昭和40年5月1日、大字名を廃止し、町名を設定。もとは下品野の一部。1~8丁目がある。
→品野→品野祇園祭の神武天皇像および従者像・瀬戸市指定民俗文化財
→山崎城→阿弥陀ヶ峰城
→集落跡・品野西遺跡
投稿者: setopedia
十軒町
じゅっけんちょう
昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは下水野の一部。十軒町の旧地名「十軒家」の称呼は、藩祖源敬公の遺徳に端を発する。源敬公は徳川家康の第九子,(義直)、藩主になって後、水野山の閑寂を愛し、その山峡にしばしば狩を催して領内の士気を鼓舞し、また駒を進めて定光寺の山色を探った。この所縁により歿するにあたって遺言し、定光寺境内を墳塋の地と定めた。藩祖の歿後、第二代藩主,(光友)瑞龍公も、その供養のために四季折々定光寺の墳塋に詣でた。十軒町付近はその行列の休息所に当てられ、また目鼻石には藩主の風光上覧に供すべく「御賞覧場」が設けられた。しかるに当時は十軒町の付近にはいまだ村落の発達を見ず、一行の休息には甚だ不便であった。よって、瑞龍公は下水野本郷の農家十軒に命じ、引越料及び屋敷,(御除地)を給し、東谷山の東南麓に移り住ませた。
→目鼻石・瀬戸市指定名勝
→古墳・東谷山古墳(尾張戸神社古墳)
塩草町
しおくさちょう
さつき台
さつきだい
昭和49年4月1日、町名を設定。もとは小田妻町の一部。水野団地の一部で1~5丁目がある。
→水野団地
栄町
さかえまち
昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字池田・一ノ坪の一部。瀬戸電が引けると瀬戸物問屋が立ち並ぶようになり、町が発展し栄えることを願って栄町と名付けられた。
→丸一国府商店(旧丸一商店)
坂上町
さかうえちょう
昭和45年4月15日、大字名を廃止し町名を設置。もとは菱野の一部で、瀬戸市大字本地字坂上・大湫・小坂・坊金の一部。寛政5年の本地村村絵図には、「大坂・小坂」の地名や農屋が描かれており、自然地形に由来する地名と思われる。
→小坂町
幸町
さいわいちょう
昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字東犬塚の一部。かつては、このあたりを大国町、後に御幸町といっていた。
紺屋田町
こんやだちょう
昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字紺屋田の一部。かつて紺屋田池があり、流れ込む川を紺屋田川と称したことによる。
米泉町
こめいずみちょう
昭和53年12月26日、大字名を廃止し町名を設置。もとは菱野の一部。昔このあたりには清水が沸き、また近くの釜ヶ洞地からはきれいな水が流れてきて、米作りに適した水が豊富であったところから米泉と呼ばれるようになったと伝えられる。
→東米泉町
→西米泉町
駒前町
こままえちょう
昭和45年4月15日、大字名を廃止し町名を設定。もとは本地の一部で、大湫・小坂・坂上の一部で、瀬戸市大字本地字駒前・前田・南浦。昔、当地の西,(現在の西本地町)に本地城があり、ここの城主や武士が使用していた馬の寄場があったことから、この地名がつけられたと伝えられる。また、長久手の合戦の折り、行軍の途中、この地において馬を休ませ、軍議をしたところから生まれたという説もある。
→古墳・駒前第1号墳