加藤 靖彦

かとう やすひこ


陶芸 瀬戸染付技法 瀬戸市指定工芸技術 1件
平成7年2月13日指定 平成18年2月16日解除(死亡)
保持者 瀬戸市一里塚町 加藤靖彦 昭和5年3月31日生

 家祖は加藤円六だという。円六は明和年間(江戸中期)に郷の経塚山で川本半助・同治兵衛らと窯業を再興、その後新製焼(瀬戸染付焼)を興した窯元であった。
 その家系に生まれ育った氏は、昭和21年愛知県立窯業学校を卒業と同時に石泉陶園(父信三郎経営)に入社し、叔父賢三よりロクロ技術や絵付けの手ほどきを受け、技術を磨いた。昭和57年に独立、「真玉園」を窯屋号とした。土や釉薬の調合も自家で行い、成形は今なお水挽き仕立てで手描きによる絵付け、ガス窯焼成まで一貫して行う数少ない窯屋である。「伝統とは変革の精神」をモットーに、古法の再現と釉下彩などの新技法にも取り組んでいる。

加藤 舜陶

かとう しゅんとう


陶芸 灰釉系技法 愛知県指定工芸技術 1件
平成6年3月18日指定 平成17年6月24日解除(死亡)
保持者 瀬戸市赤津町 加藤舜陶 大正5年7月13日生

 保持者は加藤作助の系譜に連なり、初代作助(寿斎)の3男小三郎(号春逸)が祖父にあたる。昭和12年生家にあって作陶を始め、瀬戸陶芸協会にも入会、以来陶技を研鑽、特に「灰釉の舜陶」といわれる灰釉陶器の製作を主軸に置いてきた。灰釉は草木灰を使用する最も基本的な釉薬で、瀬戸地方では平安時代に始まり、中世・近世を通じて発展してきた。江戸時代に誕生した御深井焼は木灰に千倉石を混ぜて還元炎で焼成したもので、美しい透明感ある淡青色を呈する釉で保持者が最も得意とするものである。
 保持者が灰釉に重点を置くようになったのは公害防止法で薪窯が規制され、石炭窯(昭和35年代)からガス窯(昭和45年代)の使用がされるようになったのがきっかけだったという。特にガス窯を使用するようになってからは、平安期以来の伝統的な灰釉に江戸前期の御深井釉も生かした独特の素材感を持った灰釉作品を生み出してきた。平成3年に瀬戸市無形文化財(陶芸・灰釉技法)に指定される。

加藤 英一

かとう えいいち


陶芸 掻落し技法 瀬戸市指定工芸技術1件
昭和62年4月18日指定 平成元年10月4日解除(死亡)
保持者 瀬戸市泉町 加藤英一 明治32年2月8日生

 掻落し技法は、中国の宋代に生まれた装飾技法の一つで、磁州窯で盛んに焼成された伝統技法である。保持者は長年に亘る研究と製作技術の研鑽により、赤土の素地に白色の化粧土を塗り、それを丹念に掻き落して文様を出す技法を完成させた。
 保持者は瀬戸の製陶業の家に生まれ、自然に陶芸の道を志す。後に藤井達吉に師事し、その人格にふれて陶芸のみならず人生面でも大きな影響を受けた。謙虚で端正な趣のある作品を作り出している。40数年に亘る掻落し技法の製作活動は、高度なロクロ技術とあいまって、創意工夫が加えられた優れた技法として高く評価されてきた。

加藤 釥

かとう しょう


陶芸 鉄釉技法 愛知県指定工芸技術 1件
平成12年11月21日指定 平成13年8月17日解除(死亡)  
保持者 瀬戸市西窯町 加藤釥 昭和2年1月17日生 

 代々父祖の地赤津で陶業を守る家系に生まれた。昭和23年東京工芸大学専門部窯業科を卒業して帰郷、直ちに作陶活動に入った。昭和38年の日展初入選以来、各種公募展に数々受賞、昭和40年代以降は各種陶芸展・協会の審査委員、評議委員を歴任、多くの弟子や後輩を指導してきた。
 瀬戸は伝統的に灰釉系と鉄釉系の施釉陶器「古瀬戸」を墨守してきた。鉄釉系には原料の配合・鉄分の含有量・焼成具合等様々に発色する。氏は歴史ある鉄釉の奥深さに魅せられ、「無釉」から「蒼釉」、「白釉」、「刻文」に「金彩」と伝統の中に独自の鉄釉技法を大成し、金彩を施すという現代感覚に合った作品を生み出した。
平成9年に瀬戸市「陶芸 鉄釉技法」保持者として指定されている。 

亀谷 政代司

かめたに まさよし


日展会員、 日本彫刻会員、 筑波大学芸術学群彫塑領域非常勤講師、アトリエ・カメタニ代表。
昭和27年(1952)愛知県名古屋市に生まれる。昭和47年(1972)、長江録弥日本芸術院会員に師事。亀谷政代司の世界では奈良時代に栄えた漆の彫刻や土の風合を活かしたテラコッタ、金属固有の堅牢さを持つブロンズなど、様々な材質と技法により作品を製作、またテーマも、神話の世界からモチーフを得たり、動物たちの野性味や愛嬌のある一面などを捕らえ、多様な表情を追い求めている。昭和57年(1982)第11回「眠りの形態」、翌年12回日彫展「エヴァの日々」にて日彫賞受賞。昭和60年(1988)第17回「夢もう一杯」、昭和63年20回日展「The Man」にて特選受賞。平成9年(1997)第27回日彫展「ダナエ」にて西望賞を受賞。日彫展3回、日展3回の審査員をつとめる。
 また、全国の各寺院の依頼に応じて仏像を納仏しているが、九州博多区の聖福寺に阿弥陀如来・釈迦如来坐像等を納仏したことにより、平成21年(2009)には第百三十三世白峰宗慧老師より雲岫斎慧慶(うんしゅうさいえきょう)の大佛師号を拝受している。
また、後進の指導に当たる一方、公共施設等への作品の設置や、瀬戸市文化協会会長、公益財団法人瀬戸市文化振興財団理事などをとおして、文化・芸術の振興に努めている。

加藤 顕清

かとう けんせい


日本芸術院会員、日展常任理事、日本彫塑会会長、昭和41年(1966)11月11日歿。
明治27年(1894)12月19日生まれ。両親は岐阜県出身で、北海道に移住して間もなく生まれ(本名鬼頭太)、幼少年時代を過ごした。上京して大正4年(1915)東京美術学校彫刻科に入学、高村光雲教授、白井雨山教授の教えを受ける。同9年(1922)3月同科塑造部本科を卒業、12年同研究科を修業した。引続いて西洋画科本科に再入学して、藤島武二教授、長原孝太郎教授の教を受け、油絵を修め昭和3年(1928)3月卒業した。彫刻科在学中の大正10年第3回帝展に「静寂」が初入選し、以後毎年入選した。昭和3年第9回帝展で「女人像」が特選に挙げられ、第10回「群像」・11回「立像」と連続して特選を受賞した。その後長年に亙って、帝展、文展、日展等の審査員をつとめるなど、終始官展系の有力作家として活躍し、また後進の指導育成に尽した。
窯神神社境内に磁祖加藤民吉翁の銅像及び頌徳碑を建設し、永久に翁の遺業を伝え、益々の陶磁器の発展に資せんと陶磁器関係者が中心となって発起し、その銅像の製作者には加藤顕清に依頼した。昭和12年(1937)9月のせともの祭当日、盛大に竣工式が行われた。また、終戦直後、西古瀬戸町にあった「オリエンタルデコラティブ陶磁彫刻研究所」の所長を務めるなど、沼田一雅、笠置季雄、赤塚幹也らと共に陶彫を中心として多くの作家が集う半工半農の工芸家村建設構想の推進に携わった。

加藤 昭男

かとう あきお


 新制作協会会員。昭和2年(1927)に瀬戸に生まれる。父加藤華仙(鶴一)は陶土採掘・販売を生業としながら陶芸家としても帝展、文展等に出品しており、そういう環境の中で物心つく頃から粘土を身近な遊び道具として育った。愛知県立窯業学校、京都工業専門学校を卒業、昭和30年(1955)に東京芸術大学彫刻専攻科を修了。昭和49年(1974)中原悌二郎賞「月に飛ぶ」、同年長野市野外彫刻賞「母と子」、昭和57年(1982)高村光太郎大賞展優秀賞、平成14年(2002)円空大賞を受賞。瀬戸市美術館をはじめ全国にパブリックアートとして作品が設置される。平成26年に瀬戸市の依頼で「陶祖800年祭記念事業」を記念して「陶祖像」を制作、陶祖公園に設置された。
また、平成10年まで武蔵野美術大学彫刻科教授として後進の指導にあたる。

石田 武至

いしだ たけし


日展評議員。昭和7年(1932)に名古屋に生まれ、愛知県立瀬戸窯業高等学校を卒業後、父であり当時を代表する彫刻家であった石田清氏に師事し、彫刻家への道を歩む。昭和32年(1957)に日展初入選、昭和38年(1963)には日展で特選を受賞するなど、若い頃からその作品は高い評価を得ている。その後、日展の審査員、文部科学大臣表彰を受けるなど、日本を代表する彫刻家として活躍していく。
作品は、女性像が多いのが特徴で、女性の外観の美しさだけを表現するのではなく、その内面をも表現されており、そのシャープで洗練された彫刻表現は「石田彫刻」として独特なものとなっている。作品は多くのファンを有しており、ハワイや東京そして愛知県内など国内外各地に数多くの作品が設置されている。
平成16年(2004)まで、名古屋芸術大学の教授として後進の指導にあたる。