瀬戸焼に関する書で花の巻(陶工系譜)鳥の巻(雑録)風の巻(陶工銘款)月の巻(陶器図書)四巻でできている。刑部陶痴の稿本『瀬戸の花』を土台とし、加藤弓影・板野陶林がこれに新資料を加え、柴山準行の校閲を経て1902年(明治35年)脱稿し『瀬戸物』と題した。1920年(大正9年)その一部を改訂し名を『をわりの花』と改めて瀬戸陶磁器工商同業組合から発行され、1932年(昭和7年)に陶器全集刊行会がこれを複製刊行した。
カテゴリー: 歴史書物
民吉街道
たみきちかいどう
故加藤庄三氏著、加藤正高氏編による書である。庄三・正高の両氏は瀬戸へ新製染付焼の技法をもたらし磁祖と呼ばれている加藤民吉の足跡を追って九州まで幾度も赴き、多くの年月と私財を投じて調査しておられる。そして庄三氏の集め、検証された原稿をご子息である正高氏が出版されたものである。この書には磁祖と呼ばれる民吉の人間像が詳細に記されている。この書には民吉のみでなく、その時代に生きた多くの人々、例えば加藤唐左衛門や津金文左衛門、天中和尚等が述べられている。又この書は両氏の企業である愛知珪曹工業の50周年の記念として出版されている。さらには1988年(昭和63年)この書をもとに瀬戸市内の社会科教師が実際に歩かれ、ビデオの教材を作成した。
瀬戸八景集
せとはっけいしゅう
瀬戸八景集は稀にみる木版刷りの美冊である。しかし、心ある家の筺底ふかく秘蔵されて、世人の目に触れる事なく、語られる機会も少ない。又その内容が古文と、当時の能書家の筆のため解しがたい。瀬戸八景集は明治14年の刊行であったと思われる。栖雲居武貫の手によって編集され、それに加藤景登、花睡、健老の3人が校合として参与している。加藤景登は、山藤屋、加藤清助のあるじ。陶祖の碑を作り陶業につくすところが多かった人だが、傍ら風雅の道をたしなみ、自ら禅長庵を藤四郎山、陶祖の碑の傍らに営み、茶の友を語って、楽しみとしていた。武貫も瀬戸にきて禅長庵に遊ぶ1人であったが、陶祖の昔を思い、瀬戸の八景の諷詠をあつめて一集を出さんとして景登翁にはかり、花睡、健老の協力を仰いだものと思われる。内容は主として八景の発句を蒐めているが、和歌、漢詩も併せ、更に八景の絵を、地元の画家によって描かしめ、挿入されている。体載は美濃版、横綴、表紙とも25枚。瀬戸八景とは、「禅長庵暮雲」「祖母懐春雨」「深川新樹」「馬城郭公」「古瀬戸晴嵐」「宝泉寺晩鐘」「森橋納涼」「中嶋秋の月」である。
加藤唐四郎春慶翁伝来記
かとうとうしろうしゆんけいおうでんらいき
藤四郎の伝記については幾多の書物に記されているが、いずれも伝説の域を脱けないもので、歴史的(学問的)裏付けはできていない。今座右にある伝記関係のものだけを挙げても大変な数にのぼる。尾張瀬戸藤四郎一子相伝、茶器弁玉集、森田久右エ門江戸旅日記尾陽雑記、塩尻、万宝全書、瀬戸窯業の由来書、張州府誌、尾張国人物志略、張州雑志、古今名物類聚、瀬戸陶器濫觴、尾張志、陶器考、本朝陶器放証など明治以前のものでものれだけだが、明治以降になると数え切れない。瀬戸市陶原町の加藤繁氏所蔵の「加藤唐四郎春慶翁伝来記」は毛筆書きの原本で、瀬戸地方に現存する藤四郎伝記類のうち最古のものと思われる。内容は道元が野田の密蔵院に折々来たので、藤四郎が訪ねて禅門に入り、それが縁となって道元の入宋に従ったことになっている。道元の入宋は貞応二年(1223年)、密蔵院の創建は嘉暦3年(1328年)であるから入宋前の二人は会見したことになる。おしいことにこれらの記述のため瀬戸最古の文献も、史的価値は、大きく割引されねばならない。しかしこうした事は藤四郎伝記書のすべてが荷負うところの宿命である。