明治38年(1905)4月、瀬戸~矢田間14.6kmの単線路線をフランス製のセルボレー式蒸気原動車3両が走りはじめ、翌年の明治39年(1906)1月には矢田~大曽根間が開業し全線が開通した。
明治時代、国鉄中央線の敷設が計画されたことから、瀬戸への誘致運動が行われたが残念なことに結実せず、次善の策として考えられたのが瀬戸とつながりの深い大曽根への駅設置であった。駅設置の請願に対し、国からの条件の中に、駅設置費用の負担と、瀬戸と大曽根を結ぶ鉄道の敷設が含まれていた。これを受けて、瀬戸と大曽根の有力者が集まり設立されたのが「瀬戸自動鉄道株式会社」であった。明治35年(1902)に発足したこの会社には、役員として加藤杢左衛門ら瀬戸の窯業家たちが名を連ね大きな役割を果たした。
明治39年(1906)12月、社名が「.瀬戸電気鉄道株式会社」へと変更され、さらに明治40年(1907)3月から全線電化で運転を開始した。この社名が「せとでん」の愛称の由来ともなった。
明治44年(1911)10月には、名古屋城外堀線を含む大曽根~堀川間で全通した。この年、国鉄大営根駅も開業し、国鉄中央緑への乗入れも可能となったせとでんは大きな経済成長を遂げることになる。
昭和4年(1929)12月に全線複線化を完了したが、旅客運送は比較的安定していたものの、貨物輸送は徐々に低迷していく。そして私鉄統合という当時の国策に従い、昭和14年(1939)9月、名古屋鉄道と合併し「名鉄瀬戸線」となった。
以降、名古屋の中心地・栄への地下化乗入れ、お堀電車の廃止、市街地整線の高架化などざまざまなできことを経ながら、平成17年(2005)、100周年を迎えた年には、この地で万国博覧会 愛地球博が開催され、多くの人々を乗せて走った。