確保を見送ってきたが、昭和50年代中頃より、先端技術産業を中心とする企業の立地熱が急速に高まってきた。特に瀬戸市は、従来よりニューセラミックスを手がける企業が多く集中している地区であり、また景気の回復とともに、企業環境の改善、近代化・合理化による体質改善、より生産性の高い企業への脱皮といった企業の意欲も高まってきた。市では暁地区の開発を愛知県に要望した。
おりしも愛知県では、昭和46年(1971)以降、工業用地買収を行っておらず、売却できる内陸工業用のストックがなくなり、 2~3年前から活発化してきた企業の工場拡張意欲への対応に苦慮しており、昭和57年(1982)当初予算に、11年ぶりに内陸工業用地費を計上し、候補地を物色していた。昭和57年(1982)6月、愛知県は瀬戸市の要望を受け計画を発表、昭和58年(1983)には約31haの暁地区工業用地の造成を行った。

塚原第1号墳歴史広場

つかはらだいいちごうふんれきしひろば


塚原第一号墳は瀬戸市南部の幡山地域東部、標高150m前後の丘陵尾根に造られた円墳である。市内でも最大規模の石室を有する古墳で、昭和41年に石室、平成18年には道路工事に伴う発掘調査が行われ、直径18m、高さ2.3mの墳丘に全長7.3m、最大幅2.2m、高さ1.7mの石室が築造されていたことが判明した。石室からは鉄刀、須恵器の蓋坏、高坏などが出土し、墳丘から須恵器の器台、脚付坩などが出土している。須恵器の年代から6世紀後半に築造された古墳と推定される。
古墳の発掘調査の後に石室を解体し、瀬戸東部環状線脇に発掘当時の状況を復元して移築された。移築古墳は墳丘の上に登って石室内を見学することができ、周辺もケヤキやクロガネモチなどが植栽されている。2013年4月に完成記念植樹祭が行われ、歴史広場として一般に公開されている。

塚原第1号墳歴史広場
移築された塚原第1号墳

宮川モール

みやがわもーる


瀬戸市末広町2丁目  都市緑地 0.11ha
かつての宮川駐車場の一角に、周辺の末広商店街の活性化の一環として計画され、商店街の買物客及び市民の憩いの場として昭和57年(1982)3月に竣工し、広く利用されている。噴水池、時計塔、照明柱、水飲み場などが設置され、周囲は約750本の樹木により植栽がほどこされている。
瀬戸市の姉妹都市であるナブール市との友好のあかしとして、記念モニュメント「ナブールの庭」が2005年6月に設置された。

宮川モール