北川民次のアトリエを守る会

きたがわたみじのあとりえをまもるかい


平成6年(1994)に北川民次画伯と親交があった人たちを中心に設立。日本の美術界に大きな足跡を残した北川画伯の創作の場、生活の場として、文化的な価値のある場所だと考え、この保存活用を目指して、アトリエの清掃や草取りという活動から出発している。そして、市の委託を受けて、アトリエの日常の清掃・管理を行うとともに、春と秋の2回、アトリエの公開や企画展の実施、機関紙「バッタ」の刊行を行っている。

書道研究 飛墨会

しょどうけんきゅう ひぼくかい


昭和56年(1981)より毎年瀬戸市内で展覧会を開催している。瀬戸地方の文化や時代に合ったテーマを持ち、個人作品・会員合同作品で来場者に書文化を楽しんで頂く内容としている。“書く”だけの書道ではなく、生花・朗読・講談等とコラボレーションも行い、書の可能性をも試行・探求している。書作品の他、拓本技術も学び、市内外の数多くの碑文・文化財の拓本保存にも力を注ぎ、技術の伝承・文化財の記録として重要な活動も継続中である。郷土の歴史・文化・人を学び紹介することで瀬戸の文化を継承し、次世代に繋ぐ活動を行っている。

瀬戸版の会

せとはんのかい


長久手の洋画家である故伊藤髙義先生を講師に昭和54年(1979)に発足。毎年作品展を開催している。瀬戸市の文芸発表会の冊子である「窯火」の挿図版画を毎年提供している。平成13年には瀬戸市文化協会の「つばき賞」を受賞している。平成18年の瀬戸市中央公民館閉鎖にともない、教室を文化センターに移して今日に至る。

瀬戸音楽連盟

せとおんがくれんめい


「瀬戸合唱フェスティバル実行委員会」を母体として発足し、昭和60年(1985)7月に8団体で第1回目のフェスティバルを開催した。その後毎年瀬戸市文化センター文化ホールで開催し、第24回より瀬戸音楽連盟に改称した。平成28年に開催したフェスティバルの参加は20団体、出演者は600名以上であった。

せと なでしこ会

せと なでしこかい


昭和34年(1959)、辰美会より民謡部門が独立して発足。全国組織である「日本民謡研究会」の傘下にあり、「踊って 心に灯を」「踊りの輪を 人の和に」を合言葉に、下品野、古瀬戸、幡山、長根、水南の各公民館、西部コミュニティセンター、瀬戸中日文化センターに姉妹会員を有し、小中学校・少年院での授業、福祉施設への慰問など、一人でも多くの方々に踊るよろこびをわかちあい、明るい社会づくりのお手伝いができればと活動を続けている。

山口

やまぐち


山口川上流。大坪・大六の縄文遺跡、塚原・吉田の古墳群、大坪・柳ヶ坪の条里遺構などが分布する。瀬戸の焼物の発生は、11世紀中葉の平安灰釉陶窯である山口谷東奥の広久手古窯群に始まる。山口の地名は三河国猿投山への入口であることによるという。

<古代>山口郷:奈良期~平安期にみえる郷名。
<中世>山口村:戦国期に見える村名。尾張国山田郡のうち。
<近世>山口村:江戸期から明治22年の村名。尾張国愛知郡のうち。尾張藩領、水野代官所支配。同22年市制町村制施行により山口村の大字となる。
<近代>菱野:明治22年から昭和60年の大字名。はじめ幡野村、昭和30年から瀬戸市の大字名。

美濃池

みののいけ


矢田川右岸の水無瀬川流域に位置する。

<近代>美濃池村:明治22年から昭和22年の村名。尾張国春日井郡のうち。美濃之池、美濃野池、美濃ノ池とも書いた。尾張藩領、水野代官所支配。明治13年東春日井郡に所属、同22年八白村の大字となる。美濃ノ池:明治22年~昭和18年の大字名。はじめは八白村、明治39年旭村、大正14年瀬戸町、昭和4年からは瀬戸市の大字。

水野

みずの


水野川流域、四方を標高200~300mの山に囲まれた小盆地に位置する。古くは水沼(みずぬ)と称したという。

<中世>水野郷:鎌倉期~戦国期に見える郷名。尾張国山田郡(春日部郡?)のうち。水野上・水野中・水野下郷に分かれていた。
<近代>水野村:明治22年から昭和26年の東春日井郡の自治体名。上水野・中水野・下水野の3か村が合併して成立。旧村名を継承した3大字を編成。昭和26年から瀬戸市の一部となり、村制時の3大字は同市の大字に継承。

本地

ほんじ


瀬戸川と矢田川の合流点付近の沖積低地に位置する。地名は誉治村によるという(尾張風土記)。

<近世>本地村:江戸期から明治22年の村名。尾張国愛知郡のうち。同郡内に本地村が2か所あったため、菱野本地村とも称した(地名考)。尾張藩領、水野代官所支配。同22年市制町村制施行により幡野村の大字となる。
<近代>菱野:明治22年から昭和49年の大字名。はじめ幡野村、明治39年幡山村、昭和30年から瀬戸市の大字名。

菱野

ひしの


矢田川上流域に位置する。地名は地形によるものという(尾張徇行記)。当地に伝わる「菱野のおでく」と呼ばれる民俗行事は、小牧・長久手の戦の落武者狩りに由来し、梶田甚五郎という武者に似た人形を馬に乗せ猿投神社まで詣でるもの。

<中世>菱野村:戦国期に見える村名。尾張国山田郡のうち。
<近世>菱野村:江戸期から明治22年の村名。尾張国愛知郡のうち。尾張藩領、水野代官所支配。同22年市制町村制施行により幡野村の大字となる。
<近代>菱野:明治22年から昭和60年の大字名。はじめ幡野村、明治39年幡山村、昭和30年から瀬戸市の大字名。