平成元年(1989)9月19日議決
わたしたちのまちは「せともののせと」として知られ、輝かしい伝統にひとりひとりが誇りをもち、郷土を愛しつづけてきました。
わたしたちは、人と自然と文化と産業の調和のなかで、希望に満ちた「いきいき健康都市瀬戸」の実現に向け、
心ゆたかに生活できるよろこびを
元気に生活できるよろこびを
明るいまちで生活できるよろこびを
を合言葉に努力することを宣言します。
市民が健康で明るい生活がおくれるようにと願い、行政各分野で健康づくりについての事業を全市的に進めるとともに、市民一人ひとりが健康について一緒になって考え、活動して意識の向上をめざし、健康の輪を広め、生き生きとした心ふれあう街づくりを進めていくもの。
健康都市宣言をするにあたり、その記念事業の一つとして作文・標語・健康づくりへの提言(小論文)が募集された。また11月23日、文化センターで健康都市宣言記念「健康フェスティバル」が盛大に行われた。水無瀬中学校の生徒三人による健康都市宣言があった後、色とりどりのユニホームを身につけた市民健康グループの皆さんによるエアロビックなどが発表された。
半世紀以上も以前の瀬戸市には「結核の都」などという有難くない名が冠せられた歴史があった。昭和25年(1950)市役所発行『瀬戸市』の結核対策に載る。それによれば、ここ5ヶ年の結核死亡者は年平均120人、人口1万人当たり28人で全国平均(昭和22年(1947))の1.47倍、愛知県の1.55倍であった。内、21歳から30歳の青年期の占める割合が40%にも当たり、同年齢の70%にもなるのである。その原因は本市の環境にあり、①媒煙や粉塵の多い生活環境 ②住宅と工場が混在し ③住宅の周囲に空地や緑が少ないことなどをあげている。
そこで瀬戸市が取り組んだのが「青年健康調査」であった。昭和25年(1950)に市青年健康調査条例を制定し、20歳の男子と18歳の女子全員が公立陶生病院で健康診断できるようにした。この年は10月18日から26日まで実施、男女928名が受診(受診率80.5%)した。そこで結核を含む病気の早期発見が狙いであった。このような全員公費による健診方式は、当時富山県下の事例に次ぐ全国二例目であったが、昭和44年(1969)まで毎年続けられたのである(翌年からは40歳以上の成人病検査に切り替え)。粋なところは、健康優良者男女40名を選び、教養テストを行った後に「ミスター健康」と「ミス健康」を選抜、翌年の成年祭(後成人式)に各10名を顕彰していることである。
昭和25(1950)年度に厚生省は全国2万ベッドの結核療養施設の建設事業を実施した。結核都市の汚名が幸いして瀬戸市に100ベッドが割り当てられ、結核治療に取り組んでいた陶生病院にこの療養施設が建設された。瀬戸の町から結核を追放する全市的取り組みは確実に成果を生み、その後結核患者数は激減したのである。
その後の医療機関は児童の体位向上やじん肺への取り組みにも努力している。市民がいつでも病院にかけつけることができる「当直医制度」を全国にさきがけて実施したのも瀬戸の医師会であった。戦後の健康保険制度の普及により医療需要が増大、昼夜・休日を問わず来院する患者と一方で医師自身の健康管理のためにとった対策だった。昭和28年(1953)11月より、週日・休日問わず全日と通して内科・外科・小児科・産婦人科の医療機関各一ヶ所で診察する。公立陶生病院は各科を問わず医師1名常置するというものであった。昭和34年(1959)には旭町(尾張旭市)も地区1名の当直医師を配置、後に両地域一体化の制度として今日まで継続している。(参考『瀬戸市史・通史編下』)
市民の「安心」と「安全」を保障すること、市政の基本条件である。