二宮恵一

にのみや けいいち


昭和51年(1976)8月3日 名誉市民に推挙
明治35年(1902)5月25日 生
昭和51年(1976)8月4日 没
 公立陶生病院の院長及び名誉院長として40年の長きにわたり、終始一貫地域医療の充実と振興に献身的な努力をささげられた。

昭和4年(1929)現在の名古屋大学医学部の前身である愛知医科大学を卒業する。「経腸チフスの経口免疫に関する実験的研究」で学位を授与される。昭和11年(1936)陶生病院初代院長に就任し、病院の基盤整備の為に心血を注いだ。市内にあった避病院と称する伝染病院を陶生病院に併設し、また優秀な看護婦を養成するため看護婦養成所に続いて附属准看護学院、高等看護学院を創設し、陶生病院が当地方医療の中心的存在に発展することに多大な貢献をした。昭和45年(1970)陶生病院名誉院長の職についた。また、医療関係のみではなく社会福祉にもその識見と誠意を注ぎ込み、瀬戸日赤募金委員長、愛知県共同募金会瀬戸支会長等として活躍した。昭和47年(1972)勲三等瑞宝章受章、昭和51年(1976)叙従四位。昭和51年(1976)瀬戸市名誉市民に推挙された。

加藤 繁太郎

かとう しげたろう


昭和63年(1988)5月26日 名誉市民に推挙
大正6年(1917)6月18日 生
平成18年(2006)2月19日 没
 昭和38年(1963)に市長に初当選以来24年間にわたり、市政の発展と市民の福祉向上に献身的な努力をささげられた。

昭和13年(1938)に当時の名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学)を卒業後、直ちに家業の山繁合名会社を継ぎ、事業の発展にたゆまない努力を傾ける一方、青年実業家としての優れた才能とその円満な人柄は産業界においても大きな信頼を集めている。昭和22年(1947)には弱冠29歳で瀬戸陶磁器商業協同組合の理事長に就任し、更に同年瀬戸商工会議所の設立と同時に副会頭の要職に就いた。昭和32年(1957)には瀬戸輸出陶磁器完成工業組合の初代理事長に就任した。こうした実績のもと、昭和38年(1963)に瀬戸市長に初当選依頼、連続6期24年間にわたって市政を担当した。その間、本市発展の積年の夢ともいえる市域を分断する東京大学演習林の払い下げに伴う開発事業に取り組み、水野住宅団地の開発、総合運動公園としての市民公園の開発整備、水野準工団地の開発事業をはじめとして、教育施設、上下水道の整備充実、市場の統合整備、墓苑の造成、じん芥焼却場の建設、福祉施設の整備、文化センターの建設、公立陶生病院の改築、東公園、南公園の開発整備など厳しい財政事情の中、山積する大事業を積極的に推進し、行政水準の確保と市政全般にわたる均衡ある発展のため、献身的な努力をした。また、国の施設である中小企業大学校の建設誘致及び県の手による労働者研修セツター、穴田企業団地・暁工業団地、菱野団地、陶磁資料館、窯業訓練校、窯業技術センターの建設誘致など積極的な誘致推進に努め、地域の発展に多大な貢献をした。
また、愛知県市長会長、東海市長会長、そして全国市長会副会長をはじめとする各種団体の役員として地方行政の発展充実にも寄与した。
昭和58年(1983)藍綬褒章受章、昭和63年(1988)紺綬褒章受章、同年多年にわたり瀬戸市政の発展に尽くした功績により勲三等旭日中綬章を受章、瀬戸市より名誉市民に推挙された。

加藤 勝野

かとう かつの


昭和39年(1964)10月1日 名誉市民に推挙
明治21年(1888)9月8日生
昭和40年(1965)11月27日 没
 昭和14年(1939)愛知縣方面委員を拝命以来、24年間にわたり、終始一貫地域社会の福祉、民生安定、児童福祉等の増進に尽くされた。

明治21年(1888)岐阜県の商家に生れる。名古屋の英和中学(現在の名中)に学び、瀬戸第一尋常小学校に7年勤める。その後大正2年(1912)より窯業原料売買を主業務とした勝野窯業原料株式会社を営む。昭和14年(1939)愛知縣方面委員になったのが奉仕事業への第一歩であり、以後没するまでの長期に渡り社会福祉事業に尽力した。民生児童委員、愛知県共同募金会瀬戸支会長、瀬戸市社会福祉協議会長を歴任した。その間、昭和35年(1960)に紺綬褒章、同年藍綬褒章を受章、さらに昭和39年(1964)社会の福祉と民生安定に尽力した功績をたたえられ瀬戸市名誉市民に選ばれた。

加藤 章

かとう あきら


昭和38年(1963)10月1日 名誉市民に推挙
明治27年(1894)1月19日 生
昭和50年(1975)7月3日 没
 昭和8年(1933)市議会議員となり、昭和21年(1946)から市長として30有余年の長きにわたり、本市市政振興のため全力を傾注された。

 生家は磁祖の末孫といわれ、明治27年(1894)に生まれる。昭和8年(1933)の市議会議員の選挙に推されて当選して後、絶対多数の民政派議員をよく統率し、常に少数の政友会をリードして着実に市政の政策を実現していき3期を務めあげた。
加藤章市長は終戦直後の昭和21年(1946)1月、間接選挙最後の市長に選挙され地方自治法の改正による市長公選制度で自然退職となり、さらに公選初めての市長選挙に無投票で当選となり、第七代市長として就任した。翌年の新憲法発布記念事業として、総合運動場建設、公民館の建設、郷土史の編纂事業の三つの計画をたてている。政府による市町村の合理化方針により、昭和26年(1951)に水野村の合併、昭和30年(1955)には幡山村、そして昭和34年(1959)に品野町が合併編入され、今日の瀬戸市の市域が形作られることとなる。昭和38年(1963)まで4期16年間瀬戸市政を担当し、文字通り戦後の一連の民主改革と市民生活の復興期の市政に全力を尽くした市長であった。市長を辞任した同年10月の市制記念日に「名誉市民」が贈られている。昭和40年(1965)勲四等瑞宝章受章。昭和50年(1975)叙従五位。

水野 憲吾

みずの けんご


昭和32年(1957)11月1日 名誉市民に推挙
明治6年(1873)9月27日 生
昭和33年(1958)12月5日 没
 明治40年(1907)瀬戸町議会議員に当選以来、市議会議員、市長として30有余年の長きにわたり本市市政振興のため全力を傾注された。

瀬戸陶磁工商同業組合商業部長、同副組長を長年務め、組合の充実向上に努めた。また、町会議員として20有余年を以て市制施行に際し町政功労者として表彰、昭和4年(1929)11月15日初代議長に就任、昭和8年(1933)11月17日には再度第三代の議長に就任している。
瀬戸市では、これまで県官吏出身者や他の市町村の吏員経験者など、市の外部から市長が選ばれるのが続いていたが、昭和14年(1939)6月11日になって、市内出身で長く市会議員や県会議員を務めてきた水野憲吾が五代市長に就任した。水野市長は、特に燃料問題、労働力問題の解決は喫緊の急務であり、その他教育施設の充実、保健衛生施設の完備、交通施設の整備拡張、下水道の築造等の諸課題の実現を掲げたが、水野市政の開始直後、市を取り巻く状況は大きく変動した。昭和14年9月、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発、昭和16年(1941)12月1日、それまでの日米交渉が決裂すると、日本は御前会議で対英米戦争を決定、同8日にはハワイ真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入した。これを受け、全国で一斉に国民の戦意高揚のための事業が展開される。こうしたなか、水野市長は任期満了をもって辞任した。

忠霊塔

ちゅれいとう


窯神神社の東側の御亭山に現在、忠霊塔(忠魂碑)がある。かつては現在のJRバス記念橋の場所にあった。1939年(昭和14年)発行の瀬戸読本に次のように記されている。忠魂碑:一、国の富をつくるてふ名に負ふ瀬戸の市中に桜若木に包まれて屹然立てり忠魂碑 二、日清役を始めとし聖戦ここにいくそたび護国の華と散りましし英霊祀る忠魂碑 三、右手に振ひし破邪の剣左手に高し日章旗興亜不朽の人柱勲輝く忠魂碑 四、神代このかた武に誇る日本男児の鑑にて万代不滅の光ぞと誉は高し忠魂碑 五、仰ぐ忠霊いや高く五万市民の朝夕に国の鎮めと虔みてかしこみまつる忠魂碑。

馬頭観音

ばとうかんのん


馬頭観音は、馬頭明王、馬頭金剛明王などと呼ばれ、八大明王の中にその名が見られる。大多数の造立の目的は、牛や馬、特に供養と民衆の信仰対象である。

弥蔵観音

やぞうかんのん


古瀬戸小学校の東の道を登る途中の左側に石室のように作られた祠に弥蔵観音が祭られている。もともとこの場所ではなく、300mぐらい登った弥蔵ヶ嶺というところに奉安されていた。祠から古瀬戸小学校へぬける道がつくられたときに現在の位置に移された。この弥蔵観音はできものを治す観音さまとして知られ、毎年7月18日の夜は縁日で遠近からの参詣者が多くある。この観音に願かけして全快すれば、お礼まいりに7種(7色)の菓子、または百だんごを供えることになっている。祠に向って左側に祭られている「人馬安全天保4年(1833年)巳4月吉日」と刻んだ石像が弥蔵観音である。向って右側は「慶応4年(1868年)戌辰3月〓1日恵林明可信士」と刻んだ石像が弥蔵弘法である。これは加藤親次氏の祖父弘三郎(慶応3年5月19日亡)を祭ったものである。弘三郎が「腹の痛むのは、私に頼めばなおしてやる」と遺言したところから、死亡の翌年3月21日の弘法大師の縁日に「弘法様」として祭りはじめたものである。

弥蔵観音

三地蔵

さんじぞう


洞の元市会議員・加藤新治氏宅のあたりから北へ細道を登り切った山の頂きを地蔵ヶ嶺という。頂上に立つと眼の下に拝戸の人家が見える。その処の石室のように作られた場所に祀られているのが地蔵観音である。できものを癒す観音さまとして知られ、毎年7月18日の夜は縁日になっている。向って左に祀られている「人馬安全天保四年巳四月吉日」と刻んだ石像が地蔵観音で、向って右は「慶応四年辰三月廿一日、恵林明可信士」と刻んだ石像で、これは加藤親治氏の祖父・弘三郎(慶応3年5月19日亡)を祀ったものである。弘三郎が『腹の痛むものは、私を頼めば癒してやる』と遺言したところから、死亡の翌年3月21日の弘法大師の縁日に「弘法様」として祀りはじめたものである。地蔵観音として祀られているのは、武夫の高祖母に当る人で、俗名は判らないが「梅心妙量信女、天保二年三月廿七日亡」である。博助氏宅の南に当る山の中腹に「眼墓観音」という石碑があると聞き、博助氏の案内で調べると『天明三年四月三日、快運妙慶信女』と刻まれているが、誰人を祀ったものか判らない。眼墓観音というのだから、これも眼病に苦しんだ人の遺言によって建てられたものと想像されるが、地蔵観音よりも一時代古いので、伝承も廃れ、世人からも忘れ去られたのであろう。

三地蔵

金光教雨池教会

こんこんきょうあまいけきょうかい


瀬戸市仲郷町16
昭和14年(1939)5月瀬戸教会の出社として設立。初代教会長柴田明治郎、信徒総代水野千鶴。祈念・教話毎朝6:30、10:00、夜7:30、月例祭毎月4日・14日・24日の20:00、春秋の霊祭3月・9月の第3日曜日、大祭5月9日・金光大神大祭11月9日、勧学祭3月末、越年祭年末。信徒会活動として信徒懇親会、婦人教室、青少年夏の集い等おこなっている。金光教は、全人類救済のために天地金乃神より差し向けられた教祖金光大神によって開かれた「氏子あっての神、神あっての氏子、あいよかけよで立ち行く」「取次」の道である。それは、人間を「神の氏子」として大切にしていく道であり、人はひたすら取次を願い、親神の願いを受け、天地の道理に基づいた実意丁寧な生き方をし、人を助けて神となり、子々孫まで助けられる信心である。

金光教 天池教会