上本町

かみほんまち


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは上水野の一部。江戸時代中期以降の村絵図には前山北斜面に新田島が描かれる。かつてこの地は、水野村地蔵島と呼ばれていたが、瀬戸市と合併する際、上水野町の中心地であったことから上本町としたといわれる。同59年一部が上松山町1~2丁目となる。
→地下軍需工場跡

蛭子町

えびすちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字上ノ切。明治17年頃まで、この地を通る赤津街道は足助方面へ通じる重要道路であったにもかかわらず、一里塚川には一枚の板橋しかなかった。そこで、その頃窯焼の文兵衛という人が当時商家や窯焼が10月20日に年一度の大振舞いをしていた恵比寿講をその年に限ってやめ、その費用で橋をかける策を考え、ここに橋が誕生したのである。そして、これが橋の名となり、後に町名に取り入れられたという。

川平町

かわひらちょう


昭和39年10月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは中水野の一部。名刹定光寺周辺は昭和44年定光寺自然休養林に指定された。昭和56年三沢町の一部を編入。
→大平山城

北浦町

きたうらちょう


昭和27年11月28日大字名を廃止し、町名を設定。もとは今の一部。1~4丁目がある。

川合町

かわいちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字一里塚。この地には一里塚川など三本の小川が合流するところから川合町と名付けられたといわれる。

井山町

いやまちょう


昭和40年5月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは中品野の一部。江戸期の村絵図では三国山系の末端に「井山」と見え、山麓に良く湧水したのが地名の由来という。

岩屋町

いわやちょう


昭和40年5月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは中品野・下品野の各一部。昔、名僧行基がこの岩窟内で三体の仏像を彫刻し、時の聖武天皇の平癒を祈願された。後にそのうちの一体の薬師仏を本尊として岩屋山の信仰を集めていた。この岩屋山薬師堂を略し、岩屋堂の名がつけられたといわれている。
→加藤新右衛門胸像
→今井校長之碑