瀬戸市萩殿町
明治後期の愛知県の2大公共工事は名古屋港築港工事と庄内川(矢田川)流域の砂防工事であったといわれる。瀬戸町と山口村の境にあった小高い丘陵上は砂防工事が見渡せる場所にあったので、多くの工事関係者・視察者が利用した。粗末な小屋が建てられたが、萩をもって小屋周りを囲ったのでいつしか「萩の茶屋」と呼ばれるようになった。
明治43(1908)年11月に東宮殿下(後大正天皇)が師団演習視察に来名、その折瀬戸へ行幸された。そして萩の茶屋において親しく砂防工事をご覧になり、若松のお手植があった。その光栄を記念するため、萩の茶屋を「萩御殿」と呼ぶようになったという。周辺には明治末期から大正時代の記念植樹の標柱が残されていたが、萩御殿の小亭とともに朽ち果ててしまった。せめてゆかりの地として後の町名設定に「萩殿町」の名が付けられた。
(『瀬戸ところどころ今昔物語』)