伝承地 瀬戸市品野町三丁目
時代背景
今から、およそ二百年くらい前(江戸時代後期、一八〇〇年ごろ)※1のお話です。
中馬(ちゅうま)街道(かいどう)(名古屋から瀬戸をとおり、品野を経て長野県の飯田へ抜ける道)筋(すじ)にある下品野村は、山の高地にあるので、よそよりは寒さがきびしく、その年の大晦日(おおみそか)は村の人たちをふるえあがらせていました。
街道から少し西に入った中山家では、一人暮らしのお玉がこれから夕食のしたくにかかろうと、古い汚(よご)れた行灯(あんどん)(木の枠に紙をはり、中に油受けをおいて、火をともす照明(しょうめい)器具)に火をつけました。この貧(まず)しそうに見える台所に一つだけ目立つものがありました。それは、よく磨(みが)かれて黒光りのする由緒(ゆいしょ)のありそうな茶釜(ちゃがま)です。茶釜は火がかけられ、ことことと湯をたぎらせていました。
中馬街道の中山家といえば、人に知られた家でしたが十年前に主人に死なれてからは、急に貧しくなって、その日の暮らしにも困るほどになっていました。
「こんばんわ。」
と、市場屋(いちばや)の手代(てだい)(店で働く人の位。番頭-手代-小僧)の喜蔵(きぞう)が入ってきました。
「へっ、ごっさま。すまんこっちゃがけさの話ああ、今夜どうしても、何とかしてもらえんかのう。・・・」
お玉のむすこが、店の見習いの旅に出かけるときに親類の市場屋から五両(今の二十五万円くらい。)のお金を借りて行ったので、そのお金を取りに来たのです。
「主人が、やかましく言うもんで・・・。今日中に返してもらわんと、わたしが困るで、たのみますわ。」
「喜蔵さ、ぶっといてすまんけど、わたしゃ、その日のことにも困っとるで、どうにもならんがな。まあ少し待ってもらうよう、だんなにたのんでくれんかん。」
「気の毒じゃが、今日は暮れじゃでなあ・・・。わたしも、だんなに言いわけが立たんでなあ・・・。お前さんがどうにもならんというなら、何か代りになるものをもらっていこうか。」
「こんな貧乏(びんぼう)な家に、金目のものなどありゃせんがな」
あたりを見回した喜蔵は、たぎっている茶釜を見つけて、
「・・・そうじゃ、この茶釜、五両には足(た)らんが、こいつをもらっていくか。」
「・・・まあ、喜蔵さ。これはお前さ、ご先祖(せんぞ)様の大切なものじゃで・・・、ばちがあたるわな。」
「ご先祖様も何もありゃせん。今のお前さんにはいらんもんじゃ。これをよこさっせ。」
「喜蔵さ、あんまりじゃぞな、いくらなんでも・・・。この大事な茶釜を持って行ってみなされ、ええ、わしゃあ、はなしゃせんぞな。しmでも・・・。」
泣きわめきながら、ぐらぐら煮えたぎった茶釜にしがみつくお玉に、おじけづいた喜蔵は、手にした茶釜のふただけを持って走りだしました。
「喜蔵さ、ふた返せ。ふたよこせ・・・。」
半狂乱(はんきょうらん)になって泣きわめくお玉のそばに、ふたを取られた茶釜が、ふつふつとたぎって、白い湯気(ゆげ)をもうもうと立ち昇らせていました。
喜蔵から、詳しい話を聞いた市場屋の主人四郎(しろ)兵衛(べえ)は、
「喜蔵、こりゃ、ちょっとやり過ぎたなあ」
と、言いましたが、店の売りあげ勘定(かんじょう)に忙しく、そのまま過ぎてしまいました。
勘定もやっと終わって、店の者たちは年越(としこ)しのご馳走(ちそう)をいただくと、それぞれ自分たちの部屋へ、引きさがりました。
広い屋敷(やしき)から蔵(くら)の中まですっかり掃除(そうじ)を終わって、お正月の飾り付けもすませた市場屋も、九ツ(夜の十二時)を過ぎると、朝からの風音以外はしんと静まりかえっていました。昼間の仕事の疲れで、店の者はすぐに
街道の馬(うま)市(いち)を取り仕しきり、酒造りと油(あぶら)問屋(とんや)とを兼ねた品野の市場屋といえば、中馬街道でも有名な大店(おおだな)です。蔵が三戸分ぐるりと広い屋敷を取り巻き、今の国道沿いの戸田国助さん宅からココストアを経てプラット愛電館みずの(電気屋さん)あたりまで、西はずっと稲田になっている所までの人構えだったというから大したものです。
八ツ(午前二時)と思われるころ、西の蔵のあたりから、こげくさい臭いとともに、パチパチ音がしたと思う間(ま)に急に火が吹き出し、蔵は火の海となりました。南の蔵には、油が入っているから大変です。あれよあれよという間に火は燃え広がり、さすが広い市場屋も、母(おもや)屋(家の人たちが住んでいる建物)からいくつかの蔵まで、全部灰(はい)になってしまいました。そればかりか、家の中に寝ていた主人の四郎兵衛も、奥さんも、一人娘も、召し使いたちも、みんな焼け死んで、だれ一人と助かりませんでした。
街道でも有名な億万長者(おくまんちょうじゃ)の市場屋も、あっという間に燃え広がった火事のために、滅びてしまいました。火事のあった夜ふけに気が抜けたようになって、市場屋の蔵のあたりをうろつくお玉を見たという者やはげしく燃える火の中に、、
「ふた返せ。ふたよこせ。」
と、さけぶお玉の声を聞いたという者もいたので、
「つけ火だ。つけ火だ。恨(うら)みのつけ火だ。」
と、だれ言うことなく、村の人々はうわさし合って、怖(こわ)がりました。
広い焼け跡には、灰となったいくつかの白骨のなかに、例の茶釜のふたをしっかりとにぎっている骨もあったとか。・・・・
手代の喜蔵は、自分のしたことからこんな大事になり、半病人のような毎日でした。後悔(こうかい)してあやまりましたが、市場屋は元には戻りません。
品野こげても、市場屋はこげぬ
(品野の峠を越えることができても、市場屋より金持ちになることはできない)
こげぬ市場屋も 火にゃこげる
(そんな大金持ちの市場屋も、火には燃えてしまう)
億万長者の市場屋さえも
燃やしゃ 一夜で灰となる
信州通(しんしゅうかよ)いの馬子(まご)(馬を引いて人や荷物を運ぶことを仕事にしている人)たちは、街道(かいどう)名物(めいぶつ)、市場屋が滅(ほろ)びたことを悲(かな)しんで、このように歌ったということです。
その後、旅から戻って悲しんで死んだお玉のむすこと、お玉へのとむらいとして、喜蔵は小さな碑(ひ)をたてました。
市場屋屋敷から国道をへだてた小高い丘の中腹に、昔は杉の木立などありましたが、そこにささやかな碑が今でも残っていて、だれ言うとなく、「イボ」ができたらこの碑におまいりすると、不思議に取れるという言い伝えが生まれました。「いぼ神様」といって、品野坂上から窯町にぬける「やきもの小道」の途中にあり、みんながお参りして、お線香のけむりが絶えません。