落合町

おちあいちょう


昭和40年5月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは下品野の一部。「落合」は水野川中流域に位置する。『尾張徇行記』に「又片草川ト鳥原川ト本郷ノ東北ニテ落合ヘリ、ココニ農屋数戸アリ、即落合島ト云」と見える。町の西端、水野川が大きく蛇行する天白山南麓はかつて落合城址で、『寛文記』には、東西53間の規模で、下品野村の西に有りと見える。
→石燈籠・瀬戸市指定建造物1基
→落合城

小田妻町

おだづまちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。昭和56年から1・2丁目がある。もとは中水野の一部。昭和40年代に水野住宅団地などの造成により大変貌した。一部が同49~59年の間にさつき台1~5丁目・すみれ台1~5丁目・ひまわり台1~5丁目・はぎの台1~4丁目・ききょう台1~3丁目・ゆりの台・日の出町・本郷町・北松山1~2丁目・上松山町1~2丁目・北脇町・松原町・山手町・水南町・東横山町となる。
→地下軍需工場跡
→水野団地

大坪町

おおつぼちょう


昭和56年3月31日、大字名を廃止し町名を設定。もとは山口の一部。一帯は条理制が施行された地。地名も条理に由来する。大坪遺跡は昭和32年に調査され、円形プランの住居址、各種の石器類50個、土器片を検出した。
→集落跡・大坪遺跡

大坂町

おおさかちょう


昭和56年3月31日、大字名を廃止し町名を設定。もとは山口の一部。昭和60年八幡台1~9丁目の一部を編入。

王子沢町

おうじさわちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字仲洞。町名は瀬戸川へ流入する王子沢による。古い窯業集落の分布地で、丘陵地斜面には登り窯が構築された。
王子窯

追分町

おいわけちょう


昭和18年8月9日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部。昔の瀬戸村の街道は、この地で今村方面と水野村に分かれていたところから、この地名がつけられた。

蛭子町

えびすちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字上ノ切。明治17年頃まで、この地を通る赤津街道は足助方面へ通じる重要道路であったにもかかわらず、一里塚川には一枚の板橋しかなかった。そこで、その頃窯焼の文兵衛という人が当時商家や窯焼が10月20日に年一度の大振舞いをしていた恵比寿講をその年に限ってやめ、その費用で橋をかける策を考え、ここに橋が誕生したのである。そして、これが橋の名となり、後に町名に取り入れられたという。

馬ヶ城町

うまがじょうちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字拝戸の一部。町名は、かつて戦国期に城郭があったとされることからという。また、古窯の分布も認められる。現在水道水源地になっているが、深川神社の祭田があった。
馬ヶ城
馬ヶ城水源地・浄水場

内田町

うちだちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。1・2丁目がある。もとは下水野の一部。昭和56年三沢町・十軒町と境界変更。明治4年,(1767)に水野村は大水害に見舞われ、下水野村は山側へ避難移住した。そして村の南側を内屋敷、北側を後田と呼ぶようになった。瀬戸市に合併し、町名設定の際、両者から一字ずつとって内田町としたものである。
→古墳・四ツ谷古墳群
→古墳・荏坪古墳