加藤 章

かとう あきら


昭和38年(1963)10月1日 名誉市民に推挙
明治27年(1894)1月19日 生
昭和50年(1975)7月3日 没
 昭和8年(1933)市議会議員となり、昭和21年(1946)から市長として30有余年の長きにわたり、本市市政振興のため全力を傾注された。

 生家は磁祖の末孫といわれ、明治27年(1894)に生まれる。昭和8年(1933)の市議会議員の選挙に推されて当選して後、絶対多数の民政派議員をよく統率し、常に少数の政友会をリードして着実に市政の政策を実現していき3期を務めあげた。
加藤章市長は終戦直後の昭和21年(1946)1月、間接選挙最後の市長に選挙され地方自治法の改正による市長公選制度で自然退職となり、さらに公選初めての市長選挙に無投票で当選となり、第七代市長として就任した。翌年の新憲法発布記念事業として、総合運動場建設、公民館の建設、郷土史の編纂事業の三つの計画をたてている。政府による市町村の合理化方針により、昭和26年(1951)に水野村の合併、昭和30年(1955)には幡山村、そして昭和34年(1959)に品野町が合併編入され、今日の瀬戸市の市域が形作られることとなる。昭和38年(1963)まで4期16年間瀬戸市政を担当し、文字通り戦後の一連の民主改革と市民生活の復興期の市政に全力を尽くした市長であった。市長を辞任した同年10月の市制記念日に「名誉市民」が贈られている。昭和40年(1965)勲四等瑞宝章受章。昭和50年(1975)叙従五位。

加藤 勝野

かとう かつの


昭和39年(1964)10月1日 名誉市民に推挙
明治21年(1888)9月8日生
昭和40年(1965)11月27日 没
 昭和14年(1939)愛知縣方面委員を拝命以来、24年間にわたり、終始一貫地域社会の福祉、民生安定、児童福祉等の増進に尽くされた。

明治21年(1888)岐阜県の商家に生れる。名古屋の英和中学(現在の名中)に学び、瀬戸第一尋常小学校に7年勤める。その後大正2年(1912)より窯業原料売買を主業務とした勝野窯業原料株式会社を営む。昭和14年(1939)愛知縣方面委員になったのが奉仕事業への第一歩であり、以後没するまでの長期に渡り社会福祉事業に尽力した。民生児童委員、愛知県共同募金会瀬戸支会長、瀬戸市社会福祉協議会長を歴任した。その間、昭和35年(1960)に紺綬褒章、同年藍綬褒章を受章、さらに昭和39年(1964)社会の福祉と民生安定に尽力した功績をたたえられ瀬戸市名誉市民に選ばれた。

加藤 繁太郎

かとう しげたろう


昭和63年(1988)5月26日 名誉市民に推挙
大正6年(1917)6月18日 生
平成18年(2006)2月19日 没
 昭和38年(1963)に市長に初当選以来24年間にわたり、市政の発展と市民の福祉向上に献身的な努力をささげられた。

昭和13年(1938)に当時の名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学)を卒業後、直ちに家業の山繁合名会社を継ぎ、事業の発展にたゆまない努力を傾ける一方、青年実業家としての優れた才能とその円満な人柄は産業界においても大きな信頼を集めている。昭和22年(1947)には弱冠29歳で瀬戸陶磁器商業協同組合の理事長に就任し、更に同年瀬戸商工会議所の設立と同時に副会頭の要職に就いた。昭和32年(1957)には瀬戸輸出陶磁器完成工業組合の初代理事長に就任した。こうした実績のもと、昭和38年(1963)に瀬戸市長に初当選依頼、連続6期24年間にわたって市政を担当した。その間、本市発展の積年の夢ともいえる市域を分断する東京大学演習林の払い下げに伴う開発事業に取り組み、水野住宅団地の開発、総合運動公園としての市民公園の開発整備、水野準工団地の開発事業をはじめとして、教育施設、上下水道の整備充実、市場の統合整備、墓苑の造成、じん芥焼却場の建設、福祉施設の整備、文化センターの建設、公立陶生病院の改築、東公園、南公園の開発整備など厳しい財政事情の中、山積する大事業を積極的に推進し、行政水準の確保と市政全般にわたる均衡ある発展のため、献身的な努力をした。また、国の施設である中小企業大学校の建設誘致及び県の手による労働者研修セツター、穴田企業団地・暁工業団地、菱野団地、陶磁資料館、窯業訓練校、窯業技術センターの建設誘致など積極的な誘致推進に努め、地域の発展に多大な貢献をした。
また、愛知県市長会長、東海市長会長、そして全国市長会副会長をはじめとする各種団体の役員として地方行政の発展充実にも寄与した。
昭和58年(1983)藍綬褒章受章、昭和63年(1988)紺綬褒章受章、同年多年にわたり瀬戸市政の発展に尽くした功績により勲三等旭日中綬章を受章、瀬戸市より名誉市民に推挙された。

二宮恵一

にのみや けいいち


昭和51年(1976)8月3日 名誉市民に推挙
明治35年(1902)5月25日 生
昭和51年(1976)8月4日 没
 公立陶生病院の院長及び名誉院長として40年の長きにわたり、終始一貫地域医療の充実と振興に献身的な努力をささげられた。

昭和4年(1929)現在の名古屋大学医学部の前身である愛知医科大学を卒業する。「経腸チフスの経口免疫に関する実験的研究」で学位を授与される。昭和11年(1936)陶生病院初代院長に就任し、病院の基盤整備の為に心血を注いだ。市内にあった避病院と称する伝染病院を陶生病院に併設し、また優秀な看護婦を養成するため看護婦養成所に続いて附属准看護学院、高等看護学院を創設し、陶生病院が当地方医療の中心的存在に発展することに多大な貢献をした。昭和45年(1970)陶生病院名誉院長の職についた。また、医療関係のみではなく社会福祉にもその識見と誠意を注ぎ込み、瀬戸日赤募金委員長、愛知県共同募金会瀬戸支会長等として活躍した。昭和47年(1972)勲三等瑞宝章受章、昭和51年(1976)叙従四位。昭和51年(1976)瀬戸市名誉市民に推挙された。