瀬戸市王子沢町
洞の王子窯は11連房(戦前は14連房)の登り窯(全長70m・幅10m)であった。一の間が畳14畳大、最上段の十一の間は24畳大の広さがあった。時代の波には勝てず、昭和43年5月3日午前8時最後の火入れとなった。30人の職工が9ヶ月かかって製造した擂鉢・甕など15万個が窯詰めされた。焼き手は加納広之・敏之さん親子ら5人があたった。1週間焼き続けた松割木は1万束(燃料代は180万円)であった。こうした本業窯は1戸の経営ではなく、窯株を持った何人かの窯組合で経営してきた。時には1房を半々で所有したり、王子窯の最上段は2軒で二分・八分に仕切り、「八分窯」と称したこともあった。こうしたことも時代に合わなくなったのである。窯出しは同月18日から行われた。この最後の工程を記録した瀬戸の映像作家加藤雅巳氏が制作した「王子窯」(21分)がその年のカンヌ映画祭入賞、カナダ国際コンテストでグランプリを獲得一躍有名になった窯である。
カテゴリー: 古窯(連房式登窯)
穴田古窯跡群
あなだこようせきぐん
瀬戸市穴田町
穴田古窯跡群は旧上水野釜ノ洞に所在する。水野川の左岸(南側)の丘陵で西に開析された小支谷を利用して築窯された4基の連房式登窯によって構成されている。その内、第1号窯(昭和53年)・第2号窯(同54年)が瀬戸市史編纂のために発掘調査された。この調査で出土した遺物には、天目茶碗や丸碗、志野皿などの製品のほか、定光寺源敬公廟の焼香殿敷瓦や名古屋城二の丸庭園跡出土の花壇仕切り瓦などと類似のものが含まれており、尾張藩との関係の深さを示している。
第1号窯は約24度の北斜面を利用して築窯、残存する窯の全長(水平投影)は14.7m、10段連房の登窯である。燃焼室に続く第1室は幅1.5×奥行0.9m、第10室は幅2.5×奥行1.6mと上段程窯室が拡大する。窯詰め、窯出しなどの出入り口は向かって左側に設けられており、右側壁は恒久施設となっていた。さらに第5室から上段には左右に天井壁を支える支柱が建てられた。各焼成室は有段連房の縦狭間構造となっている。最上段の第11室は稜線で床面が奥行85cmを残して流失して煙り出し施設(本業窯ではコクドと呼ぶ)の構造は不明であった。
第2号窯は1号窯の西約30m離れて扇状に築かれていて、前庭部に続く物原を共有している。予備調査の段階から床面が露出してかなり破壊が進んでいたが、自然風化と共に、戦中・戦後の物不足時代に窯材を利用するために人為的にも破壊されたようである。2号窯の燃焼室および壁面が石積みで、しかも巨大な分炎柱を有するなど大窯様式を残す特異な構造である。少なくとも3~4回の改造が行われ、一次窯は全長18m、12の焼成室からなる床面傾斜20度前後の無段連房斜め狭間で、各焼成室の幅3.0×奥行1.6m前後、6~8本の狭間柱を有した。
これらの窯は寛文七年(1667)前後に御林方奉行所の役人屋敷を設けるにあたり、4軒の窯屋を他に移転させたとの地方文書が残されている。操業下限を知る貴重な窯跡でもある。
尾呂古窯跡群
おろこようせきぐん
瀬戸市下半田川町
尾呂窯は瀬戸市下半田川町の北端丘陵地に在る。その創業に関する記録が全く無いことから、戦前加藤唐九郎氏により「隠れ窯」と喧伝され、戦後の「尾呂茶碗」「尾呂徳利」などを求めた盗掘で大破壊を受けてしまった。
昭和59年7月、ゴルフ場造成に伴う大規模な緊急発掘調査が実施されることになり、中世山茶碗窯である半ノ木古窯跡群(約17基)中の2基、近世連房式登窯である尾呂古窯跡群(6基)が昭和61年12月まで3次にわたって調査が行われた。
比較的遺構がよく残っていた1号窯は6基中の東端に位置し、標高126~129m、30度前後の傾斜地の南斜面に立地する。全長18.2m、焼成室の最大幅170(1室)~380cm(11室)、奥行40(1室)~110cm(12室)、燃焼室(胴木間)と14連房の焼成室をもつ登窯であった。天井壁・側壁・奥壁など地上部の窯体は全て消滅していたが、狭間は粘土を詰めた匣鉢を重ねて周りを粘土で貼り付けており、狭間孔は各室6~9個で全て縦狭間構造で作られていた。出入り口は左側(6室のみ右側)であった。3回にわたって改造(4時期)された跡があった。
尾呂窯初期の焼造品(天目茶碗・銭甕・香炉など)には瀬戸系要素(赤津瓶子窯などとの類似性)が認められ、その後の焼成品の特徴は笠原鉢など隣接する美濃窯との類似性が強くなっている。創業年代は器種構成、型式上の特徴から17世紀第4四半期から18世紀前葉あたりにかけて創業したものと考えられ、その最盛期は18世紀初頭に求めることができる。
窯跡は調査終了後埋め戻され、現在は9番ホールティグランド横の斜面に保存されている。
(瀬戸市埋蔵文化財センター 「尾呂」)
かみた古窯跡群
かみたこようせきぐん
瀬戸市下半田川町
かつての国道248号線は蛇ヶ洞川に沿って山峡を通っていたが、昭和49年に上半田川地区と下半田川を直線状に結ぶバイパス工事が計画された。事前調査でかみた(上田)の丘陵中腹(標高150m)の地点2ヶ所に窯跡が確認され発掘調査が実施された。
1号窯は窯体下部がすでに流失していたが、上部の7室が残存した。残存する窯室の長さは約10m、幅は下方で4.6m、最上室で5.4mと上方に拡大する。縦狭間構造を持ち、粘土の円柱やエンゴロを用いた狭間柱は広いところで14本が確認された。窯室への出入り口は右側にあった。
2号窯はその西約30mの南西斜面に構築されていたが、煙道部(残存長約3.5×幅5.8m)が残存、エンゴロ積みによる狭間柱は15本確認されたにすぎない。
出土遺物は、1号窯では丸碗・柳茶碗・鉄釉湯呑・灯明皿・徳利類などがあり、2号窯は1号窯に連続する陶器類が下層に、中・上層からは広東茶碗・丸碗・染付皿・染付鉢・湯呑などの染付製品が主体であった。このことから、操業期間は1号窯が18世紀後半代、2号窯は19世紀前・中葉と推定される。