テレトピア計画

てれぴあけいかく


理念/芸術豊かな創造・交流都市。~豊かな自然とともに~
本市は、平成6年6月に「第4次瀬戸市総合計画」を策定し、計画的で調和のとれた行政施策を推進している。
この計画では、将来都市像の実現に向け施策展開の方向性を定めており、そのうち「いきいきとした産業都市づくり」「誰もが安心して住めるまちづくり」「暮らしやすい地域社会づくり」「歴史の感じられる国際的な芸術、文化都市づくり」を地域の情報化により展開していくよう取り組んでいる。
このように、インターネットやCATVを活用した迅速かつ正確な情報伝達手段を構築し、行政、地域住民、地場産業等に活力を与えつつ、そのまちが築き上げてきた歴史や文化、蓄積してきた人的・物的な資源を後世に受け継ぐとともに、既存資源を活用した個性あるまちづくりを行うこととしていく。
本テレトピア計画は、これらの施策を推進支援する情報化計画として位置づけ、地域情報化に積極的に取り組むものとする。
なお、社会情勢や地域情報化に取り巻く環境の変化に対応できる計画とするため、本テレトピア計画は5年毎に見直すこととする。

公設民営保育園

こうせつみんえいほいくえん


建物や土地は町の財産としたまま、保育園の運営を社会福祉法人に委託することです。保護者の多様化するニーズに、柔軟かつ速やかに対応することが可能な社会福祉法人などへ運営を委託して保育事業を行ってもらう方法が良いと考えています。
 また、行政改革を進めるなかで、住民サービスにおける公営サービスと民間サービスの役割分担を進めることになります。一方では、双方が競い合うことで、本町の保育レベルが向上することも期待しています。

産学官連携

さんがくかんれんけい


共同研究などの交流を通じて大学や研究機関等において生み出された技術やノウハウを民間企業において産業化へ結びつける営みであり、産学官連携を推進することにより資金、設備、技術開発の方法など、研究開発資源に不安がある企業においても、外部資源を活用した効率的な研究開発を進めることが可能になります。また、大学や研究機関等においても産業界のニーズを的確に反映した研究を行うことができるメリットがあります。名古屋工業大学と産学官連携を進めています。

瀬戸いきいきビジョン21

せといきいきびじょんにじゅういち


瀬戸いきいきビジョン21、1988年(昭和63年)策定。1987年(昭和62年)瀬戸活性化ビジョン策定調査要綱を制定。その後市民・学識経験者・議会関係者・行政関係者・担当市議員により意向調査・ヒアリング等を行い。「出あい・語らい・みんなの手」瀬戸いきいきビジョンを策定し、活性化への5つの課題を提言、それを5大プロジェクトへと発展させた。
まず地場産業都市の新展開として、情報センターとデザインセンターを核とする「産業センター」を整備し陶磁器産業と観光を始めとするサービス業・商業との融合を図り各種情報をセンターへフィードバックする総合的な産業情報機能の充実を図る『産業センター構想』が生まれた。次に、伝統文化の継承と活用という課題で赤津地区に、世界窯業博物館・陶芸の里・やきものレジャーランドを整備し、イベントの開催や各国の陶芸文化のネットワーク化を図り陶磁器を中心とした世界的な文化情報の交流拠点とする『世界陶芸の森構想』へと発展した。また、感性豊かなまちなみの創出という課題より、新瀬戸駅から尾張瀬戸駅を経て陶祖公園に至る地域に瀬戸川をシンボルとし、それを軸に快適なプロムナードを設け周辺の市街地改造や公共施設を整備し瀬戸らしいさわやかな、潤いのあるまちなみを創出する『瀬戸川文化プロムナード構想』へと発展した。そして、豊かな自然とレクリエーション機能の調和という課題から、定光寺周辺の丘陵地帯をさらに開発し、めいそうの森・くつろぎの広場・宿泊施設・スポーツゾーンなどを整備し、より魅力的で質の高いリゾート施設を作る、『定光寺フォレスト構想』へと発展した。最後に産業技術の集積という課題より「あいち学術研究開発ゾーン」を拠点とし、大学・公的試験研究機関・デザイン教育機関・次世代先端産業等の誘致に努め産業の多角化を図る『瀬戸リサーチパーク構想』へと発展した。
以上5大プロジェクトを西暦2000年を一応のめどに、市民主導のもとこのビジョンを展開している。

瀬戸市民憲章

せとしみんけんしょう


昭和54年(1979)10月1日制定
わたくしたちは、「やきもののまち」として発展してきた輝かしい歴史と、限りない未来を持つ瀬戸市民です。
わたくしたちは、いっそう心ゆたかな住みよいまちづくりをめざし、ここに市民憲章を定めます。
わたくしたち瀬戸市民は
1 自然を大切にし、産業をのばし、豊かなまちをつくりましょう。
1 きまりを守り、心のかようまちをつくりましょう。
1 元気に働き、明るく幸せなまちをつくりましょう。
1 若い力を育て、希望とやすらぎのあるまちをつくりましょう。
1 スポーツに親しみ、教養を高め、すぐれた文化のまちをつくりましょう。

市民憲章の制定は、瀬戸市制50周年記念事業の中でもきわめて意義深いものの一つにあげられ、市民の代表28人で構成された「市民憲章制定委員会(加藤晃委員長)」で成文化された。成文にあたっては、広報せとの呼びかけでお寄せいただいたアイデアやご意見もとりあげられている。
市民憲章は、前文と5項目の本文からなり、昭和54年(1979)10月1日の市制施行50周年記念式で発表、正式に制定された。

健康都市宣言

けんこうとしせんげん


平成元年(1989)9月19日議決
わたしたちのまちは「せともののせと」として知られ、輝かしい伝統にひとりひとりが誇りをもち、郷土を愛しつづけてきました。
わたしたちは、人と自然と文化と産業の調和のなかで、希望に満ちた「いきいき健康都市瀬戸」の実現に向け、
心ゆたかに生活できるよろこびを
元気に生活できるよろこびを
明るいまちで生活できるよろこびを
を合言葉に努力することを宣言します。

市民が健康で明るい生活がおくれるようにと願い、行政各分野で健康づくりについての事業を全市的に進めるとともに、市民一人ひとりが健康について一緒になって考え、活動して意識の向上をめざし、健康の輪を広め、生き生きとした心ふれあう街づくりを進めていくもの。
健康都市宣言をするにあたり、その記念事業の一つとして作文・標語・健康づくりへの提言(小論文)が募集された。また11月23日、文化センターで健康都市宣言記念「健康フェスティバル」が盛大に行われた。水無瀬中学校の生徒三人による健康都市宣言があった後、色とりどりのユニホームを身につけた市民健康グループの皆さんによるエアロビックなどが発表された。

 半世紀以上も以前の瀬戸市には「結核の都」などという有難くない名が冠せられた歴史があった。昭和25年(1950)市役所発行『瀬戸市』の結核対策に載る。それによれば、ここ5ヶ年の結核死亡者は年平均120人、人口1万人当たり28人で全国平均(昭和22年(1947))の1.47倍、愛知県の1.55倍であった。内、21歳から30歳の青年期の占める割合が40%にも当たり、同年齢の70%にもなるのである。その原因は本市の環境にあり、①媒煙や粉塵の多い生活環境 ②住宅と工場が混在し ③住宅の周囲に空地や緑が少ないことなどをあげている。
 そこで瀬戸市が取り組んだのが「青年健康調査」であった。昭和25年(1950)に市青年健康調査条例を制定し、20歳の男子と18歳の女子全員が公立陶生病院で健康診断できるようにした。この年は10月18日から26日まで実施、男女928名が受診(受診率80.5%)した。そこで結核を含む病気の早期発見が狙いであった。このような全員公費による健診方式は、当時富山県下の事例に次ぐ全国二例目であったが、昭和44年(1969)まで毎年続けられたのである(翌年からは40歳以上の成人病検査に切り替え)。粋なところは、健康優良者男女40名を選び、教養テストを行った後に「ミスター健康」と「ミス健康」を選抜、翌年の成年祭(後成人式)に各10名を顕彰していることである。
 昭和25(1950)年度に厚生省は全国2万ベッドの結核療養施設の建設事業を実施した。結核都市の汚名が幸いして瀬戸市に100ベッドが割り当てられ、結核治療に取り組んでいた陶生病院にこの療養施設が建設された。瀬戸の町から結核を追放する全市的取り組みは確実に成果を生み、その後結核患者数は激減したのである。
 その後の医療機関は児童の体位向上やじん肺への取り組みにも努力している。市民がいつでも病院にかけつけることができる「当直医制度」を全国にさきがけて実施したのも瀬戸の医師会であった。戦後の健康保険制度の普及により医療需要が増大、昼夜・休日を問わず来院する患者と一方で医師自身の健康管理のためにとった対策だった。昭和28年(1953)11月より、週日・休日問わず全日と通して内科・外科・小児科・産婦人科の医療機関各一ヶ所で診察する。公立陶生病院は各科を問わず医師1名常置するというものであった。昭和34年(1959)には旭町(尾張旭市)も地区1名の当直医師を配置、後に両地域一体化の制度として今日まで継続している。(参考『瀬戸市史・通史編下』)
市民の「安心」と「安全」を保障すること、市政の基本条件である。