長江明治

ながえめいじ


明治42年(1909)7月12日~昭和10年(1935)10月17日
 南新谷の窯屋である長江芳松の長男として生まれる。昭和2年(1927)頃から叔父の6代・加藤五平らの影響から焼き物の製作を始め、昭和3年(1928)に「織部釉草花刻文大花瓶」を制作。名古屋離宮での天覧会に出品し、宮内省に買い上げられる。昭和4年(1929)に加藤寿郎らと共に「土の風景社」(昭和7年(1932)に「作陶会」と改称)を結成。昭和5年(1939)にはベルギー独立100年記念万国博覧会に出品し特別賞を受賞、また同年瀬戸市紋章案展で出品作品が市章に選ばれるなど、早くから高い評価を得るに至った。
 昭和6年(1931)には愛知県窯業学校の図案助手を務め、昭和7年(1932)には京都市陶磁器試験所に勤務するも同年10月に辞職し独立。瀬戸市茨(現・東茨町、西茨町と思われる)に工房(松葉窯)を持った。その作品は師と仰いだ藤井達吉の影響を強く受けていたと言われている。しかし経営困難によりじきに工房は閉ざされ家業へと戻った。
 昭和10年(1935)10月17日、元来病弱であった長江は、陶芸家・デザイン家として将来を期待されながら、病魔におかされ26歳で永眠した。

参考 加藤政雄『郷土に足跡を残した人々』2006年

加藤 宇助

かとう うすけ


 大正4年に古くから続く窯元に生れる。若年より作陶に長じて窯元を受け継ぎ、修練を積んだ。累代の血筋か天性の轆轤の技量は瀬戸随一と知れ渡っていた。初期の作品としては織部焼の茶道具などを製作していたが次第に古瀬戸を研究、古瀬戸様式を模範にした作品を作陶した。昭和35年(1960)には文部省文化財保護委員会より委嘱製作を受け、鎌倉時代の古瀬戸様式で古瀬戸菊唐草花紋瓶子を再現する。昭和36年(1961)指定解除に至った永仁年製瓶子を「永仁の壷」として大量に作り出すと、飛ぶように売れたという。
さらに瀬戸、美濃に伝わる伝統技法の研鑽に励み、表現としての工芸を意識して独自性の強い作品を創り出し作風を変化させていった。なかでも高い評価を受けたのは瀬戸黒茶碗であった。極めた技術力と完成度、いにしえの茶碗が持つ古格にも劣らぬ風格を備え、美や喜びを喚起してくれる作品として現代に瀬戸黒茶碗を蘇らせた。斬新な仕事としては銅緑釉を基本として、独自の碧青色を表現した青銅釉を発表、花瓶、造形的な置物.茶道具などの製作に非凡な才能を発揮した。昭和56年(1981)、65歳で他界した。

水野 権平

みずの ごんぺい


 水野氏は古代より在地支配を行う土豪で、江戸時代になってからも尾張藩に召抱えられた。水野氏は大坂の陣後、在地事情の明るさと特殊な技能である「御狩御用」をもって初代藩主義直に召しだされる。水野太左衛門致番、水野久之丞正勝、水野勘太夫正照は「水野御案内之者」をつとめる。この間に御林への関与が主体となり、そして御林奉行設置にあたってその延長として役割に携わっていく。 初代御林奉行に水野権平正秀(享保元・4・28~同16・7・9)、水野権平正興(元文4・7・23~安永4・8・13)、水野権平正恭(安永4・10・5~文化7・2・14)、水野権平正摸(寛政2・2・29~文化10・4)、水野権平正矩(文化7・2・14~天保15・4・29)、水野権平正盛(天保15・6・24~文久3・12・12)、水野権平正保(元治元・2・5~明治元・12・16)と続き、正恭・正摸は水野代官も兼ねた。また、正保は明治元年12月16日から同4年10月5日まで東方総監参謀助役をつとめた。
⇒御林方役所、水野代官所参照

麦袋

ばくたい


文久元年(1861)~昭和18年(1943)
本名、加藤友太郎。号、麦袋。明治期~昭和の戦前までを代表する瀬戸陶家の一つで古瀬戸写、黄瀬戸、瀬戸黒、織部写など、主に茶碗・茶入などの茶陶に優れた。人との接しを避け無口で変わり者として通す。門下には水野古麦などをはじめ、すぐれた瀬戸の名工を輩出している。

渡辺 幸平

わたなべ こうへい


四国讃岐高松士族で、琴々堂と号した。近世の瀬戸窯に陶彫の技法を伝えた大恩人である。高松藩の近習役在勤のとき君側の婦人に恋慕し、それが因となって国元を出奔し、京都に出で一時は銅器鋳型の製作に従事していた。その後京都清水焼の井上松兵衛方に身を寄せたこともある。松兵衛の紹介で瀬戸村加藤三平を訪ね、そこで旅装を解いた。明治5年(1872)2月12日没した。
幸平は、瀬戸では彫塑を以って、陶祖春慶翁の碑「六角陶碑」の獅子、その他多くの成績を遺している。最も仙佛・動物に長じている。幸平は、「白磁は釉に被われてその妙味は埋没してしまうので、有色の無釉粘土を喜び、瀬戸の砂防工事の堰の上に溜った、天然淘汰のタメという黄色の粘土を用い、その焼成には火焔に触れしめず、結果は褐色又は青灰色となって、高尚優雅である」としている。
渡辺幸平の墓石は、明治5年(1872)から年移って碑棹は倒れ台石は散逸していた。宝泉寺裏の無縁仏となって放置されている陶彫の大恩人渡辺幸平の基碑を復元しようと、大瀬戸の安藤が発起して、墓の碑はそのまま用い、台座には墓碑復元の記、これに各方面の協力を得て陶祖、磁祖の墓地の隣にノベリティ関係業者の浄財を得て建設。昭和35年(1960)再建法要供養を宝泉寺住職の手によって盛大に行った。

ホフマン

ほふまん


1875~1945。イタリアのトリエステ生まれ。明治37年(1904)に東京帝国大学に招かれ来日する。明治42年(1909)に帰国。その後はウイーン農科大学教授などを経て、イタリア森林省林野局の総局長となる。
かつて、尾張地方の山や丘にははげ山が広がっていた。このはげ山を復旧するため、愛知県は明治38年(1905)に東京帝国大学農科大学に設計を依頼し、その時提出されたのが、同大学雇教師アメリゴ・ホフマンが林学科学生の山崎嘉夫・弘世孝蔵の卒業論文として指導した設計書であった。愛知県は同年、弘世が設計した第2号支渓(現在の瀬戸市東印所町)について工事を行い、模範砂防工として完成させました。の工事は、ホフマンが設計を指導したためホフマン工事と呼ばれています。ホフマン工事は、山腹面への植栽は行わず、土砂の浸食や崩壊をある程度まで自然に放置し、渓流を安定した勾配に導き、渓流と山裾を固める工法で、当時オーストリア・フランスで広く用いられていた。
当時のはげ山復旧工法は、山腹面に階段を切り付け苗木を植栽する工法が広く行われていたため、ホフマン工事は定着しなかった。しかし、設計にあたって、縦断面図を作成して渓流の安定を考え、土堰堤の安定や放水路・水叩きなどの各部の大きさを計算によって求めるなど、近代科学に基礎をおく設計思想が取り入れられた。その後の治山技術の発展に大きな影響を与えた。

ワグネル

わぐねる


ゴット・フリート・ワグネルは1831年7月5日ドイツのハノーバーに生まれ、ゲッチンゲン大学を出た。明治元年(1868)、石鹸製造所設立のため長崎へ来た。明治3年(1870)佐賀藩から招かれて、有田で石炭窯の焼成法や天然呉須に代わる酸化コバルトなど各種釉薬の使用法を指導した。その後、東京大学の前身、開成所の教師となる。また、明治6年(1873)のウィーン万国博には政府の顧問として大きな足跡を残した。陶磁器の焼成に当って使われるゼーゲル式温度計も彼がドイツからもたらしたものである。瀬戸で石炭窯を築いたのは明治34年(1901)瀬戸陶器学校で、当時の校長はワグネルの指導を受けた黒田政憲であった。この石炭窯の導入により、また、陶器原料貯蓄場といわれる製土工場が大量の均一製土を供給することで、瀬戸の窯業生産力は大いに進歩した。
ワグネルは、日本陶業の父といわれ、日本の窯業界に大きな影響を与えた。ワグネルの教えを受けたものには、日本窯業界の大物が大勢いる。明治25年(1892)11月8日永眠、墓は青山墓地にある。

各務 鉱三 

かがみ こうぞう


 明治29年(1896)3月7日~昭和60年(1985)12月3日
 岐阜県土岐郡笠原村に生まれる。愛知県立陶器学校(現愛知県立瀬戸窯業高等学校)を卒業。在学中、教師であった日野厚の影響を受ける。大正4年(1915)に東京高等工業学校図案科(現東京工業大学)を卒業し、嘱託教師として奉職するが、大正8年(1919)に辞職し、同年南満州鉄道㈱に入社、満鉄中央試験所でガラスの研究に従事する。昭和2年(1927)、留学生としてドイツ国立シュトゥガルト美術工芸学校に留学。クリスタル工芸ガラス器の研究・製作を専攻する。昭和4年(1929)卒業し帰国する。翌5年東京郊外滝野川に各務クリスタル工芸硝子研究所をつくり、工芸ガラスの研究をした。昭和6年(1931)帝展初入選、昭和9年(1934)には帝展特選を受賞する。同年、東京都大田区西六郷に各務クリスタル製作所を設立し、ガラス製造の一貫作業ができる工場とした。
 昭和10年 (1935)代には、陶器学校時代の同級生であった加藤華仙の依頼を受け、中央から板谷波山などを呼び陶芸家が瀬戸で直接指導を受けられるよう尽力した。その結果入賞・入選者が多く出て隆盛を極めたことにより、瀬戸の陶芸界では高く評価されている。