田端町

たばたちょう


昭和18年8月9日、大字名を廃止し町名を設定。もとは今の一部。1~2丁目がある。昭和41・43年横山町・平町・川北町・南山町・川西町と境界変更。

仲切町

なかぎりちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字池田・前田・背戸側の一部。水野から来るのに乗越しを越えて切通しを通って来ることからここを仲切町と名付けたといわれる。
忠魂碑

せいれい町

せいれいちょう


昭和56年3月31日大字名を廃止し、町名を設定。もとは山口の一部。昭和45年私立聖霊学園の中学校・高校・短大が名古屋市より移転。以後順次学校施設が建設され、町名の由来となる学園町が誕生。同57年宝ヶ丘町の一部を編入。

末広町

すえひろちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字薬師の一部。1~3丁目がある。昔は深川神社の前の田圃で前田といったが、明治3年瀬戸地方に大雨が降り、公園橋より宮脇橋までの南側の堤が切れ、前田一帯に土砂が流入し現在の末広町が生れた。この地は始め新地といっていたが、7軒あれば町名ができるということで、松千代館の祖父等の七軒で末広町と命名したといわれている。
大正館

宝ヶ丘町

たからがおかちょう


昭和56年3月31日、大字名を廃止し町名を設定。もとは山口の一部。江戸期は瀬戸村道の瀬戸坂の登り口にあたった。戦後山口字北山にバス停を設置するにあたり、宝屋という食堂の前にできることとなったので「宝ヶ丘」と名付けられた。町名設定のとき、そのバス停名を町名にした。

杉塚町

すぎつかちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字前田の一部。大正期になると喜代川町と名が付けられたが、陶祖藤四郎の宅跡の碑附近に大杉が立っていたところから杉塚の名が生まれたといわれる。
瀬戸永泉教会礼拝堂・国登録文化財

田中町

たなかちょう


昭和56年3月31日、大字名を廃止し町名を設定。もとは山口の一部。山口川右岸の当地域は旧河道の氾濫原で、条理制遺構が見られた。古地図には多くの古塚があり、中に大将塚と呼ばれる武田信玄方の武将の山田信濃守を葬った墓と言い伝えられるものもあったが、戦後の土地改良事業で消滅した。

須原町

すはらちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字刎田・宮脇の一部。町名は須原神社があったことによる。現在の西須原は大正時代に大正町といったことこともある。

東郷町

とうごうちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、明治期の瀬戸村大字瀬戸字東郷の一部。明治初年ごろ、瀬戸村の中は、北新谷、南新谷、郷、洞に分かれて呼ばれていた。町名は郷地区の東部にあたることによる。