菱野町の県道沿いに庚申塚・馬頭観音と並ぶ道標(道祖神)がみられる。以前は別々のところにあったものを一か所にまとめたものである。
左の庚申塚は道教・神道・民間信仰などの複合信仰の石碑である。毎年8月には庚申碑祭が行われる。
中央の馬頭観音は道で倒れた馬を家族同然に供養し、路傍に祀り、農耕や交通の守護仏として信仰されている。
右は道祖神の石塔で、道標として人が行きかう街道に建てられた。「左 世とみ
ち 右 ころも道 安政四巳年」と刻まれている。
江戸時代以降、瀬戸で志野の生産が始まると、釉薬となる石粉の需要が拡大し、瀬戸には各地から石粉が運ばれるようになった。とくに猿投山南部は石粉の主産地で、瀬戸への出荷には山口を経る長いが平坦なコースが使われ、荷が軽くなった帰路は山路から山上峠を越える最短ルートが使われたという。この馬頭観音には明治37年と刻まれていて、馬方らが休憩をとり、山道に入る前に安全を願って手を合わせていたものと思われる。
志野は桃山時代に瀬戸の陶工が美濃に移り住んで開発された、長石を主成分とする釉薬をかけた陶器で、焼成時には光沢のある白色等に発色する。
花崗岩は通常、長石、石英、雲母の小結晶からなるが、猿投山の花崗岩はしばしば巨大な長石の結晶を含み、純度の高い石粉を製造するのに有利であった。猿投山南部には多くの水車が設置され、長石を粉砕して生産された石粉は『広見長石』と呼ばれていた。水車が杵式からトロミル式にかわると生産量が拡大し、瀬戸への出荷は頻繁に行われた。広見村では100戸余りの農家が耕作を行っていたが、土地は痩せて貧しかったため、この石粉の輸送は重要な生業であった。往路は荷が重いことから馬を使うときは猿投山地を西へ迂回し、山口を経由して瀬戸へ北上した。荷が軽くなった帰路は山路を南下して山上峠を越える最短コースが選ばれた。足の遅い牛を使うときは往復ともに山上峠を越えた。瀬戸と豊田の境界に位置する山上峠は尾根が7メートルほど掘り下げられ、牛馬の安全が図られた。瀬戸へは薪炭なども頻繁に運ばれており、第二次世界大戦後、瀬戸からの食料の買い出しに、この道が使われることもあったという。加納川の中ほどにダムが造られ、道が水没したことにより、現在車両は通行できない。
またここから南東に分岐する道には津島社があり、その先は小長曽を経て藤岡地区に至るルートであり、そちらへ向かう馬方もここで一服していたとの証言がある。
「東明小学校百年誌」によると東山路町にある「馬頭観音」の名号を刻んだ石塔は明治37年(1904)12月16日に建てられたという。
東山路町にある「馬頭観音」の石塔
参考資料
石粉の道 山本龍夫 昭和63年
瀬戸市史民俗調査報告書 赤津・瀬戸地区 瀬戸市史編纂委員会 平成15年
東明小学校百年誌 瀬戸市立東明小学校百年誌編纂委員会 昭和50年
中馬街道(信州飯田街道)の中品野分岐点から南へ約600mにある県道で、赤津への分岐点は「ニョウライサンの辻呼ばれている。今は境橋を渡り品野町5丁目方面と鳥原・岩屋堂への道の分岐点だが、昔は5丁目方面からの道ではなく、南西に向かいの鳥原川を越えて赤津道(東約500m)に2基の庚申塔がある地点(窯町)との間に道があったと云われている。
ニョウライサンの辻(石塔群)
縄文時代中期の石鏃などを出土した鳥原境井遺跡に近い辻には、村中安全を祈って建てられた木ノ本地蔵(高さ78cm石造)を含む東側の石塔群と庚申塔などからなる北西側の塔堂がある。江戸期造と推定される行者・辻地蔵や井口の水神・庚申塔などもあって、村の聖地となっている。
東側の石塔群
左から 地蔵菩薩・弘法大師・三体地蔵(木ノ本地蔵)・地蔵と続き、右端に石祠があり、石室内に風化が激しい石造物が納まっている。ニョウライサンは「(薬師)如来さん」が転化した言葉とも考えられるが、尾張旭市渋川町にある直會神社(なおらいじんじゃ)は「にょうらいさま」とも呼ばれて皮膚病を治すご利益があるというので、この神社に至るみちしるべであったとも伝わっている。
北西側の塔堂
庚申塔 祠 手水石 がある。祠の中の石碑にライトを当てて調査したところ上の文字が「直」2字目が「来」であるように思われる。漢字は違っているが「なおらい」と読める。
参考文献
瀬戸市史編纂委員会編『瀬戸市史 資料編1村絵図』 中品野村
せと・まるっと環境クラブ 「岩屋堂ガイドブックⅡ改訂版」
下半田川町民会館には江戸末期から明治維新にかけて尾張藩より出されたお触書の一部が保管されている。これは村にあった高札場に掲げられたもので、今残っている現物は杉板に墨で書かれた4種類である。天保12年(1841)と記された村絵図にはこれらが掲げられていたと思われる高札場の位置も記されている。この場所は花川橋たもとの民家前であり、水野村や名古屋方面から美濃へ通じる通称笠原道と呼ばれる街道筋にあたり、人通りの多いところであったことがうかがえる。
ちなみに、この街道の一部は現在県道下半田川春日井線となっていて春日井・名古屋方面と土岐・多治見方面を結ぶ重要な通勤路である。とくに朝晩の自家用車の交通量は相当多いところとなっている。
高札場が記された村絵図はこのほかにもこれより50年ほど時代の古い寛政4年(1792)のものもある。上は慶応4年(1689)1月に高札場に掲げられた御触書で、その下の画像は町内の有識者が内容を現代文風に書き直したものである。内容は徳川慶喜が大政を朝廷へお返しして将軍の職を辞する旨願い出たにもかかわらず、それを裏切って大阪城に立てこもってしまった。それにより新政府との間に戦いが始まったが、民は平静を保ち、旧幕府方に追随することのないようにとの新政府側からの仰せを固く守りなさいという旨の通達である。
この混乱した時期の高札は何度も出されていたようで、慶応3年10月と慶応4年3月と記されたものも町民会館に保管されている。高札は今の次官通達のようなものである。上は慶応3年10月の御触書。
慶応3年といえば坂本龍馬が暗殺された年である。この高札が出されたほぼ二か月後の12月10日に坂本龍馬は京都にて暗殺されている。
山口の上之山から、広幡町を通って猿投神社に至る旧道を「さなげ道」と呼んだ。広幡町から猿投神社方面に向かうこの道を飯田裏街道ともいう。江戸時代盛んに行われた三河国三ノ宮猿投神社参拝の合宿と呼ばれた数か村の村で結成された参拝団が通った。
江戸時代、山口村から三河へ通じる道は、やくさ道とひろみ道があった。猿投神社参拝はこの分かれ道を左に折れ、坂を上り山道を広見村へ向かった。
現在では、この山道は消滅しているが、サンヒル上之山の住宅街通り抜け、三河の八草村との国境あたりの分かれ道で、左へ折れると山口観音堂、右へ折れると三河の廣見村を通り加納村から猿投神社へ向かった。
国境(愛知工業大学西付近)には三河の国から見た石づくりの道標があり、「左 せと」 「右 かんのん」と刻まれている。
『尾張年中行事絵抄』の「猿投祭礼 尾張馬 山口合宿」はこの分かれ道付近を描いたものとみられる。『尾張年中行事絵抄』では坂の中腹は山口村の標具、中央には菱野村のお木偶標具がこの分かれ道を通過中で、その後には本地村、狩宿、美濃の池、猪田、今村の各村の警護隊が続いている。
中馬は、江戸時代に信州の駄賃馬稼ぎ人たちがつくっていた同業者の組合で、「賃馬」(ちんば)などの語源と言われる。五街道などの伝馬と異なり、宿場ごとに馬を替える必要のない「付通し」あるいは「通し馬」と呼ばれる仕組みで行われた。
瀬戸街道も、馬による輸送業者の信州中馬が陶器や生活物資を運ぶのに利用した産業道路である。
尾張藩の藩祖、徳川義直の廟所(埋葬場所)が築かれている定光寺と名古屋城下を結ぶ道筋の一部が定光寺街道で、歴代の藩主が廟所を参拝する時に利用したことから、俗に「殿様街道」と呼ばれていた。
1.殿様街道の道程
この街道は、藩主たちが行列を組んで名古屋城を出立し、名古屋大曽根から信州飯田街道(瀬戸街道)を東へ進み、現在の尾張旭市城前町の「砂川(すがわ)」交差点から少し東にあった八瀬(やせ)の木の「つんぼ石」で左へ折れ、城山公園の前から濁(にごり)池の畔を通り、森林公園運動広場や乗馬場を通り抜けて、尾張旭市と瀬戸市の境にあった最初の難所の柏井(かしわい)峠へ向う。ここから水野団地を通り越し、水野川を渡って街道筋にある薬王山東光寺へ到達する。東光寺には歴代藩主のうち4人が参拝途中で休憩のため立寄ったという記録が残っている。
東光寺前を出立して、旧中水野村(三沢町1丁目)集落の北側から大平(おおひら)山(定光寺自然休養林)麓の山路をしばらく進むと、敷き詰めた石畳の急な坂道になる。この辺りは「石坂(いしざか)」と名付けられ、石坂峠までの景観は殿様街道の面影が最も色濃く残っている。
石坂峠から北へ登ると殿様街道の最大の難所である丸根(まるね)山の頂へたどり着くが、その間の正確な道筋は詳らかではない。丸根山の頂には、中部森林管理局が運営する定光寺自然休養林の大駐車場や森林交流館が設けられ、森林美豊かな行楽地となっている。尾張徇行記(おわりじゅんこうき)には丸根山の頂を「横笛嶺(よこぶえとおげ)」の名で記され、昔から庄内川や高蔵山辺りを一望に見渡せる風光明媚な景勝地とされていた。
横笛嶺から北へ向う祠堂(しどう)山の山路は東海自然歩道と重なっており、正伝(しょうでん)山の南麓で右折して道なりに進むと定光寺公園に至る。現在は正伝池を中心に定光寺公園として整備されているが、昔は正伝池の排水堰辺りに「霊亀岩(れきがん)」という巨岩があり、この石を跨ぐように板橋が架けられていた。霊亀岩橋を渡って北東へ少し進むと定光寺門前の広場に到達する。この広場は馬から降りた場所というので「下馬(げば)」と呼ばれていた。下馬には「直入(ちょくにゅう)橋(ばし)」という石橋が架けられ、そこから先は「烏石嶺(うせきりょう)」という名の九十七段の石段が続き、山門まで徒歩で登る。目的地の廟所は定光寺境内の北東最頂部に設けられている。
廟所参拝路の総道程は約六里(24km)であるが、このうち八瀬の木の「つんぼ石」から定光寺門前までの約三里(約11km)の道程が「殿様街道」と呼ばれている。ただし江戸時代の文献には殿様街道という街道名は著されておらず、定光寺街道・定光寺御道筋・御成筋・往還通りなどの様々な名称を用いて記されている。
この殿様街道の道筋は古くから存在し、古くは「笠原街道」と呼ばれ、徳川義直も遊猟時にたびたび利用した。
笠原街道は定光寺からさらに東へ延び、下半田川村を通り美濃笠原村へとつながっており、下街道の脇道ともいわれ、ここから下街道を経て中山道に通じており、祖廟参詣のための街道だけではなく、生活道路でもあった。
【石畳を敷いた石坂】
【横笛嶺(丸根山頂)の展望】
2.もう一つの殿様街道
中水野村を通る殿様街道は丘陵地帯を通過するため起伏が激しく、新居村から中水野村を経て定光寺へたどり着くまでに難所が2か所もあり、大名行列に適していなかった。
廟所造営の後の73年間は、大森村(守山区)で瀬戸街道を左折して志段味村を経て、東谷山の麓である下水野村十軒家(十軒町)から水野川渓谷沿いの旧道筋を通って下水野村入尾(鹿乗町)へ出、庄内川右岸沿いの岩割瀬(いわりぜ)を通り、正伝山の南麓を抜けて霊亀岩橋を渡り、定光寺門前へ至る道筋を利用した。
この道筋は比較的起伏が少ないこともあり「姫街道」とも称した。国道155線の山裾崖の真上に今でも道筋が残っているが、片側が断崖絶壁となり危険で通れない。
水野川の渓谷沿いには、藩主たちが名勝の目鼻(めはな)石(いし)・東門(とうもんの)滝(たき)・筆捨山(ふですてやま)を眺めて小休憩したと伝わる「御賞覧場(ごしょうらんば)」がある。
【目鼻石】
享保10年(1725)中水野村に水野大橋が整備されたので、新しい殿様街道が祖廟参拝の道路として使われることになった。
尾張藩は街道筋の村々に対して、村ごとに人足を出させるなど、橋の整備のみではなく、街道全般の整備にも力を入れていた。
二代藩主光友、三代藩主綱誠、四代藩主吉通の3人は、古い殿様街道(姫街道)を利用して祖廟を参拝したと考えられる。
3. 余話 廟所造営等
徳川義直は慶安3年5月7日(1650.6.5) 江戸麹町の市ヶ谷藩邸で死没したが、遺骸は直ちに国許へ戻り、定光寺へ運ばれ埋葬された。その後、慶安5年(1652)までの3年間をかけて二代藩主光友が廟所を完成させた。同時に霊亀岩を跨(また)ぐ「霊亀岩(れきがん)橋(ばし)」も架けられた。
昭和36年に定光寺公園の正伝池が造成される迄は、この一帯はのどかな田園風景であり、田畑の間を縫うように大洞川が流れて、定光寺門前の南西で川を堰き止めるように「霊亀岩(れきがん)」という亀の甲羅に似た巨岩が渓流に露出していた。その下流は美しい「御手洗(みたらい)川」の渓谷が続いていた。昔は霊亀岩を跨(また)ぐように、立派な板橋が架けられていたと伝わっている。霊亀岩橋は藩主専用であるから、村民は隣にあった粗末な土橋を渡ったと言われている。今はコンクリート製の模造の霊亀岩橋が架けられている。
今村東端の追分で飯田街道から分かれ、三河に通じる街道は三州街道と言われていた。三州街道は瀬戸村の十三塚を通り、瀬戸川沿いを東進すると東本町付近で東行きと南行きに分岐する。東向きのルートは、祖母懐・今坂を抜け赤津村に入り、赤津盆地の北側を通って白坂雲興寺門前を過ぎ、戸越峠を越えて戸越村飯野(現豊田市藤岡)に通じていた。飯野の先に小原村や足助村に通じていたため、三州小原道あるいは三州小原足助道と呼ばれていた。
南向きのルートは、瀬戸坂を越えて山口村に入り、大坪あたりで山口道と合流し、その南で南進する三州八草道と南東尾根筋に向かう三州広見通とに分かれている。三州八草道は挙母(現豊田市)を経て岡崎に、三州広見通は力石(現豊田市)を経て足助村に通じており、中でも後者は猿投神社への参詣道でもあった。