大坪町

おおつぼちょう


昭和56年3月31日、大字名を廃止し町名を設定。もとは山口の一部。一帯は条理制が施行された地。地名も条理に由来する。大坪遺跡は昭和32年に調査され、円形プランの住居址、各種の石器類50個、土器片を検出した。
→集落跡・大坪遺跡

鹿乗町

かのりちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは下水野の一部。地名は玉野川の対岸高蔵寺の縁起に、「本尊薬師如来は深淵より白き鹿に乗りて上がらせ給ふ霊像」とあり、鹿乗が淵と名付けられたという。昭和59年十軒町と境界変更。
→入尾城

海上町

かいしょちょう


昭和56年3月31日、大字名を廃止し町名を設定。もとは山口の一部。「尾張徇行記」には「又支邑ヲ海上洞ト云、是海上洞御林ノ麓ニアリ、本郷ヨリ十八町ホト隔山奥ニアリ」と見える。町端の物見山は『張州府志』に「云武田信玄ノ置戍ノ土塁也」と地名の由来を伝えている。
→物見山城
→古窯・広久手古窯跡群
→山口堰堤

印所町

いんぞちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字印所の一部。天保10年の村絵図には印所洞とある。安永10年,(1781)の「瀬戸惣窯屋中焼物土掘取場所留の事」に「二ヵ所,同奥印所」などと記載され、瀬戸村32か所の陶土山のうち、6か所を占めており、古くから良質の陶土を産出したことがうかがえる。「明治15年愛知縣郡町村字名調」には「インジョ」の振り仮名がある。この地は、深川神社から見て鬼門の方向にあたるところから、昔は「因所」又は「因幡」と呼んでいた。しかし、後になって住民がこの名を嫌い、印所と呼びかえるようになったと伝えられる。
東印所町
西印所町

茨町

いばらちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部。明治期、瀬戸南部の砂防大工事の際、この地にはバラ、アカシヤ等とげのある植物が群生しており、ここから茨町と呼ばれるようになったといわれる。→西茨町:明治期の瀬戸村大字瀬戸字西茨、東犬塚の各一部。
→東茨町:明治期の瀬戸村大字瀬戸字東茨の一部。

上水野町

かみみずのちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは上水野の一部。昭和56年穴田町の一部を編入。同57年穴田南第1・2号古窯跡の発掘調査が行われた。「角川地名」
水野
→水野町

掛下町

かけしたちょう


昭和56年3月31日、大字名を廃止し町名を設定。1~2丁目がある。もとは山口の一部。弘化4年の村絵図では、「蕨ヶ洞御林」の南山丘陵に薬師堂・新明宮が鎮座、丘陵から大川,(矢田川)に新明川・薬師川が流入する。菱野道沿いの新明下の集落が現在の町内で、当時8戸の農屋と「卯新田,御蔵入」の記載がある。

神川町

かみかわちょう


昭和18年8月9日、大字名を廃止し町名を設定。もとは美濃ノ池の一部。寛政5年の村絵図では、美濃之池村17戸の農家がすべて集中している地区にあたる。