伝承地 瀬戸市小田妻町
時代背景 正徳6年(1716)4月七代将軍家継は八歳で病死。将軍家の血筋が絶えたことによる、将軍職就任にまつわる伝説
今から二六〇年ほど前※1のお話です。
そのころは、江戸時代といい、将軍は七代目の徳川家継(いえつぐ)という人でした。家継は、四歳で将軍の位につき、四年ほど経っていました。ところが、家継は病弱で間もなく死んでしまいました。もちろん、後継ぎがありません。そこで八代目の将軍にだれになるか、いろいろ噂されていました。
尾張藩(今の愛知県のこと)の五代目徳川宗春(むねはる)という殿様は将軍にいちばん近い位にある人でしたので、八代将軍になるのではないかと思われていました。しかし、どういうわけか紀州(今の和歌山県のこと)の殿様の徳川吉宗(よしむね)が八代将軍に選ばれてしまいました。これを聞いた尾張藩の侍たちは、
「うちの殿様をさしおいて、紀州の殿様が将軍になるなんて・・・」
「順番からいけば、この尾張の殿様が将軍なのに・・・」と、大変怒りました。そこで、このことに不満を持っていた侍たちが、水野村に集まって、
「八代将軍を吉宗にするのは反対だ。」
「尾張の殿様を将軍にしよう。」
「八代将軍は、徳川宗春さまだ。」
「尾張から将軍を。」などと、口々に大きな声を出して、勢いのよいところを示しました。
尾張の侍たちのこうした「八代将軍吉宗反対」の行動も効き目がありませんでした。この行動は、大騒ぎだけで終わってしまいました。
その後、この騒ぎのあったところを空騒ぎのあった場所ということから、唐沢(からさわ)と呼ぶようになったということです。
今も、中水野の交差点の東あたりに、唐沢という地名が残っています。
※1 「今から三〇〇年ほど前」
徳川吉宗の将軍職補任は、享保元年(1716)8月13日。