塚原古墳群

つかはらこふんぐん


瀬戸市若宮町2丁目
瀬戸市内には120基余の古墳が在るが、その半数近くが南部を流れる矢田川(山口川)流域に分布する。中でも山口谷奥の赤津川と海上川との合流地点の右岸(北側)丘陵、瀬戸市若宮町2丁目地内の標高150m前後の稜線を中心に多くの古墳が分布する。塚原古墳群(12基)・高塚山古墳群(3基)・山口堰堤古墳群(3基)が集中し、左岸丘陵地にも川原山古墳など6基が分布する。
昭和30年代初頭、地元の幡山東小学校の郷土史学習の一端として遺跡調査が行われ、塚原Ⅰ~7号古墳・高塚山1~3号古墳の所在が明らかにされた。さらに昭和41年には塚原1・4・6・7号墳、山口堰堤3号墳の主体部を中心とする発掘調査が行われている。
平成10年、都市計画道路瀬戸環状東部線(国道248号バイパス)が決定されたが、事業区域内に塚原古墳群が所在する事が明らかとなった。平成12年に瀬戸市埋蔵文化財センターによって試掘調査、同17年度範囲確認調査、同18年度に塚原1・4・11号墳の発掘調査が実施された。
最大級の横穴式石室をもつ第1号墳は全長7.3m、幅2.3m、高さ1.7mの規模で出土した須恵器から6世紀後半代と比定された。この古墳は歴史広場に移築保存された。
多くの須恵器や金属製品が出土しているが、古墳の規模・形式などからも、4号墳・7号墳は6世紀末から7世紀前葉、6号墳は7世紀中葉、11号墳は7世紀後葉に築造された円墳であった。
(参考文献 瀬戸市教職員考土サークル「考土」、「塚原古墳群」)

国道工事前の塚原古墳群の分布

山口八幡社古墳群

やまぐちはちまんしゃこふんぐん


瀬戸市八幡町・矢形町
旧山口村の氏神は現在山口八幡社で戦前は郷社の格をもっていた。社伝では承久の変(1221)後敗れた山田次郎重忠が山口村に落ち延び、ここに八幡宮を勧請したという。末社稲荷社は横穴式石室の中に社殿がある。この円墳が山口八幡1号墳で須恵器・金環・鉄製品が採集されている。境内には通称「杉塚」と呼ばれる古墳群がある。八幡神社の裏山の尾根上の先端部分に径15~20mの墳丘が(2号墳)、さらにその上段の尾根上に径約10mの墳丘(3号墳)が確認できる。西に隣接する本泉寺境内に本泉寺古墳(円墳)、さらにその西側に矢形古墳(滅失)が分布する。

山口八幡1号墳 石室
山口八幡3号墳

吉田・吉田奥古墳群

よしだ・よしだおくこふんぐん


瀬戸市上之山町2・吉野町・宮地町
 瀬戸市の南東部、国道155号線と県道力石名古屋線(猿投グリンロード)が交わる丘陵地に大型住宅地開発が計画された。愛知県住宅供給公社による「サンヒル上之山」である。約31.5haの造成地には吉田古墳群・吉田奥古墳群と広久手古窯跡群の一部(7基)を包蔵しており、昭和61年から事前の発掘調査が実施された。
 造成地南東部の丘陵稜線上の標高165m前後の位置に吉田奥2・3・5号墳が並ぶ。2号墳は径12mの墳丘を持つ円墳で、主体部は北西に開口した長さ4.8m、最大幅1.1m、残存高1.1mの「竪穴系横口式石室」で、玄室から須恵器の提瓶・蓋坏、鉄製刀、ガラス玉などが出土した。3号墳は砂防工事で墳丘前半分が滅失、同5号墳も石積みの一部を残すのみであった。6世紀中葉ころの築造とされた。
 なお、古墳が想定されていた4号遺跡は中世の「小規模砦跡」であった。また古墳時代前・中期の住居跡4棟、土坑1基などを検出した「吉田奥遺跡」は鍛冶遺構が発見された。
 吉田古墳群(4基)は、吉田奥古墳群が所在する丘陵の北側に位置し、標高140~150mの丘陵に立地している。粘土採掘によってすでに滅失したものが多く、尾根上に構築された2号墳が調査された。径11mの円墳で、主体部は西南西に開口した長さ5.2m、最大幅1.45mの片袖構造を有した「竪穴系横口式石室」で、天井および側壁の石積みは滅失していた。玄室は長さ3.7m、床一面に径5~15cmの円礫が敷き詰められていた。玄室からは須恵器のはそう・短頸壺、土師器の甕、刀子、菅玉、ガラス玉などが出土、これらから7世紀初頭の築造と比定された。本古墳は供給公社との協議で古墳公園に移築復元されることになった。
(参考文献 「上之山」)

駒前第1号墳

こままえだいいちごうふん


瀬戸市駒前町
 瀬戸市域の南部は山口川(矢田川)が東西に細長い沖積平野を形成、北に菱野丘陵、南に幡山丘陵が展開している。駒前第1号墳はこの幡山丘陵から段丘面に向かって小さく張り出した支丘先端の標高93mの位置に在る。仏法山寶生寺の境内裏山で、平成10年墓地造成工事の事前発掘調査が実施された。
 調査から、古墳1基とそれに伴う主体部1基、墳丘を取り巻く埴輪列が検出され、埴輪列の残存状況から瀬戸市域では始めての一辺が14mの方墳であることが確認された。小支丘の先端部の北側と西側に大量の土砂で盛り土をして墳丘を作り、0.5m~1m間隔で埴輪が配置されていた。埴輪列は円筒形埴輪を主体に、朝顔形埴輪・形象(家形)埴輪が出土した。主体部は墳丘中央やや東寄りに東西を主軸に1基構築され、全長3.3m、幅0.8~1mの粘土郭(木棺直葬)が確認された。出土遺物としては、先の埴輪類の他に蓋杯・高杯・壺・大甕などの須恵器で実年代では5世紀末葉に比定された。鉄製品では鉄刀2点、鉄斧、刀子、鉄鏃、金具類があった。
 本古墳の同一丘陵上には駒前第2号・同3号古墳が在り、いずれも円墳と考えられる。また、眼下北西150mの地点に瀬戸市史跡指定の本地大塚古墳(前方後円墳)が分布する。
(参考文献 「駒前第1号墳」)

穴田古墳群

あなだこふんぐん


瀬戸市穴田町
 県道中水野・品野線北側の丘陵内に11基の古墳群が分布した。現在は企業団地造成事業によって大半が滅失した。
 昭和44年8月、愛知県企業局による内陸用地造成事業(穴田企業団地)の事前調査として穴田第2・3・4号古墳の発掘調査が実施された。域内の西端の民地の1号墳と北端の5号墳は現状保存された。2号墳は標高138mの稜線に築かれ、東西径12m、南北11mの円墳で、横穴式石室は長さ7.1mの玄室と羨道、高さ1.1mまでの側壁と片袖形の奥壁は遺存していた。平瓶・蓋抔・高杯片と金環3個が出土した。3号墳も径12mほどの円墳であるが、石室の一部を残して大半が破壊され、出土品も残っていなかった。4号墳は天井石を除いて横穴式円墳の保存状態がよく、高さ1.5mまでの側壁・奥壁の花崗岩は残されていた。出土品は高杯・蓋杯・平瓶や金環・鉄鏃であったが、羨道の焼土面に中世の山茶碗が複数出土した。
 昭和46年・47年には穴田第6・7・8・10号墳の事前調査が実施された。第1次調査地に隣接した東側で造成事業の最中に発見されたものが多い。
 第6号墳は天井石をのぞいて比較的保存状態がよく、当時の床面には平瓶・高坏や土師壺や棺を置いたと思われる位置に15個体の鉄釘も出土している。第7号墳はその南約60mの位置に在り、6号墳と同じような平面プランと出土品の構成をもっていたが、保存状態はよくなかった。第10号墳の墳丘は自然流出していたが、玄室内からは石棺の蓋が出土している。1次調査の古墳が6世紀後葉から7世紀前葉代に比定されるのに対し、2次調査古墳群のものは7世紀中葉以降の築造と推定された。なお、穴田2号墳は愛知県森林公園植物園内に移築復元、4号墳は原位置で保存展示、6号墳は瀬戸市立南山中学校校庭内に移築復元されて保存されている。
 穴田第11号墳は貯水施設造成工事の事前調査で発見され昭和62年に発掘された。主体部は南に開口し、長さ4.8m、最大幅1.3m、残存側壁1.2mの両袖形構造の横穴式石室である。羨道は長さ2.5m、閉塞石が残存した。出土須恵器から7世紀後半代の古墳と比定された。
(参考文献 「穴田古墳群」「同 第2集」「穴田11号墳」)

四ツ谷古墳群

よつやこふんぐん


瀬戸市内田町1丁目
 瀬戸市域内には120基余の古墳が確認されているが、その半数が、水野川流域に分布する。水野川が形成した水野谷の最下流部にあるのが四ツ谷古墳群(5基)と隣接する七郎左古墳群(8基)で海抜100m前後の丘陵上に分布する。
 旧下水野四ツ谷の採石場で緊急発掘調査が行われたのが、四ツ谷3号古墳で昭和35年12月から同36年1月にかけてのことであった。比高17mの急崖上で崩落寸前の墳丘と石室が発見され、瀬戸市教職員考土サークルによって事前調査された。その結果、封土の殆どは流失しており、石室の石が散乱する状態であったが、両袖の羨道・詰石・柱石・奥壁側に丸味をもった縦長の石室・鏡石・敷石を備えた一般的な横穴式古墳であった。基盤の岩石は古生層の砂岩・粘板岩およびチャートである。石室は全長6m、主軸の方向はN30度Eで、羨道部は長さ2.2m、幅1.4m(奥)・1.3m(羨門)の側壁・床面が残存した。平瓶・提瓶・高杯などの須恵器、青銅製環や刀子などが出土した。また2次面からは四耳壺・山茶碗・小皿などの中世陶器が出土した。
 報告書中に隣接する七郎左第3号古墳(旧中水野通称七郎左所在)の情報が載る。個人宅の納屋新築中の壁土採土で須恵器(蓋付・高杯・坩など)7個体、鉄鏃15本、ガラス玉33個を採集している。石室は最下段の石積みが一部残存したが大部分は滅失していたとされる。
(参考文献 「四ツ谷三号古墳」)

荏坪古墳

えつぼこふん


瀬戸市内田町1丁目
 荏坪(えつぼ)古墳は、瀬戸市内では最も石室の遺存状態の良い古墳である。水野川右岸(北側)丘陵に分布する古墳群の中では西端に位置する。古墳は個人住宅敷地内に在り、西隣りには旧下水野村氏神八幡社も在る。
 石室は横穴式石室で、棺を納める玄室とそこに至る羨道とによって構成されている。玄室の側壁、奥壁は勿論のこと天井石まで極めて良好に残っている。玄室内部の高さは2メートル以上あり、大人が立ってもなお余裕のある高さである。
 この古墳には江戸時代に和歌をよく詠む海丸という名の老人が住み、「海丸(かいまる)の穴」と呼ばれてきた。
(参考文献 『瀬戸の文化財』)

志段味古墳群(尾張戸神社古墳)

しだみこふんぐん(おわりべじんじゃこふん)


国指定史跡
瀬戸市十軒町
東谷山山頂の尾張戸神社の社が墳丘上に構築されている。尾張戸神社は旧水野村(下水野)と志談味村(上志談味)にまたがる郷社で尾張国造尾張氏の祖先を祀るとされる。境内社に中之社と南之社がありいずれも古墳域に祭られている。
名古屋市教育委員会の調査では、市内最高峰の東谷山(198m)の山頂から山裾、その西麓に広がる河岸段丘上には総数67基の古墳群が分布し「志段味古墳群」と呼称されている。尾張戸神社古墳は、墳径27.5の円墳で2段築成か、墳丘斜面に角礫を主とする葺石。テラス面に石英の敷石がある。4世紀前半代に前方後円墳の白鳥塚古墳(国史跡)とともに群中で最古の築造である。
中之社を祭る中社古墳は、墳長63.5mの前方後円墳で平面形は柄鏡形に近い。地形的な影響で主軸に対し左右非対称、後円部は3段・前方部2段築成で墳丘斜面に円礫を主とする葺石がある。後円部北側の堀割に埴輪列がきわめて良好な状態で残存する。南社古墳は、墳径30mの円墳で2段築成。斜面上段は円礫による葺石、下段は角礫による葺石、テラス面に埴輪列がある。埴輪は円筒埴輪・朝顔形埴輪・盾形埴輪がある。円筒埴輪には三角形の透孔が開けられており、中社古墳と同時期の4世紀中頃とされている。

尾張戸神社古墳