西米泉町

にしこめいずみちょう


昭和53年12月26日、大字名を廃止し町名を設置。もとは菱野の一部。江戸期の村絵図では、氏神(熊野社)の森の東に東島集落があり、「カマガ洞池」から引水した田の一圃ごとに知行家臣名を記載した地にあたる。

西原町

にしはらちょう


瀬戸土地改良第三工区にあたり、昭和49年11月2日に町名を設定。1・2丁目がある。もとは本地の一部。

西脇町

にしわきちょう


昭和54年12月1日、大字名を廃止し町名を設置。もとは菱野の一部。江戸期の村絵図には、西光寺の西に「西脇島」、東に「門前島」の集落が描かれている。

陶本町

とうほんちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。1丁目~6丁目がある。もとは瀬戸の一部で、1~3丁目は明治期の瀬戸村大字瀬戸字一ノ坪の一部、4・5丁目は同一ノ坪・山脇の一部、6丁目は山脇の一部。昔から、陶器の卸問屋が建ち並び、盛況を博していたところから、この地名がつけられた。明治の末から大正初期にかけて7代目加藤半一郎町長は、陶器の町としての瀬戸町隆盛を祈願するため陶原稲荷神社に信仰していた。そして、この稲荷神社の南側を陶本町、北側を元町と名付けたといわれる。

十三塚町

とみづかちょう


昭和17年2月1日、大字名を廃止し町名を設定。もとは瀬戸の一部で、東十三塚町は明治期の瀬戸村大字瀬戸字十三塚の一部、西十三塚町は十三塚・追分の一部。明治15年の内務省調べの『愛知県郡町村字名調』には、「ジュウサンヅカ」とある。十三塚は、死者の供養・境界指標・修法壇として13の列塚を築いたものをいい、全国的に分布するが、なかでも愛知県下には数多く分布する。本市の場合、現在塚は滅失して配列も不明であり、かつ、由来を説明する史料にも欠けるが、大正4年発行の『瀬戸町誌』には「町西端安戸にあり。古墳にして明なるもの十一、其二得ず。」と記載され、当時11の塚が存在したことをうかがい知ることができる。13の塚があったのか、あるいは塚の多くあることをいったものかは定かでないが、いずれにせよ十三塚が地名となった。この地付近は「瀬戸村城主加藤光泰の桜川合戦」・「今村城主松原下総守広長の若狭ヶ洞の一戦」といった戦国時代の合戦伝説があったり、長久手合戦の落武者にまつわる昔話が残っている。
東十三塚町
西十三塚町

田端町

たばたちょう


昭和18年8月9日、大字名を廃止し町名を設定。もとは今の一部。1~2丁目がある。昭和41・43年横山町・平町・川北町・南山町・川西町と境界変更。